第4話 紙の上でだけ、息をする

戸を叩いた音は、廊下の奥から届いたものだった。

一度だけ、控えめに。

俺は机の上へ置いた手紙に目を落とした。便箋の端が、開け放した窓から入る風に揺れている。花びらがその上を滑り、凛の文字の途中で止まった。

――先輩が悪い人だとは思っていません。

その一文が、さっきから何度も視界に入ってくる。

「どうぞ」

声をかけると、戸がゆっくり開いた。

佐伯凛が立っていた。

背中に練習用のバッグを背負い、片手には細い赤ペンを持っている。体育館から来たのか、前髪の生え際に汗が浮いていた。けれどユニフォームはきちんと整っていて、タオルもいつものように細長く畳まれている。肩だけが、わずかに上がっていた。

俺を見た凛の目が、手紙へ移る。

ほんの一瞬だった。

けれど、その一瞬で十分だった。

「……おはようございます」

凛は、いつもより丁寧に頭を下げた。

「おはよう」

俺も返した。返事をする前に、いつものように息を止めた。何を言えばいいのか探したが、手紙を読んだことをすぐ口にするのは違う気がした。凛が紙の上でやっと置いた言葉を、俺の声で乱暴に引きずり出してしまいそうだった。

凛は部室へ入らず、戸口に立ったままだった。

「藤井先生に、これを」

赤ペンを少し持ち上げる。

「練習表の修正です。神谷先輩が、あとで確認するので」

「蒼なら体育館にいる」

「はい」

それだけ言って、凛は踵を返しかけた。

俺は反射的に呼び止めた。

「佐伯」

凛の肩が止まる。

呼び止めたあとで、何を聞くつもりだったのか分からなくなった。手紙のことか。昨日の試合のことか。それとも、もっと前から何度も飲み込まれていた言葉のことか。

凛は振り返らない。

「何でしょうか」

「……昨日の最後のプレー、あれ」

口から出たのは、そんな言葉だった。

「おまえが一拍待ったから、相手の視線が外れた。あれはよかった」

凛の指が、赤ペンを握り直した。

「ありがとうございます」

「俺が、前へ出ろって言ったあとだったけど」

「はい」

「でも、あの一拍は、おまえが自分で判断したんだろ」

凛はすぐに答えなかった。窓から入った風が、彼のバッグの紐を揺らす。体育館の方から、誰かの声が遠く聞こえた。新チームの練習は続いている。笛の音が一度鳴り、すぐに別の声が重なった。

凛は視線を床へ落とした。

「……そうだったと思います」

「思います、じゃなくて」

いつもの言い方が、喉まで出かかった。

断定しろ。迷うな。自分の判断を信じろ。

けれど、その言葉を飲み込んだ。凛の返事を待つ間に、自分の中で別の声がした。答えを急がせるな。今度くらい、先に決めるな。

凛は赤ペンの先を見ながら続けた。

「相馬先輩なら、たぶん前へ出ると思いました。でも、あのときは、前へ出たら相手に読まれる気がして」

「それで待った」

「はい」

「俺に言おうとはしなかったのか」

凛の背筋が、わずかに固くなる。

「言おうとしたことは、何度かあります」

声は小さかった。けれど、紙の上で読んだ文字と同じ重さがあった。

俺は机の端へ手を置いた。指先に、戦術ノートのざらついた表紙が触れる。

「何を」

「いろいろです」

「いろいろじゃ分からない」

「……そうですよね」

凛は苦く笑った。笑ったというより、口元だけを動かした。

「だから、言えなかったんだと思います」

胸の奥で、何かが擦れた。

「俺が聞かなかったからか」

「聞いては、いました」

「じゃあ、何が違う」

「聞くことと、待つことは違います」

部室の空気が止まった。

凛は言ってから、少し目を逸らした。言い過ぎたと思ったのかもしれない。だが、取り消すようには口を閉じなかった。

「先輩は、いつも聞いてくれました。俺が失敗した理由も、次にどう動きたいかも。でも、俺が言い終わる前に、先輩の中ではもう答えが決まっていた」

「そんなつもりは」

「分かっています」

凛の返事は穏やかだった。だから余計に、逃げることができなかった。

「先輩は、俺を助けようとしてくれていました。最初に一人で残っていたときも、ボールの持ち方を教えてくれた。あのとき、俺は本当に助かりました。失敗しても、次に何をすればいいか教えてもらえたから、続けられました」

