第9話 秋の練習表

戦術ノートの最後のページに挟んだ下書きを、俺はもう一度開いた。
――私は、先輩に、どう見えていましたか。
破れた継ぎ目の紙を、朝の教室の光にかざす。授業中、机の下でこっそり広げるたびに、同じ場所で指が止まった。一度ではない。この紙の下に、まだ何枚も破られた言葉があったのかもしれない。書いては破り、書いては飲み込み、それでも伝えたくて、また書く。凛はそれを、俺の知らないところで何度も繰り返していた。
放課後になって、俺は部室には寄らずに校庭へ出た。
文化祭の立て看板が、西日を受けて長い影を伸ばしている。まだ塗りの終わっていない部分があるのか、絵の具の匂いが風に混じって流れてきた。看板を支える脚立の脇を通り過ぎると、誰もいないグラウンドが広がっている。昨日まで俺たちが声を張っていた場所は、今はただ白い土だけが夕方の光を吸っていた。
体育館の方から、短い掛け声が届く。
新チームの練習が、もう始まっている。蒼が決めた時間通りに、誰かが走り、誰かが止まり、笛が鳴る。俺のいない場所で、季節は勝手に動き出していた。
グラウンドの端に、佐伯凛が立っていた。
細い赤ペンを指先で回しながら、こちらに気づいているはずなのに、目を合わせるのを少しだけ遅らせる。いつもの癖だった。その一拍の間に、凛が何を考えているのか、俺にはもう分かる気がした。
「先輩」
先に口を開いたのは、凛の方だった。
「待ってたのか」
「はい」
それだけ言って、凛はまた赤ペンを握り直した。夕方の風が、彼の前髪を軽く揺らす。汗の匂いはもうしない。練習着ではなく、制服のままだった。
俺はポケットから、封筒ではなく下書きを出した。
「これ、ロッカーの隣に置いてあった」
凛の指が止まる。
「見たんですね」
「読んだ」
短い沈黙が落ちた。凛は謝らなかった。俺もそれを求めなかった。
「破ったつもりでした」
凛がようやく言った。
「でも、捨てきれなかった。捨てたら、全部なかったことになる気がして」
「何度、書いたんだ」
「数えていません。先輩に見せるつもりのないものまで、全部数えたら、きっと恥ずかしくなるので」
その言い方に、俺は何も返せなかった。凛は地面の方へ視線を落とし、それからゆっくりと続けた。
「先輩のことが、ずっと好きでした。憧れって言えばいいのか、分かりません。でも、追いかけているあいだ、息を吸うたびに苦しくなっていったのは本当です。先輩の声の大きさも、走り方も、失敗したときに前へ出る足の運びも、全部真似しようとしました。真似できないことが悔しくて、真似できたと思った瞬間には、今度は先輩と同じ場所に立つのが怖くなって」
「怖い?」
「理想のまま立ち続ける人の隣にいると、自分がいつまでも理想に届かない証拠を、毎日突きつけられている気がしたんです」
凛の指先が、紙の折り目を探すように宙をなぞった。息を吸うたびに、一拍だけ遅れる。その遅れが、手紙に滲んでいた痛みと同じ形をしていた。
「俺は」

俺は、言葉を選ばずに話し始めた。
「ずっと、黙っているやつの代わりに答えを出せば、それが助けになると思っていた。迷っているやつがいたら、迷う時間ごと引き取って、前へ進める。それが部長の仕事だと、疑ったこともなかった。でも、それは助けじゃなくて、おまえの言葉を奪うことだったのかもしれない」
「……先輩のせいだけでは、ありません」
「分かってる。でも、おまえのせいだけでもない」
凛が顔を上げた。
「俺は、勝つことに全部を預けてきた。それ自体を、間違いだったとは思わない。ただ、その預け方の中に、誰かが置き去りにされる場所があったことに、気づかずにいた。おまえが潰れそうになっていたことに、気づけなかった」
風が止んだ。蝉の声だけが、校庭の端から絶え間なく流れてくる。体育館の方で、蒼の短い指示が響いた。誰かがそれに応え、ボールの弾む音が続く。
「謝らないんですね」
凛が、ふいに言った。
「謝ったら、終わった気になる」
「終わらせたくないんですか」
「終わらせたくないんじゃない。終わらせ方を、間違えたくない」
凛は一瞬だけ、口元を緩めた。笑ったのか、それとも別の何かだったのか、俺には分からなかった。
「先輩は、やっぱり、すぐに答えを出そうとします」
「悪いか」
「悪くはないです。ただ、今は、答えを急がないでください」
俺は頷いた。
それから、しばらく何も言わなかった。凛も何も言わなかった。沈黙は重かったが、以前のように誰かが埋めなければならない沈黙ではなかった。
遠くで、真琴の笑い声がした。藤井先生の車のエンジン音が、部室棟の裏で一度唸り、やがて遠ざかっていく。蒼は体育館の灯りの下で、まだ次の練習の段取りを続けている。誰もが、それぞれの夏の終わり方を選んでいた。
「佐伯」
俺はようやく言った。
「あの手紙、届かなかったものだとは思わない」
「でも、渡せませんでした」
「届くのが、遅れただけだ」
凛の肩から、少しだけ力が抜けた。花びらが一枚、ポケットの中から滑り落ちそうになる。凛はそれを拾い、もう一度大事にしまった。
俺たちは、一緒に部室へ戻った。
ロッカーの名札を、俺は一つずつ整え直した。三年生の列の端、もう使わない自分の名札も、少しだけ斜めに傾いていた。指で押して、隣と高さを揃える。記録ボードには、昨日の数字がまだ残っている。戦術ノートの角も、擦り切れたままだった。けれど、それらはもう終わりの証だけではなかった。
扉を閉める前に、俺は湿った夕方の校庭を振り返った。
蝉時雨は、まだうるさい。
けれどその向こうで、次の季節の気配が、確かに残っていた。
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