第9話 商店街の坂、歩幅を合わせる

文化委員会のミーティングが終わったのは、放課後の時計がちょうど三時半を指した頃だった。
教室棟の渡り廊下を抜けて昇降口へ向かう途中、藤沢先生から言付かった掲示物の束が、俺の鞄の中で重さを主張していた。三日月灯籠祭のポスターと、商店街の各店舗への配布用チラシ。合わせて二十枚ほどの紙の束は、思ったより嵩張って、肩紐が食い込む。
「商店街まで、結構ありますね」
真白が隣で言った。
隣で、というのが、まだ少し不思議だった。昇降口で靴を履き替えるとき、俺たちは自然に並んでいた。どちらが先に声をかけたのかも覚えていない。気づけば二人分の靴音が、同じリズムで校庭の脇を抜けていた。
「坂道だから、余計に遠く感じるだけだ。歩けば二十分もかからない」
「詳しいんですね」
「毎日歩いてる道だから」
校門を抜けると、瀬ノ浜の町が丘の下に広がっていた。四月の午後は、まだ日差しが白っぽく、乾いた匂いがする。海からの風が頬をかすめ、遠くで潮の匂いがかすかに混じった。
坂道は、校門からまっすぐ商店街の方向へ下っている。アスファルトの継ぎ目に沿って、ところどころに薄い陽炎が立っていた。俺は鞄の中のプリントの重さを確かめながら、歩き出した。
真白も、半歩遅れてついてくる。
正確に言えば、半歩遅れているのではなかった。俺の歩幅のほうが、わずかに大きいだけだ。以前の俺なら、気づかないまま突き進んでいただろう。真白が置いていかれても、振り返りもせず、声だけかけて済ませていたと思う。
今は、違った。
数歩進んだところで、俺は自分の歩幅が広がっていることに気づいた。意識して、半分だけ速度を落とす。すると、真白との距離が、数センチだけ縮まった。
真白のほうも、何かに気づいたように、歩く速さをわずかに上げていた。
――ちょうど真ん中あたりで、合う。
そう思った瞬間、自分でも驚くほど、些細なことが嬉しかった。昔なら、真白のほうが俺に合わせて早足になるのが当たり前だった。遅れれば俺が待つ。待たれれば真白が急ぐ。そういう形がずっと続いていて、それを「息が合っている」と呼んでいた気がする。
けれど、それは合わせてもらっていただけだったのかもしれない。
「奏汰くん」
名前を呼ばれて、俺は顔を上げた。
「何だよ」
「さっきから、歩くのが遅いです」
「……合わせてる」
「分かっています」
真白はそう言って、少しだけ視線を落とした。坂道のアスファルトの継ぎ目を、一つ、二つと踏みながら歩く。
「前は、こうじゃなかったですよね」
「前は、俺が先に歩いて、真白が追いついてきてた」
「追いついてきていた、というより」
真白は言葉を選ぶように、一拍置いた。
「追いつかないと、置いていかれると思っていました」
その言葉は、重く沈んでいくのではなく、坂道の途中にある自販機のジュースのように、ひんやりと差し出されたものだった。俺は何も言えずに、ただ歩き続けた。
坂道の中腹に、古い自動販売機が一台、置かれていた。塗装が剥げかけた赤い筐体は、瀬ノ浜の町が今よりずっと賑やかだった頃からそこにあるのだという話を、父から聞いたことがある。
その前に、黒瀬悠斗が立っていた。
「遅かったな」
悪びれもせず、黒瀬が言った。手には缶ジュースが三本。すでに自分の分の蓋を開けていて、炭酸の泡がわずかに吹きこぼれている。
「何でここにいるんだよ」
「委員会の帰り。自販機の調子を見てただけだ」
「調子って何だよ、自販機に調子なんかあるか」
「釣り銭の出が悪いときがある」
黒瀬は真面目な顔でそう言ったが、半分は冗談だということくらい、今の俺には分かった。彼は単に、ここで俺たちを待っていただけだ。待っていた、という言い方が正確かどうかは分からないが、少なくとも、偶然だけで片づけるには、あまりにタイミングが良すぎた。
「甘いの、どうする」
黒瀬が缶を二本、俺たちのほうへ差し出した。
