第10話 左手の鍵

透から電話が来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
受話器の向こうで、彼は何度か息を整えてから話し始めた。電話越しにも、言葉を選んでいるのが分かる。久世慎一と同じように、言い切る前に一度、何かを飲み込む癖があった。
「鍵のことが分かった」
私は作業台の上に置いた白い手袋を見た。左右を揃えて、指先を上に向けている。
「どこの鍵ですか」
「雨粒文庫の貸し棚だ」
「貸し棚?」
「正確には、昔の保管棚。文庫の奥に、一般には使っていない棚があるらしい」
「らしい、というのは」
「片倉さんに聞いた。最初は知らないと言った。でも、俺が鍵を見せたら、台所へ行って茶を淹れ始めた」
「話を逸らしたんですね」
「そう。だから、戻ってくるまで待った。湯呑みを置く場所がなくなるくらい」
透の声に、かすかな笑いが混じった。
「片倉さんは、最後に言った。『それは、玲子さんが預けた鍵かもしれない』と」
玲子。
その名を聞くだけで、胸の奥に薄い膜が張る。写真も声も知らない女なのに、彼女が残した紙や筆跡は、私の生活の隅々まで入り込んでいた。
「これから雨粒文庫へ行きます」
「俺も向かう」
「片倉さんは?」
「来ない。来ないけど、鍵を渡すときにひとつだけ言った」
透が黙った。
「何と?」
「左手で開けるな、って」
電話を切ったあとも、その言葉だけが耳に残った。
雨粒文庫は、団地から坂を少し下ったところにある。古い商店を改装した小さな建物で、入口の軒先には、色の褪せた木札が吊るされていた。雨が降っていないのに、木札の表面は黒ずんで湿っている。
透は先に来ていた。入口の脇に立ち、古い真鍮の鍵を掌で包んでいる。昨日より顔色は落ち着いていたが、腕時計の針はまた三分遅れていた。
「直さなかったんですね」
「直すと、親父に嘘をつくみたいでな」
「時計の遅れが、ですか」
「親父はいつも三分早く家を出て、三分遅れて帰ってきた。理由は聞いたことがない。たぶん、どこかで立ち止まっていたんだろう」
透は鍵をポケットへしまった。
「行くか」
中へ入ると、紙と木の匂いがした。貸し棚の本には、持ち主の名前を書いた小さな札が貼られている。子どもの絵本、料理の本、古い旅行記。誰かの生活からこぼれたものが、別の誰かを待って並んでいた。
奥には、半透明のカーテンで仕切られた空間があった。管理人の女性に事情を話すと、彼女は少し困った顔をしてから、棚の一番下を指した。
「その鍵なら、十七番かもしれません。昔、久世さんが使っていました」
「何を入れていたんですか」
「本です。たぶん」
たぶん、という言葉が、団地の中で何度も聞いたものと同じ響きを持っていた。
十七番の棚は、床に近い位置にあった。扉には錆が浮き、鍵穴の周囲だけが不自然にきれいだった。透は鍵を差し込み、すぐには回さなかった。
「相沢さん」
「はい」
「俺が開けてもいいか」
私は頷いた。
鍵が回る。固い金属が内部で噛み合い、かすかな音を立てた。扉の向こうから、湿った紙の匂いが流れてくる。
中には、薄い箱が一つと、封筒が三通あった。
箱の蓋には、久世玲子の字で数字が書かれている。
17―B。
透が最初の封筒を取り出した。宛名はなかった。二通目にもない。三通目だけ、鉛筆で小さく「鵜飼さん」と書かれていた。
「鵜飼さんに渡すべきですね」
「その前に箱を見る」
透は箱を机の上へ置いた。蓋を開けると、古い写真が数枚と、紙を折り畳んだものが出てきた。
写真の一枚には、火災前の四号棟が写っていた。今より壁が白く、植え込みも低い。写真の端に、子どもの手が映っている。誰かに握られている左手。その指先に、赤い糸のようなものが絡んでいた。
私は写真を持つ手に力を込めた。
「これ……」
「知っているのか」
「分かりません。でも、この手を見たことがある気がします」
写真の裏には日付があった。火災の三日前。
その下に、玲子の字で一行だけ記されている。
《左手の傷は、名前より先に残る》
息が止まった。
