第2話 購買前の半歩

昼休みの鐘が鳴ると、教室の空気は一斉にほどけた。
椅子を引く音、机の脚が床を擦る音、誰かの笑い声。窓際では、入学式のあとから続いていた自己紹介の続きを話すグループができている。さっきまで名前と出身中学だけで結ばれていた生徒たちが、もう互いのスマホを覗き込み、表示名やアイコンの話をしていた。
奏汰は自分の机に置いた自己紹介カードを見下ろした。
好きなものの欄は、結局空白のままだった。名前と出身中学だけが、使い古したシャープペンシルの黒い線で埋まっている。空白は紙の一部にすぎないのに、そこだけ周りより白く見えた。
「佐伯、購買行く?」
斜め前の席から、黒瀬悠斗が振り返った。まだ名前を覚えたばかりの相手なのに、声のかけ方には妙な馴れ馴れしさがなかった。机の上に散らばっていたプリントを端から揃え、黒瀬は立ち上がる。
「いや、いい。ちょっと……」
奏汰は教室の後ろを見た。
真白の席は空いていた。鞄もない。昼休みが始まってすぐ、彼女は女子生徒二人と廊下へ出ていった。その背中を見てから、奏汰は五分近く机に座ったまま動けずにいた。
追いかける理由を探していたわけではない。少なくとも、自分ではそう思っていた。
「ちょっと、の先が購買なら、俺も行くけど」
「なんでついてくるんだよ」
「おまえが行く顔してるから」
黒瀬はそう言って、奏汰の返事を待たずに廊下へ出た。奏汰も遅れて立ち上がる。机の隅を指先で二度なぞり、それから手を握った。
廊下は、教室の中よりさらに騒がしかった。部活の勧誘に来た上級生が、色鮮やかなビラを配っている。吹奏楽部の金管楽器が遠くで短く鳴り、階段のほうからは運動部らしい大きな声が響いていた。窓の外に広がる瀬ノ浜市の町は、校舎の高さから見ると海まで一枚の薄い青に見えた。
その青の手前を、真白が歩いていた。
短い髪が、振り返るたびに頬の近くで揺れている。隣には、さっき一緒に教室を出た女子生徒がいた。真白は何かに笑っていた。声までは聞こえない。ただ、口元が少し動き、相手に合わせて首を傾けている。
奏汰の足が速くなった。
黒瀬は何も言わなかった。ただ、廊下の中央から壁際へ半歩ずれ、奏汰の進路を空けた。その仕草が目に入り、奏汰は一瞬だけ速度を落とした。
しかし真白が階段を下りると、また足が勝手に急いだ。
購買前には、すでに長い列ができていた。
パンの焼ける匂いが、廊下の熱気に混じっている。揚げ物の油の匂い、開けられたばかりの紙パック飲料の甘い香り、汗の混じった制服の布地。生徒たちは列を守っているようで、少しずつ前へ押し出され、列の形そのものが生き物のように伸び縮みしていた。
真白は列の中ほどにいた。
その隣に、さっきの女子生徒の姿はもうなかった。誰かに呼ばれたのか、別の列へ移ったらしい。真白は一人で、購買の窓口に並んでいる。奏汰はその後ろへついた。
すぐ前に入っただけなのに、胸の奥が大きく鳴った。
「真白」
呼ぶ直前、いつものように一拍置いてしまった。そのわずかな間に、前から誰かが押され、奏汰の肩が真白の肩に近づく。袖口が触れそうになった。
真白は、半歩だけ横へずれた。
ほんの少しだった。人の流れを避けただけにも見える。だが奏汰には、その半歩がはっきり分かった。肩と肩のあいだに、細い空白が置かれた。触れそうで触れない。手を伸ばせば届く距離なのに、伸ばしてはいけない距離。
奏汰は無意識に、その空白を埋めようとした。
すると真白も、前に詰まった生徒を避けるように、さらに半歩ずれた。背中が購買の壁に近づく。逃げ場をなくしているように見えたが、彼女の顔には焦りがなかった。ただ、必要なぶんだけ距離を取っている。
「真白、あのさ」
今度は声に出た。
真白が振り返る。髪が頬から離れ、白い首筋が一瞬だけ見えた。制服の襟と肌の境目が、春の明るさの中で妙にくっきりしている。奏汰はそこに赤いヘアゴムの跡を探しそうになり、視線を顔へ戻した。
「はい」
また、その言い方だった。
「いや、あの……」
