第3話 黒瀬の見ている場所

体育の授業が終わるころには、春の校舎にも汗の匂いが染みついていた。

体育館の横に設けられた更衣スペースから、男子生徒たちが次々に廊下へ出てくる。制汗剤の甘い匂い、濡れたシャツの布地が肌に張りつく感触、開け放たれた窓から入り込む海風。窓の外では、校庭の白線が日差しを弾いていた。明るすぎる光のせいで、遠くの校舎も、鉄棒も、誰かの影も、輪郭が少しずつ薄く見える。

俺は教室へ戻る途中、何度目か分からない振り返りをしていた。

女子の更衣室へ続く廊下の先に、真白がいるはずだった。もちろん、そこへ行くわけにはいかない。行けば問題になるし、そもそも、そういう理由をつけてまで追うほどのことではない。そう思っているのに、目だけが勝手にそちらを探してしまう。

短い髪が見えないか。

白い制服の袖が、誰かの肩越しに見えないか。

昔の赤いヘアゴムが、何かの拍子に戻っていないか。

そんなものが戻っているはずはないのに、俺は探していた。

「佐伯」

後ろから呼ばれて、足が止まった。

振り返ると、黒瀬悠斗がタオルを首に掛けたまま立っていた。濡れた前髪が額に少しかかっている。体育のあいだじゅう走っていたはずなのに、息は乱れていなかった。タオルの端を片手でつまみ、もう一方の手には、誰かが落としたらしい青いリストバンドを持っている。

「それ、誰の?」

「さあ。あとで体育委員に渡す」

黒瀬はそう言って、廊下の窓際に置かれた忘れ物箱へリストバンドを入れた。箱の蓋が少しずれていたので、指先で角を揃える。机や椅子を整えてから座る癖があると、昨日の短い自己紹介で言っていた。そういう細かいところまで、いちいち乱れがない。

「何?」

俺が聞くと、黒瀬はすぐに答えなかった。

視線だけが俺の顔を一度なぞり、それから、廊下の先へ移る。真白を探していたことも、俺が何度も後ろを見ていたことも、たぶん分かっている。けれど、分かったことをそのまま口にしない。俺が自分で気づくまで、言葉を置かずに待っている。

そういう間の取り方を、俺はうまく真似できない。

沈黙があると、何かを言わなければいけないと思う。相手の顔色が少し変われば、理由を聞かなければいけないと思う。誰かの歩く速度が遅くなれば、追いついて並ばなければ、置いていかれる気がする。

黒瀬は、その逆だった。

相手が立ち止まれば、まず自分も立ち止まる。相手が視線を逸らせば、無理に顔を覗き込まない。空いた場所を、空いたままにしておける。

「おまえ、急ぐと余計にこじれるタイプだろ」

ようやく黒瀬が言った。

軽い口調だった。冗談のようにも聞こえる。けれど、目は笑っていなかった。

「何の話だよ」

「何っていうか、全体的に」

「全体的にって、便利な言葉だな」

「便利だから使ってる」

黒瀬はそこで一度、俺の横を通り過ぎようとした。俺は反射的に、彼の袖をつかみそうになった。何か言わせたかったのかもしれない。真白のことをどう見ているのか、いつから気づいていたのか、俺がそんなに分かりやすいのか。けれど、指が布地に届く前に止まった。

まただ。

触れそうで触れない距離が、今度は黒瀬とのあいだにも残った。

黒瀬は俺の手元を見たが、何も言わなかった。ただ半歩だけ横へずれ、俺が手を下ろせる場所を空けた。

「俺、そんなに変か?」

「変というより、分かりやすい」

「何が」

「白石さんを探してる」

「探してない」

「今、三回見た」

「見てない」

「じゃあ、窓の外に面白いものがあるんだな」

黒瀬は窓の外へ顔を向けた。そこには、春の風に煽られた校庭の砂と、部活勧誘の旗と、グラウンドの端でボールを拾う上級生しかいない。

俺は黙った。

黒瀬は追及しなかった。追及しないまま、タオルで首筋を拭いた。汗の水分が布に吸われ、擦れる音が小さく響く。

「……髪、切ったんだよ」

自分から言っていた。

「知ってる」

「敬語にもなった」

「それも聞こえてる」

「何があったのか、俺だけ知らない」

そこまで口にして、胸の奥に詰まっていたものが少し動いた。動いたぶんだけ、息が苦しくなる。

「小学校からずっと一緒だったんだ。家も近いし、登校も下校も、だいたい一緒で。あいつが何を好きかも、どういうときに機嫌が悪くなるかも、どんなときに笑うかも、俺は知ってるつもりだった。なのに、入学式の日から急に、はい、何か、なんて言われて。名前を呼んだだけなのに、知らない人みたいな顔をされて」