透は写真を覗き込み、しばらく何も言わなかった。やがて箱の底から、折り畳まれた紙を取り出す。紙には、子どもの名前がいくつか並んでいた。団地の住民名簿のように見えるが、どの名前にも丸や線が付けられている。
その中に、私の名前があった。
相沢実里。
ただし、現在の私の名前とは違う筆圧で、何度もなぞられている。さらにその横には、消された別の名前があった。紙を光に透かすと、最初の一画だけが浮かび上がる。
透が息を吸った。
「これが、あんたの本当の名前か」
「まだ、分かりません」
「でも、書かれている」
「書かれていることと、私が誰かは別です」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。けれど、左手の指先だけが冷たくなっていく。
透は反論しなかった。代わりに、三通目の封筒を裏返した。封の端に、赤いインクの点がある。
「これ、赤い消印の封筒と同じだ」
「紙質も似ています」
「鵜飼さんに渡す前に、聞くべきだな」
そのとき、入口のほうで足音がした。
振り返ると、片倉澄江が立っていた。いつもの笑顔はなかった。濡れてもいない傘をたたみ、手元で柄を何度も撫でている。
「早かったね」
「片倉さんが来るとは思いませんでした」
「私も来るつもりはなかったのよ。ただ、あんたたちが見つけると思ったから」
彼女は棚の中の箱を見た。
「それを開けたなら、もう戻せない」
「戻すつもりはありません」
「そう言うと思った」
澄江は私の左手を見た。ほんの一瞬だったが、視線は傷跡のあたりで止まった。
「その手は、覚えているかい」
「何をですか」
「誰に握られていたか」
私は答えられなかった。
澄江は目を伏せ、傘の先で床を軽く叩いた。乾いた音が、棚の中で小さく跳ね返る。
「玲子さんは、あの夜、あんたの左手を離さなかった。久世さんが右を持って、玲子さんが左を持った。階段の途中で、玲子さんの手が滑った」
「私の手を?」
「そう。だから傷が残った」
透が前へ出た。
「片倉さん。あの子は誰なんですか」
澄江は彼を見た。長いあいだ、答えを決める前の沈黙だった。
「名前を聞くのは、最後にしなさい」
「なぜです」
「名前を先に知ると、その名前に人を合わせてしまうからだよ」
彼女は箱の中の写真を指した。
「まず、あの日ここにいた子どもが、今も生きている。それだけを受け取ればいい」
「それで十分だと思っているんですか」
透の声が硬くなった。
「あなたたちは、何も言わずに俺たちの人生を並べ替えた。母も、父も、片倉さんも。今さら順番を決める権利があるんですか」
澄江はすぐには答えなかった。やがて、私の前に一通の封筒を差し出した。
「これは、私が持っていたものだよ」
封筒には、宛名があった。
相沢実里様。
その文字を見た瞬間、封筒の角が歪んで見えた。玲子の筆跡だった。
「いつから持っていたんですか」
「二十年」
「なぜ渡さなかったんですか」
「渡せる相手が、どこにいるのか分からなかったから」
「私はここにいました」
「そうだね」
澄江は、視線を外した。
「でも、ここにいることを、あんた自身が知らなかった」
封筒を受け取る。紙は冷たかった。けれど、裏面の糊跡だけが、誰かの指の体温をまだ覚えているようだった。
私は左手で持ち、右手の爪を封の端へ入れた。
澄江が低い声で言った。
「その手で開けるんだね」
封が、ぺり、と鳴った。
中には、便箋が一枚だけ入っていた。
書き出しは、こうだった。
《実里へ。あなたがこの名前を読む日が来るなら、私はもう、あなたの前に立てない》
雨粒文庫の奥で、誰も動かなかった。外を走る車の音も、紙をめくる音も遠い。
便箋の最後の行には、まだ続きがあった。
《あなたの左手に残った傷は、あなたをここへ戻すための印ではありません。私が、あなたを戻さないためにつけたものです》
そこから先を読む前に、私は紙を伏せた。
戻さないため。
その言葉の意味だけが、濡れた階段の底へ落ちていった。
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