その瞬間、俺の手が勝手に動きかけた。甘い缶ミルクティーを、真白の分として先に受け取ろうとする手だった。昔、購買でも、祭りの屋台でも、俺が真白の好きなものを先に選んで渡していた。それが優しさだと、ずっと疑わなかった。
手を止めたのは、黒瀬の視線だった。彼は俺の動きを見て、何も言わずに、ただ缶を持ったまま待っていた。急かさない。どちらに渡すかを、俺に決めさせない。
俺は口を開く前に、真白のほうを見た。
真白は、黒瀬の持つ二本の缶を見比べていた。ひとつは見慣れた甘い缶ミルクティーで、もうひとつは、もう少し苦味の強そうな、ラベルの色が濃いものだった。
「……今は、甘すぎない方がいいです」
真白が、自分で言った。
当たり前のことのはずなのに、俺の胸の奥で、何かがかすかに軋んだ。良い意味での軋みだった。真白が自分の言葉で、自分の今の好みを口にした。俺の記憶の中の真白ではなく、今、この坂道に立っている真白が、選んだ言葉だった。
黒瀬は何でもないことのように頷いて、苦味の残るほうの缶を差し出した。
「じゃあ、こっちだな」
真白は缶を受け取る前に、一度だけ黒瀬の顔を見た。
「ありがとうございます」
その一拍の丁寧さに、俺は妙な感慨を覚えた。入学式の日、真白が俺に向けた「はい。何か」という硬い声を思い出す。あのときは、その丁寧さが拒絶に思えて仕方がなかった。今、黒瀬に向けられた同じ丁寧さは、拒絶ではなく、むしろ彼女がようやく見つけた、自分の立ち位置そのものに見えた。
誰に対しても等しく礼を尽くす。それは昔の甘えた距離感とは違う、真白が選び直した関係の形なのだ。
「俺のは?」
残った缶を見せて、黒瀬が俺に聞く。
「それ、俺の好きなやつじゃないか」
「知ってる。だから渡そうとしてる」
「お前が飲め」
「俺はもう開けた」
黒瀬は自分の缶を軽く振って見せた。炭酸の泡が、小さく音を立てる。
俺は仕方なく、甘い缶ミルクティーを受け取った。冷たさが掌に染みる。以前と同じ銘柄、同じ甘さのはずなのに、今日はどこか違う味がする気がした。甘さの奥に、少しだけ、苦いものが混じっているような。
三人で自販機の前に立ったまま、しばらく何も言わずに過ごした。坂の下から、商店街のアーケードがちらりと見える。春の光を受けて、瓦屋根が白く乾いていた。
「掲示物、まだ結構あるのか」
黒瀬が鞄の膨らみを見て聞いた。
「商店街用が十五枚、校内用が五枚」
「手伝おうか」
「委員じゃないだろ」
「暇だから聞いただけだ」
黒瀬はそう言いながらも、動く気配はなかった。彼がここに留まっているのは、手伝うためではなく、ただ二人の歩く先を、少しだけ見ておきたかっただけなのかもしれない。
「俺たちだけでいい」
俺が言うと、黒瀬は意外そうな顔もせず、ただ頷いた。
「じゃあ、行けよ。日が暮れる前に」
その言い方には、どこか背中を押すような響きがあった。急かしているのではなく、ただ、道の先へ送り出すような。
俺たちは自販機の前を離れた。歩き出してすぐ、俺は振り返った。黒瀬はまだそこに立ったまま、炭酸の缶を傾けている。目が合うと、彼は小さく片手を上げた。それだけだった。何も言わない見送り方が、今の俺には、以前よりずっとありがたく感じられた。
坂道の残り半分は、さっきよりも静かだった。
アーケードの入口が近づくにつれ、商店の軒先が増えてくる。乾物屋の店先に並んだ昆布の匂い、洋品店のショーウィンドウに反射する西日、自転車屋の店主が道具を片付ける金属音。瀬ノ浜の商店街は、派手さはないが、毎日の暮らしの音でできていた。
掲示板の前に着くと、すでに何枚か、別の委員が貼ったらしいポスターが並んでいた。三日月灯籠祭のポスターは、去年のものよりも少し新しいデザインで、三日月形に切り抜かれた空白の中に、灯籠の絵が重なるように描かれている。
「ここ、空いてますね」