言葉が一度こぼれると、止まりにくかった。

「髪を切った理由も知らない。赤いヘアゴムを外した理由も知らない。中学の最後に、何かあったのかもしれない。でも、俺は何も聞いてない。あいつが変わったのに、俺だけその前に置いていかれたみたいで……だから、理由を知れば、元に戻せると思ったんだよ」

黒瀬は俺の話を遮らなかった。

廊下の先で、上級生が新入生に部活のビラを配っている。「見学だけでも」と大きな声が響き、その声が壁に跳ね返って、少し遠い場所から聞こえるように戻ってきた。

俺は自分の声だけが、そこから切り離されているような気がした。

「元に戻せるって、何を?」

黒瀬の問いは静かだった。

「何をって……」

「髪? 話し方? 呼び方?」

俺は返せなかった。

黒瀬は廊下の窓枠に背を預けるでもなく、壁に寄りかかるでもなく、俺と向かい合った。ただ、真正面に立ちはだかるのではなく、半歩だけ位置をずらしている。俺が逃げようと思えば逃げられる角度だった。

「おまえ、白石さんを見てるんじゃなくて、昔の席を見てるんだろ」

その言葉は、怒鳴られたわけでもないのに、胸の奥へ重く落ちた。

昔の席。

教室の窓際。小学校の登校班。中学の昇降口。坂道の途中にある自販機の前。真白が赤いヘアゴムで髪を結び直していた、その隣の場所。

俺が見ていたのは、そこにいた真白ではなく、俺が立っていた位置だったのかもしれない。

「違う」

反射的に否定した。けれど、声には力がなかった。

「俺は、真白のことを心配してる」

「うん」

「何かあったなら、聞きたいし」

「うん」

「変わった理由を知りたい。知らないままなのが嫌なんだよ」

「うん」

黒瀬は全部受け止めるように相槌を打った。否定しないことが、かえって苦しかった。

「でも、それってさ」

俺は言葉を探した。喉の奥には、さっきから言えなかった言葉が絡みついている。真白の変化を止めたい。前みたいに呼びたい。前みたいに呼ばれたい。隣に戻りたい。

どれも、聞こえのいい言葉に直せば「心配」や「大切」にできる。でも、その底には、自分が安心したいという気持ちが沈んでいた。

「前の位置に戻ってほしいってことでもあるだろ」

黒瀬が言った。

俺は顔を上げた。

「……悪いかよ」

「悪いとは言ってない」

「でも、そういう顔してる」

「どんな顔だよ」

「自分が悪いと分かってるのに、悪くない理由を探してる顔」

腹が立った。図星だったからだ。

「じゃあどうしろっていうんだよ。急に別人みたいになった相手を見て、何もするなって? 何も聞かずに、知らないふりして、向こうが話したくなるまで待てって? そんなの、ただ見捨ててるのと同じだろ」

声が大きくなった。

廊下を歩いていた生徒が、こちらをちらりと見る。黒瀬はそれに気づくと、俺の正面から少し離れ、窓際へ寄った。人目から俺を隠すような位置だった。

「見捨てるのと、待つのは違う」

黒瀬の声は、俺よりずっと小さかった。それでも、近くにいる俺にははっきり聞こえた。

「何もしないのが正しいとは思ってない。けど、相手が今は話せないことまで、こっちの不安を理由にして聞き出すのは、向き合うって言わないだろ」

「俺は聞き出そうとしてるんじゃない」

「そう思ってるところが難しいんだよ」

真白と同じことを言われた。

その一言で、怒りの形が崩れた。握っていた拳から力が抜け、指の腹に爪の跡が残っていることに気づく。

黒瀬は続けた。

「おまえは、白石さんのことを大事にしてるんだと思う。そこは嘘じゃない。だから余計に、急いでるのが見える。失いたくないから、今すぐ何とかしたい。何とかするために理由を知りたい。理由が分かれば、直せると思ってる」

「直すって言うなよ」

「じゃあ、戻す」

「それも同じだろ」

「そうだな」

黒瀬はあっさり認めた。自分の言葉を引っ込めることに、妙なためらいがない。

「おまえが戻したいと思う気持ちは、たぶん本物だ。でも、相手が戻りたいと思ってるかは別だろ」

窓から風が入ってきた。汗で湿ったシャツの背中を、冷たい空気が撫でていく。さっきまで暑かったはずなのに、急に肌寒く感じた。

「俺だけが変わってないみたいじゃん」

口にすると、声が幼くなった。

「真白は髪を切って、話し方も変えて、知らない友達を作ってる。俺だけ、赤いヘアゴムのことを覚えてて、昔のミルクティーの味を覚えてて、前はこうだったって考えてる。俺だけが、前の場所にいる」