凛はそこで一度、唇を指先で押さえた。

「でも、助けてもらった方法でしか、続けられなくなりました」

外で蝉が鳴いた。

あまりにも大きく、部室の壁が薄くなるようだった。

「先輩が声を出せば、俺も声を出さなきゃいけないと思った。先輩が疲れていても走るから、俺も走らなきゃいけないと思った。先輩が誰かの失敗を拾うから、俺は失敗してはいけないと思った」

「失敗するななんて、言ってない」

「はい。言われていません」

「なら」

「言われていないから、余計にです」

凛は初めて、俺を見た。

視線はまっすぐだった。けれど、その奥に疲れがあった。ずっと見ないようにしてきたものを、今だけは見せると決めた人間の目だった。

「先輩は、俺に何も強制していません。だから俺は、自分で勝手に追いかけました。勝手に真似をして、勝手に苦しくなりました。先輩のせいだけにはできません。でも、自分だけのせいにもできません」

言葉の一つひとつが、紙の上で何度も折り直された跡のように残った。

俺は返す言葉を探した。

謝ればいいのかもしれない。悪かった、と言えばいい。気づかなかった、と認めればいい。

けれど、謝罪は時に、相手の痛みを自分の反省へ回収する。俺が悪かった、俺が直す、だからもう終わりにしよう。そうやって、また自分の手で話を片付けてしまう。

俺は手紙へ目を向けた。

「これを書いたのは、いつだ」

「昨日の試合のあとです」

「書き始めたのは」

「もっと前です」

「直接渡そうとはしたのか」

凛の指が、赤ペンの軸をゆっくり回した。

「何度も」

「何度も?」

「練習のあと、先輩がノートを見ているとき。帰る前に部室の鍵を閉めるとき。最後の試合が終わったあとも、渡そうと思っていました」

「じゃあ、どうして」

凛は窓の外へ目を向けた。

早い夏の光が、校庭の白線を濡れた刃物みたいに照らしている。体育館へ向かう生徒たちの影が、校舎の壁を横切っていく。みんな次の場所へ移動しているのに、俺たちだけが部室の戸口で足を止めていた。

「先輩の顔を見たら、感謝を先に言ってしまうと思ったからです」

「感謝を?」

「はい。ありがとうございました、と言って、それで終わってしまうと思いました。苦しかったことまで言おうとすると、先輩が困る。困った先輩を見たら、俺はたぶん、すぐに謝る。謝ったら、先輩はきっと『気にするな』と言う。そうしたら俺は、また何も言えなくなる」

俺は手紙の文面を思い出した。

感謝のあとに置かれていた、苦しさ。

凛は感謝を嘘にしたくなかった。だからこそ、その後ろにある痛みも消せなかったのだ。

「俺は、そんなにすぐ『気にするな』って言うか」

「言います」

「……そうか」

「先輩は、誰かが痛がっていると、痛みの理由より先に、次の動きを考えます」

図星だった。

怪我をしたら冷やす。失敗したら修正する。落ち込んだら声をかける。そうしている間に、痛みそのものを見ないで済む。俺はずっと、そうやって部を動かしてきた。

「だから、紙に書きました」

凛は手紙の方を見た。

「紙なら、俺が途中で黙っても、先輩は先に答えを出せないので」

その言葉に、胸を突かれた。

紙の上でだけ、凛は息をする。

声にしたら消されてしまうかもしれない言葉が、紙の上では消えずに残る。俺が読んでいる間、凛はここにはいない。俺の表情を見て言い直すことも、傷ついた俺を気遣って言葉を弱めることもない。

だから手紙は、凛が初めて自分の呼吸で書いた場所だった。

「手紙を読んだ」

俺は言った。

「何度も」

凛の視線が戻る。

「……はい」

「まだ、返事はできない」

凛はうなずいた。

「そうだと思っていました」

「分かるのか」

「先輩は、すぐに答えを出すときほど、顎が上がるので」

思わず顎へ手をやった。

凛の口元がほんの少しだけ緩んだ。笑ったのか、それとも昔の癖を思い出しただけなのかは分からない。

「でも、今日は上がっていません」

「そうか」

「はい」

「それは、いいことなのか」

「分かりません」

凛はまた一拍置いた。

「ただ、今までよりは、話しやすいです」

その言葉を聞いても、俺はすぐに喜べなかった。話しやすいということは、これまで話しにくかったということだ。信頼されていたと思っていた時間の裏側に、近づけなかった場所があった。