何を聞くつもりだったのか、自分でも分からない。
髪を切った理由か。朝から敬語になった理由か。それとも、昼に何を買うのか。どれも口にすれば、今の距離をさらに押し広げる気がした。
「今日、さ」
「今日?」
「……購買、混んでるな」
真白は一度まばたきをした。
「そうですね」
会話が終わった。
列の前方で、男子生徒がパンを二つ落とした。袋が床にぶつかり、乾いた音がする。誰かが笑い、別の誰かが「取るよ」と声をかけた。そういう小さな出来事が周囲ではいくつも起きているのに、奏汰と真白のあいだだけは、音のない箱に入れられたようだった。
奏汰はスマホを取り出した。画面を点けると、クラスの連絡用に作られたグループの通知がいくつか届いている。入学式の写真を載せた生徒がいて、そこに何人もの反応がついていた。
真白の名前を探してしまう。
彼女の表示名は、以前と同じ名字と名前だった。アイコンは、見覚えのない白い花の写真に変わっている。中学の頃は、赤いヘアゴムを手首に巻いた写真だった。奏汰はその画像を、何度も見たことがある。真白が自分で撮ったのではなく、どこかの祭りで奏汰が撮ったものだった。手首の細さと赤い色だけが、画面の中央に残っていた。
名前は同じなのに、そこにいる人だけが別の場所へ移動している。
「スマホ、見ないんですか」
真白が言った。
「え?」
「さっきから画面だけ点いています」
「いや、別に。見てない」
「見ているように見えました」
「見てないって。……真白の、プロフィールが変わってたから」
言ってから、しまったと思った。
真白の指が、制服の袖口をつまんだ。白い布の端を親指で一度撫で、それから離す。
「そういうの、見てるんですね」
「クラスのやつだから、普通に出てきただけだろ」
「そうですか」
「いや、違う。違わないけど、そういう意味じゃなくて」
「どういう意味ですか」
奏汰は答えられなかった。
購買の列が一人分進んだ。前にいた生徒の背中が遠ざかり、二人も同時に足を動かす。真白は歩き出すとき、奏汰を見なかった。
「昔のアイコン、消したんだなって思っただけだ」
「昔の、というのは?」
「赤いヘアゴムのやつ」
言葉が落ちた瞬間、周囲の熱気が一段低くなったように感じた。
真白は振り返らなかった。けれど肩がわずかに固まった。短く切られた髪が首の付け根に触れ、毛先が細かく揺れる。
「覚えているんですね」
「覚えてるよ。ずっとつけてたから」
「ずっと、ではありません」
「でも、俺が知ってる真白は――」
言いかけて、止まった。
「俺が知ってる真白は」と言ったその先に、何を置くつもりだったのか。髪の長い真白。甘いミルクティーを飲む真白。名前を呼べばすぐに振り向く真白。どれも真白の一部ではあった。けれど、それだけを並べて彼女の全体にしようとしている自分の声が、急に幼く聞こえた。
真白が顔を向けた。
「今の私は、知らないんですね」
問いかけは静かだった。責める調子ではない。それがかえって奏汰を困らせた。責められれば、反論できた。そんなつもりじゃない、と言えた。だが真白は、ただ事実を置いただけだった。
「そんなことない」
「そうですか」
「だって、小学校からずっと一緒で」
「一緒にいた時間が長いことと、今の私を知っていることは、同じですか」
列の後ろから、誰かが「詰めて」と声を上げた。真白は前を向き直った。奏汰はその声に押されるように、一歩進んだ。
「違うけど……でも、急に変わったら、分からなくなるだろ」
「分からなくなったから、元に戻ってほしいんですか」
その言葉は、真白のほうが自分に言っているのか、奏汰が心の中で聞いたのか分からなかった。
「戻ってほしいとか、そういうんじゃなくて」
「違うんですか」
「……分からない」
奏汰は唇を噛んだ。分からないことを認めるのが嫌だった。真白の変化には理由があって、それを知れば、以前のように話せると思っていた。何かの原因を見つけて、そこから順番にほどいていけば、赤いヘアゴムがあった頃の距離まで戻れる。そんなふうに考えていた。