黒瀬はすぐに返さなかった。

その沈黙は、今までの俺なら、耐えられなくなって何か別の話を始めるところだった。けれど、黒瀬の横顔を見ていると、言葉を急いで足すことができなかった。

「変わってないんじゃなくて」

しばらくして、黒瀬が言った。

「変わったことを、見ないようにしてるんじゃないか」

胸の奥が痛んだ。

黒瀬は俺の目を見なかった。見ないまま、校庭の白線を見下ろしている。

「変わった相手を見たら、自分も変わらなきゃいけなくなるから。昔のままの相手なら、昔のままの自分でいられる。隣にいた理由も、分かっていたつもりのことも、全部そのままにできる」

「……分かったように言うなよ」

「分かってない。だから、決めつけてるわけじゃない」

その言葉に、俺は何も返せなかった。

黒瀬は自分の失敗を話すようなときも、妙に淡々としていた。中学の頃、踏み込みすぎて相手を怒らせたことがある。何気ない一言で、相手が二度とその話をしなくなったことがある。そういうことを、昨日の自己紹介のあと、誰かとの雑談の中で聞いた覚えがある。

あのとき黒瀬は、笑っていた。

けれど今、その笑いが、忘れたふりをしているだけではなかったのだと分かった。痛みを知っているから、近づく速度を選んでいる。何もしないのではなく、相手が自分で言葉を出せる場所を残している。

「おまえは、待つのが嫌いなんだな」

黒瀬が言った。

「嫌いだよ」

俺は正直に答えた。

「何も言わないまま時間が過ぎるのが、一番嫌だ。時間が経てば、もっと遠くなる気がする。中学の最後の日だって、言おうと思ってたことを言えないまま終わった。だから今度は、何かしないと、本当に取り返せなくなる気がしてる」

「何を言うつもりだったんだ」

「……分からない」

「分からないのに、取り返そうとしてるのか」

「うるさいな」

「悪い」

黒瀬は少しだけ口元を緩めた。からかわれたのかと思ったが、その表情はすぐに消えた。

「でもさ。言えなかったことって、相手が待ってるとは限らないだろ」

その言葉は、俺の中学最後の放課後に触れた。

夕方の坂道。部活帰りの自転車。真白の髪を結んでいた赤いヘアゴム。俺は何かを言おうとして、結局、また明日と言った。けれど、次の日から卒業式まで、真白とまともに話す時間はなかった。

「相手が待ってないなら、もう何も言えないってことかよ」

「違う。言うなら、相手に受け取らせるためじゃなくて、自分が言うために言うんだろ」

黒瀬の言葉は、どこか不器用だった。何でも分かっているように見えるのに、自分の考えを押しつけることには慎重で、言葉の端を何度も確かめている。

「返事をもらうために言うと、相手が返事をしないことまで責めたくなる。待てないやつほど、相手のタイミングを奪うから」

俺は窓の外を見た。

校庭では、体育の授業を終えた別のクラスが、教師の指示で整列していた。生徒たちは列を作ろうとして、けれどすぐに隣とぶつかり、前後を詰めたり離れたりしている。誰かが声を張り、誰かが半歩下がる。きれいな列になるまでには、何度も立ち位置を変えなければならない。

真白の半歩を、俺はずっと勝手に埋めようとしていた。

空いた場所には、空いた理由がある。そんな当たり前のことを、俺は今まで考えたこともなかった。

「俺、そんなに急いでるか」

「かなり」

「具体的には?」

「白石さんが一人でいると、すぐ話しかける。目が合うと、相手が返事する前に次の言葉を出す。距離を取られると、その理由を聞く。理由が分からないと、さらに近づく」

「見てたのかよ」

「見える位置にいたから」

「趣味悪いな」

「人間観察が趣味なんで」

黒瀬は軽く言って、廊下の端に置かれた自動販売機へ歩き出した。会話を終わらせるためではなく、移動しながらなら俺が少し息をつけると思ったのかもしれない。

俺もついていった。

校舎の廊下は、体育館へ続く角を曲がると急に静かになった。さっきまでの運動部の声が遠ざかり、靴底が床を擦る音だけが二人分響く。窓の外の坂道は、校門へ向かってゆるやかに下っている。春の光はまだ白く、けれど午後に傾き始めたぶんだけ、窓枠の影が長く伸びていた。