けれど、痛みを知ったからといって、過去のすべてを偽物にする必要はない。

凛が俺に憧れていたことも、俺が凛を支えたかったことも、本当だった。その本当の中に、息苦しさが混じっていた。人と人の間に残るものは、きれいな一色ではない。

「佐伯」

「はい」

「俺のことを、もう追いかけなくていい」

言ってから、その言葉が命令に聞こえないか不安になった。

凛も、すぐには返事をしなかった。赤ペンを持つ手が止まる。

「それは、先輩が決めることではないです」

低い声だった。

「……そうだな」

「追いかけたくない日もあります。でも、追いかけたい日までなくしたいわけではありません」

凛は紙の折り目を探すように、指先で空中をなぞった。

「俺は、先輩みたいになれないことが嫌だった。でも、先輩みたいになれない自分を認めたら、何を目指せばいいのか分からなくなった。だから、もう同じ場所には立てないと書きました。あれは、先輩を嫌いになったという意味ではありません」

「分かってる」

「先輩は、まだ分かっていない顔をしています」

今度は、少しだけ本当に笑った。

その笑いに、以前のような無理な明るさはなかった。ほんのわずかでも、自分の言葉で立っている人間の顔だった。

部室の奥で、冷蔵庫のモーターが低く唸った。窓から入った風が、机の上の花びらを持ち上げる。俺は手を伸ばしかけて、途中で止めた。

凛が先に拾った。

薄い花びらを指先で挟み、封筒の口へ戻す。その手つきは丁寧だったが、以前のように自分を隠すためのものには見えなかった。

「それ、部活お守りの紙片も入っているだろ」

「はい」

「何を願ったんだ」

凛は花びらを見たまま答えた。

「最初は、勝てるように」

「最初は?」

「途中から、続けられるように。最後は……自分で決められるように」

俺は何も言えなかった。

体育館から、神谷の声が聞こえた。短く、乾いた指示。続いて何人かの足音が床を叩く。秋の大会へ向けた時間が、こちらの事情など知らずに進んでいる。

凛は戸口へ向き直った。

「練習に戻ります」

「ああ」

「先輩」

「何だ」

「手紙は、捨てないでください」

その言葉だけ、凛の声がわずかに震えた。

「捨てない」

「返事も、無理に書かなくていいです」

「でも、書く。すぐじゃなくても」

「……はい」

「俺の言葉じゃなくて、俺が分からなかったことを書く。そうしないと、また勝手に終わらせる気がする」

凛は視線を落とした。

「それなら、待ちます」

扉の向こうへ出ようとした凛が、ふと足を止める。

「ただ」

「うん」

「今度、俺が何か言おうとしていたら、答えを出す前に、少しだけ待ってください」

簡単な頼みだった。

けれど俺にとっては、これまで一度もできなかったことだった。

「分かった」

返事をする前に、息を止めなかった。

凛はそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのか、何も言わなかった。ただ、背筋を伸ばしすぎていた姿勢をほんの少しだけ緩めて、廊下へ出ていった。

足音が遠ざかる。

階段を下りる音ではなく、体育館へ戻る音だった。一定の間隔で続いていた笛の方へ、凛の靴音が混じっていく。

俺は部室に残った。

机の上の戦術ノートを開く。昨日までなら、試合の反省を書き足していた。どこで遅れたか、どの動きが悪かったか、次はどう修正するか。

ページの余白に、赤いペンで書かれた凛の小さな文字がある。

――ここで一拍待つ。

俺はその下へ、鉛筆を置いた。

すぐには書かなかった。

窓の外では、文化祭の看板が風に揺れている。体育館からは、神谷の短い指示と、誰かの荒い呼吸が聞こえる。蝉の声はまだ強い。夏は、終わりかけているのに、どこまでも騒がしい。

俺は机の前に座ったまま、何もせずに待った。

待つというのは、何もしないことではなかった。声を出さず、答えを急がず、相手が自分の言葉を見つけるまで、その場を離れないことだった。

花びらが、便箋の上でかすかに震えている。

紙の上で息をしていた言葉が、今度は少しずつ、こちら側の空気へ戻ってくる。

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