第7話 封筒の継ぎ目

外階段の手すりは、夜の湿気をまだ抱えていた。

上るたび、掌に冷たい水気が移る。靴底には昨夜のグラウンドの泥が残っていて、踊り場に薄い跡を引いた。空はもう明るくなり始めているのに、部活棟の壁際だけは夜の色を手放していない。

蝉だけが、季節の終わりを知らないみたいに鳴いていた。

鍵を差し込む。金属が一度ひっかかり、それから小さく回った。

昨日までなら、この音のあとには誰かの声があった。遅れてきたやつをからかう声。水筒の蓋を閉める音。床を蹴るスパイクの音。誰かが「おはようございます」と言い、別の誰かが眠そうに返す。鍵を回す動作の中にまで、部室の一日が染み込んでいた。

けれど今朝は、扉の向こうに何もなかった。

蝶番が軋む。部室の空気が、ゆっくり外へ逃げてくる。

汗と、乾きかけたタオルと、テーピングの糊が混じった甘い匂い。泥のついたユニフォームからは、雨とも土ともつかない重たい臭いがした。冷蔵庫の脇には、飲みかけのスポーツドリンクが一本倒れている。ラベルの端が剥がれ、透明な水滴が床に丸く溜まっていた。

俺は鞄を置く前に、しゃがみ込んだ。

指先で泥を拾う。乾いたところはざらつき、湿ったところは爪の脇へ入り込んだ。昨日の最後のプレーでついたものだろう。どの場面かは、見なくても分かった。右足を踏み込み、体勢を崩し、それでも次へつないだ。つないだ先で点が入ったのか、入らなかったのか。もう記録に残っているはずなのに、身体だけがまだあの瞬間にいる。

拾った泥を、ゴミ箱の脇へ置く。

それからロッカーへ向かった。

名札の並びが少し乱れていた。三年生の列の端で、誰かの名札が斜めになっている。俺はそれを指で押し、隣との高さを揃えた。金具の緩んだ扉を閉め、床に落ちたヘアゴムを拾い、ベンチの下へ押し込まれていたタオルを引っぱり出す。

いつもの片付けだった。

考えなくていい。床を見て、手を動かして、散らかったものを元の場所へ戻す。そうしていれば、自分が何をすればいいのか分からなくならずに済む。

机の端に、戦術ノートが置かれていた。

表紙は汗と雨で波打ち、角は擦り切れて白くなっている。何度も開いたページには、赤ペンと鉛筆の線が重なっていた。相手の動き、味方の癖、次の練習で直すこと。余白がなくなるたび、別の紙を貼りつけてきた。

俺はノートを手に取った。

親指で端をなぞる。紙の繊維が指先に引っかかった。

昨日の最終ページには、試合前に書いた言葉が残っている。

――声を切らすな。最後まで前へ。

書いたときは、これでいいと思っていた。俺が迷わなければ、みんなも迷わない。俺が声を出せば、足が止まりそうなやつも動ける。そう信じてきたし、その信じ方以外を知らなかった。

ノートを閉じる。

終わった実感はない。なのに、ノートだけが先に終わりを知っているように見えた。もう次の練習も、次の試合も、自分には残っていない。そのことが、腹の奥へ小さな石を落としたみたいに重かった。

俺はユニフォームの山へ手を伸ばした。

一枚ずつ畳む。泥のついた袖を内側へ折り、背番号が見えないように重ねる。最後まで使った白いユニフォームは、洗濯に出す前から硬くなっていた。汗を吸った布地が、乾ききらないまま冷えている。指でつまむと、昨日の試合の熱がまだどこかに残っているようだった。

山の下から、何かが滑り落ちた。

床に当たった音は、薄い紙のものだった。

封筒が一通、俺の靴の前で裏返っている。

拾い上げる。表には、見慣れた字で宛名が書かれていた。

相馬悠斗先輩へ。

その下に、佐伯凛の名前がある。

封筒の口には薄い花びらが一枚挟まっていた。淡い色は朝の光に透け、ほとんど白く見える。角には小さく折り畳まれた紙片が差し込まれていた。開くまでもなく、部活お守りの一部だと分かった。