真白が指差したのは、掲示板の右端だった。俺は鞄からプリントを一枚取り出し、画鋲を探した。
「画鋲、先生から預かってないな」
「委員会の道具箱に、確かあったはずです」
真白が鞄から、小さなビニール袋を取り出した。中には色とりどりの画鋲が数本入っている。委員の誰かが用意していたものを、彼女が持たされていたらしい。
「用意いいな」
「忘れ物をすると、あとで困るので」
真白はそう言って、画鋲を一本取り出した。俺がポスターの位置を押さえ、真白が四隅に画鋲を刺していく。紙の端が少し浮いていたので、俺が指で押さえると、真白の指が、同じ場所に触れそうになった。

今度は、どちらも慌てなかった。
紙を押さえるために、指が近づく。触れるか触れないかの距離で、作業が終わるまで、俺たちはそのままでいた。
ポスターが貼り終わると、紙の端が風でかすかに震えた。隣に貼られた別のチラシの角も、同じように揺れている。祭りはまだ一月以上先のはずなのに、商店街はもう、準備の匂いを吸い始めていた。
「次は、どこに貼るんですか」
「あと二軒。惣菜屋と、文房具屋」
俺たちは掲示板を離れ、アーケードの奥へ歩き出した。
惣菜屋の店先では、エプロン姿の女性が揚げ物を並べていた。醤油と油の匂いが、湯気と一緒に立ち上る。女性は俺たちに気づくと、人懐こい笑顔を見せた。
「あら、桜羽高校の子かい。灯籠祭の貼り紙?」
「はい、お願いします」
真白が丁寧に頭を下げると、女性は奥から画鋲立てを持ってきてくれた。
「毎年楽しみにしてるのよ、あのお祭り。あんたたち、案内係か何かやるの?」
「はい、二人で」
俺が答えると、女性は俺と真白を見比べて、何か含みのある笑みを浮かべた。
「仲良さそうでいいわねえ」
その一言に、俺は少しだけ身構えた。以前なら、「幼なじみなので」とすぐに答えていただろう。けれど今は、その言葉がどこか違う気がして、言葉に詰まった。
真白も、すぐには答えなかった。
「……これから、仲良くなろうとしているところです」
真白がそう言うと、女性は不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
「そう。まあ、若いうちはそういう時期もあるわよねえ」
女性が笑いながら店の奥へ戻っていく。俺たちはポスターを貼り終えて、再び歩き出した。
「さっきの、変な答えだったか」
俺が聞くと、真白は首を振った。
「変じゃないです。本当のことなので」
「本当のこと、か」
「はい。幼なじみだったことは、嘘じゃありません。でも、今の私たちを言い表す言葉としては、正確じゃない気がします」
その通りだと、俺も思った。幼なじみという言葉は、俺たちの過去を説明するには正しい。けれど、今この坂道を並んで歩き、同じ缶のラベルの違いを気にし、同じ掲示板の前で指先を近づけている俺たちを、その一言で片付けてしまうのは、どこか違う気がした。
文房具屋にポスターを貼り終える頃には、日が少し傾いていた。商店街のアーケードの隙間から差し込む光が、地面に長い影を落としている。
帰り道、俺たちはまた坂を上り始めた。行きとは逆に、今度は上りだ。息が少しだけ上がる。真白の呼吸も、隣で少しずつ速くなっていくのが分かった。
「疲れたか」
「大丈夫です。坂道には慣れていないので」
「毎日歩けば慣れる」
「毎日、この坂を歩くことになるんですか」
「灯籠祭までは、何度か往復すると思う」
「そうですね」
真白は小さく頷いて、また歩き出した。俺もその隣に並ぶ。歩幅は、まだ完全には合わない。けれど、さっきよりは近づいている気がした。
商店街の掲示板を振り返ると、三日月灯籠祭のポスターが、夕方の光を受けて白く浮かび上がっていた。紙の端が風で浮き、隣のチラシの角と触れ合っている。離れているはずのものが、少しだけ重なって見えた。
坂の中腹に差し掛かったところで、海からの風が強く吹いた。
