第1話 入学式の白

体育館の扉を抜けた瞬間、佐伯奏汰の視界は白く塗りつぶされた。
天井近くの窓から差し込む四月の光が、パイプ椅子の列にも、折り目のついたばかりの制服の肩にも、容赦なく降り注いでいる。埃の粒が光の筋の中で緩慢に漂い、保護者席のほうからは控えめな拍手が、校長の挨拶が始まるたびに波のように起こって、すぐに静まった。奏汰はその波に押されるようにして、自分の列を探した。
真白を見つけたのは、探す前だった。
人の頭の群れの中で、首筋だけが妙に目に入った。短く切られた髪が、うなじのあたりで揺れもせず止まっている。奏汰の記憶にある真白の髪は、もっと長くて、歩くたびに肩で跳ねて、風が吹けば頬にかかって、彼女はそれをうるさそうに耳にかけ直す癖があった。その癖の名残すら、今の彼女の後ろ姿にはなかった。
「真白」
声に出してから、しまったと思うより先に、口が勝手に動いていた。小学校の昇降口で、中学の廊下で、数えきれないほど呼んできた名前だ。呼べば、振り向く前から「なに」と返ってくるのが当たり前だった。その当たり前が、体の奥に染みついていた。
真白はすぐには振り向かなかった。
一拍――奏汰の記憶の中には存在しない長さの間があって、それから彼女はゆっくりと肩越しに顔を向けた。目が合う前に、一度まばたきをした。まるで、声をかけてきたのが本当に自分の知っている人間かどうか、確かめるみたいに。
「はい。何か」
丁寧すぎる声だった。体育館の天井に向かって伸びていく高い声ではなく、抑えて、整えて、必要な分だけ外に出したような声。奏汰はその声を、誰かの声として知らなかった。真白の声であることは分かるのに、真白の声だと思えなかった。
指先が冷たくなって、無意識に椅子の縁を撫でていた。焦ると出る癖だ。机の角、スマホの縁、何でもいい、指の下に硬いものがあるとそれをなぞってしまう。真白はそれを見ていたはずだが、何も言わず、小さく頭を下げてから、前に向き直った。
校長の式辞が始まった。奏汰は内容をほとんど聞いていなかった。耳には入っているのに、意味が頭の表面を滑って落ちていく。見ていたのは、真白の耳たぶの白さだった。髪が短くなったせいで、以前なら隠れていたはずの耳の輪郭が丸ごと見えている。そこに触れる髪がない。その事実だけが、妙に大きな意味を持って奏汰の中に居座った。
――いつから、あんな切り方になったんだろう。
中学三年の終わり、最後に会った日の真白の髪は、まだ肩まであった。赤いヘアゴムで一つにまとめて、歩くたびに揺れていた。あのゴムは、小学校の文房具店で二人で買ったものだった気がする。いや、違う。買ったのは真白一人で、奏汰はただ隣で、どれにするか選ぶのを眺めていただけだ。赤がいい、と彼女が言って、迷わずそれを選んだ。奏汰は覚えている。覚えているのに、今その輪っかは、どこにも見当たらない。
式辞が終わり、在校生代表の歓迎の言葉が続き、国歌斉唱があって、気づけば入学式は終わりに近づいていた。奏汰の手元には、式次第も、校章の色も、ほとんど何も残っていなかった。
ホームルームで配られた自己紹介カードは、薄い紙だった。名前、生年月日、出身中学、好きなもの。ありふれた欄が並んでいるだけなのに、奏汰のシャープペンシルは、名前の欄を埋めたきり止まってしまった。好きなもの、という四文字が、やけに難しい問いに見える。
隣の列で、真白は迷わずペンを動かしていた。整った字で、短く、必要なことだけを埋めていく。好きなものの欄に、彼女が何と書いたのか、奏汰の位置からは見えなかった。見ようとして身を乗り出しかけ、それがどれほど子供じみた行動か気づいて、やめた。
前なら、きっと覗き込んでいた。覗き込んで、「それ俺も好きじゃん」とか、「え、それ前と違くない」とか、気安く言葉を挟んでいた。真白はそれを、嫌がりながらも許していた。許していた、と奏汰は思っていた。今思えば、それは許されていたのではなく、ただ拒む理由を持たなかっただけなのかもしれない。
好きなもの、の欄から、奏汰の記憶は勝手に缶のミルクティーの味を引っ張り出してくる。中学の購買で、真白がいつも選んでいた甘い缶。奏汰も釣られて同じものを買うようになって、二人して同じ銘柄の缶を手に、昇降口の段差に座って飲んだ放課後が何度もあった。あの味の記憶が、今も奏汰の舌の裏にこびりついている。真白のほうにも、同じように残っているはずだと、なぜか疑ったことがなかった。
だが今、隣でペンを走らせている横顔には、その記憶を分け合っている気配がなかった。むしろ、伸ばしかけたその先の気配ごと、静かに折り畳んでしまうような硬さがあった。
ホームルームが終わり、廊下に出る生徒の流れに紛れながら、奏汰はもう一度、入学式が始まる前の光景を思い出していた。校門の前、保護者と新入生が入り混じる人垣の中で、奏汰は真白の後ろ姿を見つけていた。声をかけようとして、かけられなかった。髪が短いことに、まだそのときは動揺が追いついていなかった。ただ、首元を見て、何かが足りないと感じた。
赤いヘアゴムが、なかった。
いつもあった位置に、今は何もない。輪っかひとつ分の空白が、真白の首元をひどく細く見せていた。奏汰はその空白を、まだどう名付けていいか分からないまま、廊下の喧騒の中に押し流されていった。
誰かが肩にぶつかってきて、奏汰は我に返った。新しいクラスの、まだ名前も覚えていない誰かが、すみません、と小さく言って通り過ぎていく。廊下の窓から差し込む光はまだ白く、埃は相変わらず緩慢に漂っていて、何も変わっていないように見えるのに、奏汰の中では何かが一つ、静かに外れてしまっていた。
真白の背中は、もう遠くにあった。短い髪が、歩くたびにかすかに揺れる。昔のように肩で跳ねることはない。その揺れの小ささが、今日という日をどこまでも強く刻みつけていた。
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