凛は細かいものを捨てない。練習メニューの切れ端も、誰かが書いた短いメモも、必要かどうか分からないままノートの間へしまっている。

言葉にしない代わりに、物を残す。

そういうところが、凛らしかった。

俺は封筒の縁を指でなぞった。紙は少し湿っている。誰かの手の温度を吸ったような、頼りない感触だった。

「……手紙?」

背後から声がした。

振り向くと、長谷川真琴が戸口に立っていた。片腕に雑巾を何枚も抱え、もう片方の手には掃除用具が引っかかっている。髪は寝起きのままなのか、右側だけ妙に跳ねていた。

「引退初日の朝から来るやつ、だいたい顔が怖いんだけど」

「おまえも来てるだろ」

「私は顔が怖くない。寝不足なだけ」

真琴はそう言って、雑巾をベンチへ放った。いつもなら、そのまま俺の肩を叩くか、昨日の試合の失敗を大げさに蒸し返す。けれど今日は、俺の手元を見て動きを止めた。

笑っていた口元が、ほんの少しだけ閉じる。

「誰から?」

「佐伯」

「へえ」

それだけ言うと、真琴は窓際へ歩いていった。引き戸を開けると、湿った風が部室へ入り込む。汗の匂いが薄まるどころか、押し広げられたように広がった。カーテンが膨らみ、机の上の紙が一枚、床へ落ちる。

真琴はそれを拾い、机の端へ戻した。

「開けないの?」

「……今は」

「そっか」

真琴は、それ以上聞かなかった。

ただ、乾きかけたタオルを一枚ずつ広げ、窓際の椅子へ掛け始めた。ざらついた布が椅子の背に擦れる音が、静かな部室に細く続く。

俺は封筒を握ったまま、壁の記録ボードを見た。

昨日の最後の得点とタイムが、白い板の上に残っている。数字の脇には、誰かが消そうとした指の跡があった。完全には消えず、黒い線が薄く滲んでいる。

勝ったか負けたかは、記録を見れば分かる。

けれど、その数字を見て最初に浮かんだのは、勝敗ではなかった。

もう戻らない、ということだった。

窓の外では、校庭の向こうを数人の生徒が走っていた。文化祭の立て看板らしい板を抱え、互いに声を掛け合っている。体育館からは、短い笛の音が聞こえた。新チームの練習が始まっているらしい。

俺たちの夏が終わった場所で、別の誰かが次の準備を始めている。

「ねえ、悠斗」

真琴の声が、さっきより低かった。

「その手紙、すぐ読まなくてもいいと思うよ」

「逃げてるだけじゃないか」

「逃げるのと、読む準備をするのは違うでしょ」

「俺は、途中で止めるのが嫌なんだ。やるなら最後までやる。読むなら読んで、返事をしないといけない」

「返事をしなきゃいけないって、誰が決めたの?」

俺は答えられなかった。

真琴はタオルの端を揃えながら、こちらを見ないまま続けた。

「悠斗はさ、誰かが黙ってると、すぐ自分で埋めるじゃん。練習でもそうだった。凛が何か言いかけると、先に『こういうことだろ』って答えを出す。迷ってるやつがいると、迷ってる時間ごと引き取って、前へ動かす。あれに助けられた人は多いと思うよ。私もそう。でも、助けられた人が、ずっと同じやり方で助けてほしいとは限らない」

「……何の話だよ」

「手紙の話じゃない。たぶん、手紙だけの話じゃない」

言葉の端が、肌に残った汗みたいに貼りついた。

俺は反射的に「大丈夫だ」と言いかけた。いつものように。けれど、声になる前に息が止まった。

そのとき、廊下から鍵の束が触れ合う音がした。

藤井先生が入ってくる。片手に黒いファイルを抱え、もう片方の手で扉を押さえていた。先生は俺たちを見たあと、机の上のノート、床のユニフォーム、俺の手の中の封筒へ、順番に視線を移した。

「来ていたか」

「先生まで。引退した三年生を働かせる気ですか」

真琴が言うと、先生は少しだけ口元を緩めた。

「働かせるつもりはない。鍵を返してもらいに来ただけだ」

先生は俺の手元を見た。

「相馬。部室の鍵は」

俺はポケットから鍵を出した。昨夜まで首から下げていたものだ。何度も握ったせいで、金属の角が手のひらに馴染んでいる。

「今日、返します」

「そうか」

先生は急かさなかった。鍵を受け取る手も出さず、窓の方へ歩いていく。少しだけ開いていた窓を、さらに指一本分広げた。外から蝉の声が流れ込み、部室の沈黙を薄く震わせる。

