第8話 読み返すたびに増える重さ

部室を出ると、夕方の光が思ったより低いところまで落ちていた。
階段の踊り場に、朝つけた靴跡がまだ残っている。乾きかけた泥は縁からひび割れ、誰かが通るたびに少しずつ崩れていた。俺はその跡を避けようとしたが、最後の一段で靴底が触れた。固い泥が、薄い音を立てて剥がれる。
剥がれたものは、簡単に落ちる。
なのに、手紙の言葉は落ちてくれなかった。
校門へ向かう道の脇では、文化祭の立て看板が風に煽られていた。何人かの生徒が板を押さえながら、色の塗り残しを指で確認している。絵の具の匂いが、部室からついてきた汗と土の匂いに混じった。
体育館から、笛が鳴った。
短い音のあとに、誰かの返事が重なる。新チームはもう、昨日の続きを始めている。俺がいなくなっても、練習は時間通りに進み、ボールは床を叩き、誰かが失敗して、誰かが次の指示を出す。
俺は手紙の入った封筒を、制服のポケットの上から押さえた。
薄い紙なのに、歩くたびに身体の内側へ沈んでくる。
家に着くころには、空はもう夕方の青へ変わっていた。玄関を開けると、煮物の匂いがした。部室に残った汗や泥とは違う、生活の匂いだった。靴を脱ぎ、揃えようとして、途中で手を止める。部室なら自然にできることが、家では少しだけ遅れる。
「おかえり」
台所から母の声がした。
「ただいま」
「遅かったね」
「片付けてた」
「部室の?」
「うん」
母はそれ以上聞かず、鍋の蓋を開けた。湯気が立ち上り、眼鏡の端を白く曇らせる。俺は鞄を置き、洗面所で手を洗った。爪の脇に入り込んだ泥は、何度こすっても黒く残った。
「夕飯、すぐ食べる?」
「食べる」
「手紙は読んだの?」
蛇口から流れる水の音が、急に大きく聞こえた。
俺は顔を上げた。鏡の中で、母が背中越しにこちらを見ている。探る目ではなかった。答えを急かす目でもない。ただ、見えているものを見えていないふりはしない、という顔だった。
「読んだ」
「そう」
「どうして分かった」
「朝からずっと、制服のポケットを押さえてるから」
俺は無意識に手を離した。
母はふきんを畳みながら、ゆっくり言った。
「話したくないなら、話さなくていいよ。ただ、何でも一人で片付けようとすると、あとで変なところに残るから」
「片付けてるつもりはない」
「そういう顔をしてる」
母は、進路希望の封筒を食卓の端から中央へ移した。白い封筒の隣には、学校から渡された書類が重ねてある。進学希望、就職希望、保護者確認。部室で見た練習表より文字は少ないのに、紙の白さが妙に迫ってきた。
「これ、明日までに出すんだろ」
「担任はそう言ってた」
「決めた?」
返事をする前に、息を止めそうになった。
いつもの癖だった。正しい答えを探し、母を安心させる答えを選ぶ。まだ決めていないと言えば心配をかける。決めたと言えば、自分を追い込める。どちらも、何かを先送りするための言葉だった。
「まだ」
俺は言った。
「部活が終わったら、決められると思ってた。でも、終わったら別のことが残った」
母は湯気の向こうで、黙っていた。
俺はポケットから封筒を出した。食卓の上には置かず、手の中で持ったまま話した。
「後輩から手紙をもらった。感謝も書いてあった。でも、それだけじゃなかった。俺のことを追いかけるのが苦しかったって。俺みたいになろうとして、息ができなくなったって」
「そう」
「俺は、助けてるつもりだった。失敗したら次を教えて、迷ってたら先に決めて、止まりそうなやつがいたら声を出した。そうすれば、みんなが動けると思ってた」
「実際、動いたんでしょう」
「動いた。でも、動かしたあとに、どうなったかを見てなかった」
母は箸を並べた。一本ずつ、食卓の端へ揃えていく。その手つきは、俺が部室で名札を直すのとよく似ていた。
「見ていなかったことに気づいたなら、もう前と同じではないんじゃない」
「それで、何をすればいいか分からない」
「分からないままにしておくのは、そんなに悪いこと?」
母の問いに、すぐ答えられなかった。
部室では、分からないことを悪いと思っていた。迷いは時間を奪い、沈黙は場を鈍らせる。だから、俺が先に決めた。決めてしまえば、少なくとも全員が次へ進める。
けれど、決められた側にとって、それが前進だったのかは知らない。
「今日、部室で神谷に言われた」
「神谷くん?」
「俺のやり方は長く持たないって。熱さじゃなくて、再現性が必要だって」
「難しい言葉を使う子ね」
「でも、間違ってない」
「あなたも、その子も、間違っていないんじゃないの」
母は味噌汁を椀へ注いだ。
「だから難しいんでしょう」
食事のあいだ、俺たちは手紙の話をしなかった。箸が器に触れる音と、テレビの小さな音だけが続いた。俺は何度も封筒へ手を伸ばしかけたが、食卓の上には出さなかった。
母は、聞き出そうとしなかった。
その沈黙が、ありがたかった。ありがたいのに、同時に痛かった。凛も、こういう時間を求めていたのかもしれない。こちらが何も決めず、何も言わず、ただ自分の言葉を探すまで待つ時間を。
俺は何度、その時間を奪ったのだろう。