真白の短い髪が、頬のあたりでふわりと揺れる。俺はその動きを、以前のように昔の長い髪と比べることはしなかった。今、目の前で揺れている髪が、今の真白のものだというだけのことだった。
制服の袖が風にあおられ、真白が片手で押さえた。もう片方の手に持った缶の、冷えた表面に浮いた水滴が、指を伝って手首へ落ちていく。
「奏汰くん」
名前を呼ばれた。名字ではなく、下の名前に「くん」をつけた、まだ慣れていない呼び方。入学式の日に聞いた硬い敬語とは、もう違う響きだった。
「……なに」
「前みたいに、勝手に決めないでください」
叱るような強さはなかった。むしろ、これ以上壊したくないものに向けて、そっと手を添えるような声だった。
「さっきの、ジュースのことか」
「それだけじゃないです。私の好きなものを、奏汰くんが先に決めてしまうこと全部」
「分かった」
俺は素直に頷いた。けれど、それだけでは足りない気がして、続けた。
「分かったけど、たぶん、まだ時々やると思う。昔のくせだから、すぐには抜けない」
「知っています」
「知ってて、言ったのか」
「はい。でも、言わないよりは、言ったほうがいいと思ったので」
「……それ、俺にとっては結構厳しい話だぞ」
「厳しいですか」
「期待されてるってことだろ。直せるって」
真白は、少しだけ考えるような間を置いた。坂道の途中、アスファルトの継ぎ目を一つ踏んでから、彼女は言った。
「期待というより、お願いです。直せなくても、言われたことを覚えていてほしいという」
「それなら、できると思う」
「時々なら、まだましです」
その言葉に、俺は思わず笑いそうになった。真白らしい言い方だった。完全な約束ではなく、努力の余地を残した、正直な線引き。
「時々、って基準が曖昧だな」
「曖昧でいいんです。全部をきっちり決めてしまうと、また前みたいに、決まった形の中に閉じ込められる気がするので」
「決まった形、か」
「幼なじみとか、こうあるべき関係とか、そういうものです」
俺は缶ミルクティーの蓋を開けた。甘い香りが、風に混じって一瞬だけ漂う。
「俺は、今の真白のことを、まだよく分かってない」
「私もです。奏汰くんの、今のことを」
「だから、少しずつでいいか」
「はい。少しずつで」
坂道の頂上が見えてきた。校門の白い柱が、夕方の光を受けて淡く浮かび上がっている。俺たちはその方向へ、並んで歩き続けた。
風がもう一度、強く吹いた。
真白の髪の先が、頬に触れてまた離れる。制服の袖が揺れ、缶の表面を伝った水滴が、彼女の指先から地面へ落ちた。
触れたくても触れられない距離。それは、以前の俺が思っていたような、埋めるべき欠落ではなかった。むしろ、そこにきちんと存在する余白そのものが、今の俺たちをつなぎとめている、細い糸のようなものだと、俺はようやく感じ始めていた。
校門の手前で、真白が一度だけ立ち止まった。
「明日も、図書室に行きます」
「うん。俺も行く」
「案内係の打ち合わせ、ちゃんとしましょう」
「ちゃんと、な」
「それから」
真白は少しだけ言葉を切った。
「たまには、こうやって一緒に歩くのも、悪くないです」
その一言を、俺は大事に受け取った。昔のように、当たり前の距離としてではなく、真白が今、選んで差し出してくれた言葉として。
校門をくぐると、部活帰りの生徒たちの声が、遠くから聞こえてきた。夕方の校舎は、オレンジ色の光に包まれている。俺たちはそれぞれの下駄箱へ向かって、少しだけ速度を上げた。
歩幅は、まだ完全には合わない。
それでも、今日歩いた坂道の記憶は、昔の思い出に上書きされることなく、今日だけのものとして、俺の中に残った。
明日もまた、同じ坂を歩くことになる。
次はきっと、もう少しだけ、歩幅が近づいているはずだった。
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