「片付けは終わりじゃない」

先生は窓の外を見たまま言った。

「整理だ」

その言葉は、部室の真ん中に置かれた。

誰もすぐには拾わなかった。

俺は封筒の角を親指で押さえた。花びらがわずかに震える。紙片が、封筒の中で擦れた。

「整理って、何をですか」

自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。

先生はすぐに答えなかった。机の上のボールペンを一本取り、他のペンと平行に並べる。それから床に落ちていた古いグリップテープを拾い、ノートの脇へ置いた。

「物だけなら、場所を決めてしまえば済む」

「じゃあ、物じゃないものは」

「場所が決まるまで、少し時間がかかる」

先生の声は静かだった。慰める響きも、励ます響きもない。ただ、急いで蓋をしないための余白があった。

真琴が小さく息を吐く。

「先生、そういう言い方すると、余計に考え込むんですよ、この人」

「考える必要があるなら、考えればいい」

「ほら」

真琴が俺を見る。いつものように笑おうとしたが、笑いきれなかった。

俺は記録ボードへ目を戻した。最後の数字は、朝の光を受けて薄く浮かんでいる。昨日、あの数字を書き込んだとき、これを次の練習の起点にするつもりだった。負けたなら修正し、勝ったならさらに積み上げる。そうやって、終わりを次へつなぐことばかり考えていた。

けれど、終わったものの中には、次へ持っていけないものもある。

たとえば、誰かが言わずに飲み込んだ言葉。

それは記録にも、戦術ノートにも残らない。残らないまま、昨日の部室のどこかに置き去りにされている。

俺は封筒を胸の高さまで持ち上げた。まだ開けていない。宛名の字を、もう一度見る。凛の字はいつも通り整っていた。けれど、整っていることが、今はかえって怖かった。

「読めよ」と、真琴が言った。

俺は真琴を見た。

「いや、今すぐじゃなくていい。でも、読まないまま返すのはなし。おまえが誰かに言ってきたことを考えれば、受け取ったものまで勝手に片付けるのは、ちょっと違うと思う」

「……返事ができなくても?」

「返事ができないなら、できないって返事をすればいい」

「そんなの、返事になってないだろ」

「なるよ。少なくとも、黙ってなかったことにするよりは」

胸の奥で、何かが小さく軋んだ。

俺は返事をする前に、一度だけ息を止めた。いつもなら、そのあとで正しい言葉を選ぶ。誰かを不安にさせない言葉。頼りなく聞こえない言葉。部長として間違っていない言葉。

けれど今朝は、どの言葉も封筒の重さに届かなかった。

先生が手を差し出した。

「鍵を」

俺は鍵を先生の手のひらへ置いた。

金属が触れた音は、思ったより小さかった。

それなのに、部室の奥まで響いた気がした。

鍵を渡した手は空いた。空いたはずなのに、封筒を持つもう一方の手だけが、ひどく重い。真琴は何も言わず、濡れたタオルを一枚、窓際へ掛け直している。先生は記録ボードの端を確認し、数字を消そうとはしなかった。

蝉が鳴いている。

校庭では、文化祭の準備をする声がしている。体育館からは、一定の間隔で笛が聞こえる。部室の中には、汗と泥と、乾ききらない布の匂いが残っている。

俺は封筒をポケットへ入れた。

その薄さが、身体の内側へ沈んだ。

帰るには、まだ早い。読むには、少しだけ時間が要る。何をどう片付けるのかも、まだ分からない。

先生が部室を出ようとしたとき、携帯電話が震えた。

画面には、母の名前が出ている。

「もしもし」

『まだ学校?』

「うん。片付けがあるから」

『昨日、引退試合だったんでしょ。今日は早く帰ってきなさい。進路希望の書類、机の上に置いたままだから』

「分かってる」

『分かってる人は、三日も放っておかないの』

責める調子ではなかった。電話の向こうで、食器を置く音がする。母は俺が何かを後回しにしているとき、声を荒げない。その代わり、逃げ道を塞ぐみたいに同じことを繰り返す。

『夕飯は家で食べる?』

「食べる。帰るから」

『そう。じゃあ、待ってる』

通話が切れた。

暗くなった画面に、自分の顔が映っている。目の下が落ち、髪は寝癖のままだった。部長らしくない顔だと思った。部長でなくなった翌朝なのだから、当たり前なのかもしれない。

俺はポケットの中の封筒に触れた。

指が離れない。

「開けるのか」

真琴が聞いた。

「……読む」

「ここで?」

「ここで」

封筒を取り出す。封はされていなかった。糊の跡がわずかに浮いている。凛は、渡すつもりでここまで持ってきた。それでも直接は渡せず、ユニフォームの山の下へ置いた。

どうして、俺に声をかけなかったのか。

その問いが浮かんだとき、すぐに別の問いが重なった。

どうして俺は、声をかけられなかったことに気づかなかったのか。

封筒の口へ指を入れる。紙が擦れ、乾いた音を立てた。

中から便箋を取り出す。

何度も折り直した跡があった。四つ折りの線が少しずれていて、端の一か所だけ、爪で強く押したように白くなっている。紙を開くと、最初の行が目に入った。

――相馬先輩へ。

それだけで、喉が詰まった。

凛はいつも、俺を名前で呼ばなかった。練習中も、必要なときだけ「先輩」と言った。声が小さいから聞き返すと、今度はさらに丁寧な言葉に直した。俺はそれを礼儀正しいやつだと思っていた。思っていたというより、そう決めていた。