でも、彼女の首元から消えたものは、髪留めひとつではなかった。
購買の窓口に着いた。
真白は並んだ飲み物を眺め、迷いなく細い缶を取った。甘すぎない紅茶だった。奏汰の記憶にある甘いミルクティーとは違う。缶の表面に水滴がつき、彼女の指先がそれを避けるように持ち替える。
「それ、飲むの?」
「はい」
「前は、ミルクティーだっただろ」

「前は、です」
真白は店員に代金を渡した。奏汰は横から、反射的に甘いミルクティーを取った。手のひらに馴染む冷たさまで覚えている。けれど、昔と同じものを選んだことが、急に恥ずかしくなった。
「変わったんだな」
言うと、真白は缶のふたを見つめたまま答えた。
「変わりますよ」
「そんな簡単に?」
「簡単だったと思いますか」
奏汰は黙った。
購買の窓口を離れると、人の列から押し出されるように廊下の端へ移った。窓から入る風が、熱のこもった空気を少しだけ動かしている。真白は壁際に立ち、缶を両手で包んだ。奏汰とのあいだには、また半歩ぶんの空白がある。
黒瀬が少し離れたところで立ち止まっていた。いつから見ていたのか分からない。奏汰と目が合うと、何も言わず、購買の反対側にある階段を顎で示した。先に来い、という意味なのか、余計なことは言わないという意思表示なのか、判断できない。
奏汰は真白へ向き直った。
「昼、一緒に食べる?」
真白の目が一瞬だけ揺れた。
「友達と食べる予定があります」
「そっか」
「奏汰くんは?」
その呼び方に、奏汰は胸の奥を掴まれたようになった。
中学の頃、彼女はもっと短く名前を呼んでいた。声を張る必要もない近さで、机の向こうから、階段の下から、振り向きざまに。今の「奏汰くん」は、親しさを残しているのに、その親しさを勝手に使わせない響きがあった。
「俺は、黒瀬と食べる」
「そうですか」
「……真白」
「はい」
「その、さ」
また言葉が途切れた。喉の奥に、言えなかった言葉が溜まっていく。髪を切った理由を聞きたい。敬語をやめてほしい。前みたいに話してほしい。けれど、どれも自分のための言葉にしか聞こえなかった。
真白は待っていた。急かしもせず、助け舟も出さず、ただ奏汰が何を言うのかを見ている。
その沈黙に耐えられなくなったのは、奏汰のほうだった。
「……紅茶、好きだったっけ」
口にした途端、真白の表情がわずかに曇った。
「今は、好きです」
「今は?」
「前のことを、全部覚えている必要はないと思います」
言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。
真白は一度、缶の側面を親指で撫でた。水滴が指の腹で潰れ、袖口に小さな染みを作る。
「昔の私は、昔の私です。赤いゴムをつけていたことも、甘いミルクティーを飲んでいたことも、奏汰くんの隣にいるのが楽だったことも。全部、嘘ではありません。でも、それだけを理由にして、今も同じでいられると思われると……少し、苦しいです」
「苦しいって、俺が?」
「奏汰くんだけ、という意味ではありません」
真白はそこで言葉を選んだ。廊下の向こうで誰かが笑い、窓枠に風が当たって乾いた音を立てた。
「昔から知っている人には、何も説明しなくても分かってもらえると思われることがあります。でも実際は、知っているからこそ、説明しなくても決めつけられてしまう。私はそれが、嫌でした」
奏汰は缶を握りしめた。薄い金属が掌の形に沿ってへこみそうになる。
「俺は、決めつけてない」
「そう思っているところが、たぶん一番難しいです」
その言い方は、鋭くなかった。だからこそ、奏汰の中へそのまま入ってきた。
真白は前を見た。短い髪の先が、首筋の白さに沿って揺れる。触れられそうな距離なのに、触れればすぐに彼女の輪郭を壊してしまいそうだった。
「すみません。昼休み、もう行きます」
「待って」
反射的に手を伸ばしかけた。指先が真白の袖口に届く寸前で止まる。白い布地と自分の手のあいだに、ほんの数センチの空間が残った。