夕食のあと、自室へ戻った。机の上に進路書類を広げ、その隣へ凛の手紙を置く。白い紙が二つ並ぶ。どちらも、まだ何も決めていない俺の前で、答えだけを待っている。
俺は戦術ノートを開いた。
最後のページには、昨日の試合前に書いた言葉がある。
――声を切らすな。最後まで前へ。
その下の余白へ、鉛筆を置いた。
いつもなら、次の練習で直すことを書く。足の運び、声の出し方、相手の配置。だが、今夜は何も浮かばなかった。代わりに、凛の赤ペンの文字が思い出される。
――ここで一拍待つ。
俺はその言葉の横に、小さく書いた。
――待つ。
書いてから、すぐに消したくなった。こんな一語で何が変わるのかと思った。凛の苦しさが消えるわけではない。俺の声が小さくなるわけでもない。過去の練習をやり直せるわけでもない。
それでも、消さなかった。
夜が深くなり、机の明かりだけが残った。手紙を読み返すたび、最初は見えなかったものが増えていく。感謝の行の下にある遠慮。憧れの文の隣にある疲れ。丁寧な言葉の奥に、何度も押し戻された反発。
読むたびに、紙が重くなっていく。
眠る前、俺は封筒を机の中央へ置いた。花びらが口元からわずかに覗いている。部活お守りの紙片は、折り目に沿って戻した。
電気を消そうとして、ふと気づいた。
部室の鍵を、まだ返していない。
制服のポケットを探る。指先に金属の冷たさが触れた。朝、先生へ渡したはずの鍵ではない。あれは部室の扉の鍵だった。今、手にあるのは、古いロッカーの鍵だった。
いつから入っていたのか分からない。
俺は鍵を机の上へ置いた。小さな金属が、進路書類の端に触れる。部室のロッカー。三年生の列の一番端。そこには、もう誰も使わない自分の名札が残っている。
明日、返しに行こうと思った。
そう決めた途端、眠気が遠のいた。
翌朝、まだ家の中が静かなうちに目が覚めた。窓の外では蝉が鳴き始めている。昨日より少し遠く、けれど途切れない声だった。
制服へ着替え、鞄を持つ。机の上の手紙をしまおうとして、俺は手を止めた。
封筒の隣に、見覚えのない紙がある。
昨夜にはなかった。
折りたたまれた紙片を開く。紙は一度破られたものを、別の紙で継ぎ合わせていた。糊の跡が茶色く残り、角は何度も折られて柔らかくなっている。
宛名の途中までが見えた。
――相馬せん……
その先は破れていた。
本文には、短い行がいくつも並んでいる。
先輩のようになりたいと思いました。 でも、先輩のように強くなれない自分が嫌でした。 先輩がいなくなったら、少し楽になると思っていました。 それなのに、昨日から、何を見ればいいのか分かりません。
最後の一行だけ、何度も書き直した跡があった。
――私は、先輩に、どう見えていましたか。
そこで紙は途切れている。
俺は立ったまま、下書きを読み返した。
これは、凛が手紙を書く前に破ったものだろうか。それとも、別の手紙として書き始めて、途中でやめたものだろうか。分からない。ただ、破られた紙の継ぎ目に、指で押さえつけた跡が残っていた。
凛は一度ではなく、何度も言葉を飲み込んでいた。
俺は、今までそれを一度の沈黙だと思っていた。
けれど本当は、練習のたび、帰り道のたび、言いかけるたびに、凛は自分の言葉を折りたたんでいたのだ。
俺は下書きを手紙の隣へ置いた。
それから、ロッカーの鍵を握った。
朝の光が、机の上の二枚の紙を照らしている。完成した手紙と、破られた下書き。どちらにも、凛の字がある。けれど、完成した手紙だけを受け取ればいいわけではない気がした。書かれなかった部分も、破られた部分も、言えなかった時間の一部だった。
俺は下書きを封筒へ戻そうとして、やめた。
代わりに、戦術ノートの最後のページへ挟んだ。
そこには、昨日書いた一語が残っている。
――待つ。
紙を閉じる。
玄関へ向かうと、母が台所から顔を出した。
「早いね」
「学校へ行く」
「朝ご飯は」
「食べる」
返事をする前に、息を止めなかった。
母はそれに気づいた様子もなく、皿を出した。
「今日は、決められそう?」
食卓の上には、昨夜のまま進路希望の書類が置かれている。
俺はそれを見た。まだ、進学か就職かを決めたわけではない。書くべき答えも残っている。
「今日は、考える」
「そう」
「でも、考えるだけで終わらせない」
母は少しだけ頷いた。
「それなら、朝ご飯を食べてからにしなさい」
椅子を引く。木の脚が床を擦った。
ポケットの中で、ロッカーの鍵が小さく鳴る。手紙は鞄の内側にある。戦術ノートの最後のページには、破られた下書きが挟まっている。
俺はまだ、何を返せばいいのか分からない。
ただ、返す前に、もう一度部室へ行く必要があると思った。
凛が立っていた場所を見て、言いかけてやめた瞬間を思い出し、今度こそ先に答えを出さずにいるために。
窓の外では、夏の朝が始まっていた。
蝉の声が、昨日より近い。
それでも俺は、急いで外へ出なかった。茶碗の湯気が消えるのを待ち、母が箸を置くのを待ち、自分の中に残った言葉が、どこへ向かうのかを待った。
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