黒瀬は自動販売機の前で立ち止まり、腕時計を確認した。授業が始まるまで、あと十分ほどだった。

「何飲む」

「いらない」

「顔がいらない顔じゃない」

「どんな顔だよ」

「甘いものを飲んだら、少しだけ自分を許せそうな顔」

「そんな顔あるか?」

「ある」

黒瀬は硬貨を入れ、甘すぎない炭酸を一本買った。ボタンを押すと、機械の内部で缶が落ちる音がした。続けて、もう一本を選ぶ。

「ほら」

投げられたペットボトルを、俺は両手で受け止めた。冷たさが掌に食い込む。ラベルを見ると、無糖に近いレモン味だった。

「俺、これ好きだって言ったっけ」

「言ってない」

「じゃあ、なんで」

「甘いのを持つと、昔を思い出しそうだから」

俺はペットボトルを見下ろした。

黒瀬は、あまりに自然にそう言った。慰めるでもなく、茶化すでもなく、ただ俺が今手にしているものまで見ている。

「俺は、甘いのが好きなんだよ」

「知ってる。だからそっちは自分で買え」

「なんだそれ」

「自分の好きなものまで、俺に選ばせるなよ」

思わず笑いそうになった。けれど笑いきれず、口元だけが歪んだ。

黒瀬は自分の炭酸の蓋を開けた。小さな音が静かな廊下に響く。

「佐伯」

「ん」

「白石さんに、何か言うなら、理由を聞く前に自分のことを言え」

「自分のこと?」

「どうしてほしいかじゃなくて、自分が何を怖がってるか。戻ってほしいとか、前みたいにしてほしいとか、そういうのじゃなくて」

黒瀬は一度、言葉を止めた。

「それを言えるなら、相手が答えなくても、少なくとも追い詰めるだけにはならない」

俺は炭酸のペットボトルを握った。冷たさが指先に移り、汗で湿った掌の熱を少しずつ奪っていく。

「できると思うか?」

「できるかどうかじゃないだろ」

黒瀬は階段のほうへ歩き始めた。

「やるか、また急いでこじらせるかだ」

「選択肢が雑すぎる」

「高校生活なんて、だいたい雑だよ。クラス替え、席替え、委員決め、部活勧誘。知らない人間同士を同じ箱に入れて、仲良くしろって言われる。うまくいくほうが不思議だろ」

階段の手前で、黒瀬が立ち止まった。

俺のほうへ振り返り、少しだけ顎を引く。

「でも、うまくいかないからって、前の箱に戻せるわけじゃない」

その言葉が、真白の短い髪と重なった。

戻せない。

赤いヘアゴムを結んでいた髪も、名前を呼べばすぐ返ってきた声も、何も知らずに隣へ立てた距離も。戻せないから、俺はそれを取り戻そうとしていた。戻せないものを、戻せると思い込むことで、変わった現在から目を逸らしていた。

「待てないやつほど、相手のタイミングを奪うから」

黒瀬はもう一度、その言葉を口にした。

今度は、さっきより低かった。説教ではなく、確認のように聞こえた。俺が覚えておくべきことを、無理に頭へ押し込むのではなく、手渡すような声だった。

黒瀬は階段を下り、廊下の角を曲がった。

俺はその場に残った。

手の中のペットボトルは冷たい。表面の水滴がゆっくり流れ、指のつけ根に溜まっていく。俺はその水滴を親指で拭った。拭ってしまえば消える程度のものなのに、なぜかそこへ意識が集中した。

真白の髪。

敬語。

赤いヘアゴム。

中学最後の放課後。

俺が何を奪っているのか、まだうまく言葉にはできない。ただ、真白の変化を理由にして、彼女から昔の場所へ戻る道を奪おうとしていたのかもしれない。俺が安心できる形へ、彼女を押し戻そうとしていた。

それは、つなぎ直すことではなかった。

授業開始の予鈴が鳴った。

音は階段の吹き抜けを伝って、校舎全体へ広がっていく。誰かの足音が遠くから近づき、誰かの笑い声が廊下の角で跳ねた。俺も教室へ戻らなければならない。

その前に、窓の外を見た。

坂道を下る生徒たちの群れの中に、短い髪の女子が一人いるように見えた。けれど、距離がありすぎて真白かどうかは分からない。追いかけようとは思わなかった。

確かめるために走り出したら、また同じことになる気がした。

俺はペットボトルを鞄の脇に挟み、教室へ向かって歩き始めた。急がないようにしたつもりなのに、最初の数歩はどうしても速くなった。階段を上がる途中で気づき、少しだけ歩幅を落とす。

半歩ぶん、余白を残す。

それだけのことが、今の俺にはひどく難しかった。

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