便箋には、最初に感謝が書かれていた。

入部したばかりのころ、何も分からなかった自分に声を掛けてくれたこと。練習のあと、誰もいない場所で一人だけ残っていた凛に、ボールの持ち方を教えたこと。失敗したとき、みんなの前で責めず、俺が代わりに先生へ説明したこと。

そんなことまで覚えていたのかと思った。

俺は忘れていたわけではない。ただ、特別なことだとは思っていなかった。先輩なら、それくらいはするものだと思っていた。

文字の間に、赤い線で消された跡がある。

――先輩のおかげで、続けられました。

その一文の下に、薄く別の言葉が透けていた。

――先輩のようになれない自分を、何度も嫌いになりました。

俺は便箋を少し傾けた。消された文字は読めるのに、見てはいけないものを覗いているようだった。

手紙は、感謝だけでは終わっていなかった。

凛は、俺の背中を追いかけるのが苦しくなったと書いていた。

俺が練習中に出す声。失敗したときに眉を寄せること。誰かの足が止まると、すぐに「もう一回」と言うこと。帰り際、疲れているはずなのに「明日も遅れるな」と言ってしまうこと。

それらを、凛は一つずつ覚えていた。

自分が忘れていた動作まで、細かく。

――先輩が悪い人だとは思っていません。

そこまで読んで、俺の指が止まった。

悪い人だとは思っていない。

その言葉は、優しさの形をしていた。だからこそ、次に続く言葉を予感させた。

――だから、苦しいと言えませんでした。

紙の上で、文字だけがまっすぐ並んでいる。

俺は読み進めた。

憧れていた。先輩のように走りたかった。先輩みたいに、失敗してもすぐ立ち上がりたかった。声を出して、誰かを安心させられる人になりたかった。

けれど、真似をしようとするほど、自分の動きが遅くなった。声を出そうとすると喉が狭くなった。先輩ならできることを、自分もできなければいけないと思った。

そのたびに、凛は笑っていた。

俺はそれを、調子が戻ったのだと思っていた。

便箋の右下に、小さな水滴の跡がある。インクは滲んでいない。書いたあとに落ちたのか、書く前に落ちたのかは分からなかった。

――私は、もう同じ場所には立てません。

その一文だけ、他より少し大きく書かれていた。

文字の線が強い。筆圧が紙の裏まで残っている。

俺はそこを何度も読んだ。

同じ場所。

それが部長の隣という意味なのか、俺の背中を追う場所という意味なのか、それとも部活そのものを指しているのか、分からなかった。分からないまま、胸の奥だけが先に理解してしまう。

凛はもう、俺のやり方に戻るつもりがない。

それは拒絶だろうか。

それとも、ようやく自分の立つ場所を探そうとしているのだろうか。

手紙を持ったまま、俺は立ち上がった。床に落ちたテーピングの切れ端を拾い、ゴミ箱へ入れる。ロッカーの扉を閉める。乱れていた名札を一つ直す。

いつもの片付けを始めても、手紙の文字は消えなかった。

俺は練習中の凛を思い出していた。

「佐伯、今の動き、遅い」

そう言った日のこと。

凛は一度視線を落とし、それから「すみません」と答えた。俺はすぐに、「謝る前にもう一回やれ」と続けた。責めたつもりはなかった。謝らなくていい。次へ行け。そう伝えたかった。

けれど、凛がそのあと何を考えていたのか、俺は知らない。

知らないまま、次のメニューを叫んだ。

別の日には、凛が練習メニューの紙を持って俺のところへ来た。何か言いかけていた。俺は時計を見て、全員を集める時間だと思い、「それ、あとで見る」と言った。

凛は「はい」と言って、紙を折った。

あとで見ることはなかった。

その紙がどこへ行ったのかも、俺は知らない。

俺は戦術ノートを開いた。

昨日までなら、試合の反省を書くページを探していた。けれど今日は、凛が練習中に使っていた配置のメモが目に入った。俺が書いた矢印の脇に、細い赤ペンで小さな修正が加えられている。