真白はその手を見た。
奏汰は、ゆっくり腕を下ろした。
「……ごめん。引き止めるつもりじゃなかった」
「分かっています」
「でも、何か言おうとした」
「はい」
「なのに、何を言えばいいか分からない」
真白はすぐには返事をしなかった。視線が奏汰の手元へ落ち、それから顔へ戻る。
「分からないなら、今は言わなくてもいいと思います」
「それが、俺には難しいんだよ」
「知っています」
「沈黙が嫌なんだ。何も言わないまま離れたら、そのまま本当に終わる気がする。中学の最後の日も、結局何も言えなかったから」
真白の指が、缶のふたに触れたまま止まった。
奏汰はそこで初めて、自分がずっと中学最後の放課後に取り残されていたことに気づいた。言えなかった言葉を、入学式から今日まで、真白の変化に重ねていた。彼女が何かを隠していると思い込み、理由を聞き出せば、あの日の続きを始められると信じていた。
けれど、真白にとっては、続きではなく別の朝だったのかもしれない。
「奏汰くん」
「なに」
「終わらせたいわけではありません」
真白はそれだけ言った。けれど続けて、低い声で言葉を重ねた。
「ただ、前と同じ形で続けるのは嫌です。私は、もう少し自分で決めたい。誰と話すか、どう呼ぶか、何を好きだと言うか。そういうことを、昔から知っている人の期待に合わせて決めたくないんです。奏汰くんが大事じゃないから距離を取っているわけではありません。大事だから、昔のままに戻されたくないんです」
奏汰は返事をしなかった。
今度は、沈黙を埋めなかった。真白の言葉が自分の中に沈み、底へ届くまで待った。廊下のざわめきは絶えず続いている。誰かの靴音が近づき、また遠ざかる。春の風が窓から入り、真白の髪を一度だけ揺らした。
「……分かった、とはまだ言えない」
奏汰が言うと、真白はわずかに目を伏せた。
「はい」
「でも、分かろうとはする」
「それなら、十分です」
真白はそう言って、缶を持ち直した。今度は半歩、奏汰から離れなかった。近づいたわけでもない。ただ、置かれていた空白を、それ以上広げなかった。
「じゃあ、失礼します」
「うん」
真白が歩き出す。短い髪が、背中の上で小さく揺れた。
奏汰は追わなかった。
追えば、まだ追いつける距離だった。けれど、追いつくことと、つながることは同じではない。その違いを、今日初めて身体で覚えた気がした。
黒瀬が階段の前で待っていた。手には甘すぎない炭酸のペットボトルがある。
「昼飯、逃げたな」
「逃げてない。俺が、追わなかっただけ」
「それ、だいぶ違うな」
黒瀬は笑った。奏汰は手の中の甘いミルクティーを見下ろす。缶の表面についた水滴が、指の間をゆっくり流れていく。
「なあ、黒瀬」
「ん?」
「前と同じじゃなくても、つながってるってこと、あるのかな」
黒瀬はすぐに答えなかった。階段の手すりに背を預け、窓の外の坂道を見ている。校門から続く道は、春の光を受けて白く伸びていた。人の流れがその上を行き交い、誰かの歩幅に合わせることなく、それぞれの速さで下っていく。
「あるんじゃないか」
やがて黒瀬は言った。
「同じって、止まってることだからな。変わったあとも残るもののほうが、たぶん面倒だけど本物だろ」
「急に真面目だな」
「昼飯を逃したやつに言われたくない」
黒瀬は階段を下り始めた。奏汰もその後ろへ続く。真白が行った方向とは、反対の階段だった。
手の中の甘い缶は、以前と同じ味がするはずなのに、今日は少しだけ違って感じられた。甘さの奥に、缶の金属の匂いがある。舌に残る味も、冷たさも、昔の記憶だけでは説明できない。
奏汰は一度だけ振り返った。
廊下の先に、真白の姿はもうなかった。代わりに、窓から差し込んだ春の光が、床の上に細長い白い帯をつくっている。その帯を踏まないように、奏汰は歩幅をわずかに変えた。
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