右へ寄りすぎる。  ここで一拍待つ。  相手の視線が外れてから。

俺が書いたものではなかった。

凛の字だった。

俺はその書き込みを見つけたとき、以前なら勝手に直したことへの苛立ちを覚えていたかもしれない。戦術は全員で共有するものだ。勝手に変えれば混乱する。そう思っていた。

だが、今見ると、その修正は正しかった。

試合中、凛は何度もそこを指摘していたのだろう。俺が聞かなかっただけで。

ノートを閉じることができなかった。

窓から風が入り、便箋の端が揺れた。花びらが机の上でくるりと回り、戦術ノートの表紙へ落ちる。

俺は花びらを拾おうとして、手を止めた。

凛は、なぜこれを挟んだのだろう。

花びらは祝福にも見えた。引退への餞別にも、終わりを知らせる印にも見えた。部活お守りの紙片は、勝つための願いだったのかもしれない。続けるための願いだったのかもしれない。

けれど手紙の中の凛は、続けることだけを願ってはいなかった。

自分が潰れないこと。

誰かの背中ではなく、自分の足で立つこと。

そういう願いが、紙片の折り目に押し込められている気がした。

「俺は、何を見てたんだ」

声に出してから、返事がないことに気づいた。

部室は静かだった。冷蔵庫の低い音と、窓の外の蝉の声だけがある。誰もいない場所では、言葉はすぐ床へ落ちる。拾い上げる人がいないから、自分で拾うしかない。

俺は便箋を机へ置いた。

その横に、母に急かされた進路希望の書類を置く。どちらも薄い紙なのに、手に取ると逃げ場がなくなる。部長を終えたら、次は進路を決める。そういう順番だと思っていた。部活が終われば、受験か就職かを選び、決めた方へ進めばいい。努力して、結果を出して、次へ行く。

けれど凛の手紙は、その順番を乱した。

終わったあとに、終わらせてはいけなかった言葉が残っている。

俺は窓の外を見た。

校庭では、文化祭の立て看板を運ぶ生徒たちが、板の向きを何度も変えていた。遠くの体育館から、短い笛が聞こえる。新チームの練習は、もう始まっている。俺がいなくても、部は動く。俺がいない方が、動きやすいことだってあるのかもしれない。

その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥に痛みが走った。

誇りと罪悪感は、よく似た場所にある。

俺が前に立っていた時間を、全部間違いだったことにはしたくない。凛を支えたかった気持ちも、勝ちたかった気持ちも、泥だらけで走った日々も、嘘ではなかった。

でも、嘘ではないことと、誰も傷つけなかったことは別だ。

俺は手首に残ったテーピングの跡を撫でた。皮膚には薄い赤みが残っている。痛みをごまかすために巻いていたものだ。剥がしたあとも、そこだけ身体が覚えている。

手紙の痛みも、同じように残るのだろうか。

すぐに消すのではなく、何度も触れて、そこに傷があったことを忘れないようにするしかないのだろうか。

便箋をもう一度、最初から読む。

今度は返事を考えずに読んだ。

謝る言葉も、励ます言葉も探さない。凛が書いた一行を、一行のまま受け取る。感謝も、憧れも、苦しさも、俺に都合のいい順番へ並べ替えない。

読み終わるころには、蝉の声が少し遠くなっていた。

俺は花びらを便箋の上へ戻した。

それから、封筒の裏に小さく日付を書いた。引退試合の翌朝。手紙を見つけた日。たったそれだけの記録だった。

書き終えた鉛筆を置き、俺はしばらく動かなかった。

返事はまだ書けない。

何を言えばいいのか分からない。分からないまま、分かったふりをしてはいけないと思った。

部室の外で、誰かが走っていく足音がした。階段を下り、校庭の方へ遠ざかっていく。俺はその音を聞きながら、机の上の花びらに指を伸ばす。

薄い紙片は、触れた途端にわずかに折れた。

元に戻そうとして、やめた。

折れたものは、折れたまま残る。その形を含めて、受け取るしかない。

俺は手紙を封筒へ戻した。

今度は、机の上に置くことができた。

ただし、鍵を返したあとの部室で、もう一度ここへ戻ってくるために。

真琴が戸口から顔を出した。

「おまえ、顔ひどいぞ」

「分かってる」

「分かってる人の顔じゃないけど」

俺は封筒を見た。花びらは継ぎ目に挟まったまま、かろうじて形を保っている。開けば落ちる。閉じれば見えなくなる。どちらにしても、そこにあることだけは変わらない。

窓の外で、蝉が鳴いた。

夏の終わりを急かすように、朝の光が部室の床をゆっくり横切っていく。

俺は封筒を握ったまま、しばらく立っていた。

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