第5話 真琴の軽口、沈黙の底

凛が戻っていったあとも、部室には彼の体温の名残みたいなものが漂っていた。
戸口に立っていた場所、窓から差す光の角度、赤ペンを握っていた手の動き。そういうものが、見えない輪郭になって部室の空気に残っている。俺は戦術ノートを開いたまま、何も書けずにいた。鉛筆の先だけが、紙の上で小さな黒い点を作っている。
廊下の方から、妙に軽い足音が近づいてきた。
聞き慣れた歩き方だった。踵をわずかに引きずるような、力の抜けた歩調。真琴だ。
「悠斗ー、生きてる?」
声より先に戸が開いた。真琴は両手に紙コップを持っていて、中には氷の浮いたスポーツドリンクが揺れている。製氷機が故障しかけだと聞いていたから、わざわざ職員室の冷蔵庫から持ってきたのかもしれない。
「おまえ、昨日から顔が死んでる」
最初の一言は、いつも通り軽かった。軽すぎるくらい軽い。けれどその声は、俺の手元――机の上に開かれたままの便箋と、花びらを挟んだ封筒を見つけた瞬間、ほんの少しだけ調子を落とした。笑っていた口元が、閉じるというより、形を変えた。笑いを止めたのではなく、笑いの意味を変えたような、そんな止め方だった。
「座っていい?」
返事を待たずに、真琴は机の縁に腰を預けた。紙コップの一つを俺の前へ置く。氷が溶けかけて、水滴がコップの底を濡らしていた。
真琴はもう一方のコップに口をつけ、少し舐めるように飲んだ。それから、わざと明るい声を作って続けた。
「後輩に怖がられるって、部長としては評価高いんじゃない? 威厳あるじゃん」
冗談の形をしていた。だが、その裏にあるのが慰めではないことを、俺は知っていた。真琴はいつも、本当に重いことを軽い言葉で包んで寄越す。包み紙をほどいたとき、中身が軽ければそのまま笑い話になるし、重ければ、こちらが受け止める覚悟を決める時間を少しだけくれる。
俺は笑えなかった。
笑えないまま、紙コップに伸ばしかけた手を止め、代わりに掌の中の封筒を握り直した。紙の感触は、もう何度も握ったせいで湿り気を帯び始めている。
真琴はその沈黙を責めなかった。
沈黙を埋めようともしなかった。かわりに、彼女自身の声を少しだけ低くした。普段の、誰かをからかうときの高さから、半音くらい下げた声だった。
「引退の翌朝ってさ、こういうのあるよな」
独り言のような言い方だった。
「なんか、終わったはずなのに終わってない感じ。昨日まであんなに大きかったものが、今朝起きたら急に小さくなってて、でも小さくなった分、なんか別のところに重さが移動してる、みたいな」
俺はその言葉を、自分の胸の中にそのまま置いてみた。たしかにそうだった。引退試合が終わった瞬間、俺の中の何かは確かに終わった。けれど、終わったはずの場所から、別の重さが生まれていた。それは昨夜までなかったものだ。
「励ますのと、追い詰めるのって」
俺は言いかけて、言葉を探した。
「境目が、分からなくなった」
自分の声が、思ったより掠れていた。
「俺はずっと、声を掛けることは支えることだと思ってた。迷ってるやつに答えを出す。黙ってるやつの代わりに動く。そうやって部を前に進めることが、部長の仕事だと思ってた。勝つために必要なことだと、信じて疑わなかった」
真琴は何も言わず、氷を揺らしていた。
「でも、それが誰かにとっては」
声が、そこで止まった。
「息苦しさだったのかもしれない」
言った瞬間、自分の言葉が自分の喉を通って出ていったことが、不思議なくらい重かった。これまで、こんなふうに自分の在り方を疑う言葉を、誰かの前で口にしたことはなかった。弱音を吐くことと、過ちを認めることは違う。それでも今は、両方が同じ場所から出てきている気がした。
真琴は即座に否定しなかった。
「そんなことない」とも、「考えすぎだ」とも言わなかった。その代わりに、紙コップを両手で包み込み、氷の音をかすかに立てながら、別のことを話し始めた。
「昨日の試合の前の夜ね」
声の温度が、また少し変わる。
「あたし、用具室の鍵を閉めに行ったんだよ。もう真っ暗で、誰もいないと思ってた。そしたら、隅の方に凛がいた」
「一人で?」
「うん。ひとりで、ずっと立ってた」
真琴は紙コップの縁を指でなぞった。
「手に封筒を持っててさ。開いては閉じて、またポケットに入れて、それを何回も繰り返してた。口を開きかけて、でも結局、何も言わずにまた黙って。あたしが声かけようとしたら、気配に気づいたみたいで、逃げるみたいに廊下へ出ていった」
その情景が、俺の頭の中で勝手に像を結んでいく。暗い用具室、佐伯凛の輪郭、握られては開かれる封筒の音。
「声、かけなかったのか」
「かけようとしたよ」
真琴はあっさり認めた。
「でも、あの沈黙は、たぶん押し開けるものじゃなかった」
その言い方に、俺は少し苛立った。
「黙って見てろってことか」
「違うよ」
真琴は俺を見た。目をそらさずに、まっすぐに。
「見てるなら、見てるって分かるようにいればいいんだよ。助けようとして手を突っ込むんじゃなくて、ただ、そこにいること。凛がやっと自分のところまで言葉を手繰り寄せてるときに、横から別の言葉を差し込んだら、また最初からやり直しになる」
「おまえの前だと、あいつ、妙に丁寧だったろ」
真琴がふいに付け加えた言葉だった。
「丁寧?」
「うん。凛って、誰にでも礼儀正しいけど、悠斗の前だとそれが一段階上がるんだよね。言葉選びが慎重になるっていうか、間違えちゃいけない、みたいな感じで」
その一言だけで、俺の胸の奥が少し冷えた。丁寧さというのは、ただの礼儀作法ではない。相手との距離を測るための、もう一つの言語でもある。凛が俺に向けていた丁寧さは、敬意であると同時に、近づきすぎないための壁だったのかもしれない。
「俺が、そんなに」
言いかけて、言葉に迷う。
「怖かったのかな」
「怖いっていうのとは、たぶん違う」
真琴はコップの氷を見つめながら言った。
「凛が怖がってたのは、悠斗に嫌われることじゃなくて、悠斗の期待を裏切ったと思われることだったんじゃないかな。悠斗って、怒鳴らないし、人前で誰かを責めたりもしない。だからこそ、正しくない自分を見せにくいんだと思う」
俺は何も言えなかった。
真琴は、床に座ったまま、持ってきた古いタオルを一枚、何でもないふりで丸めて放った。タオルは窓際のベンチの上に落ち、軽く弾んで止まった。その仕草が、いつもより少しだけ遅かった。普段の真琴なら、もっと滑らかに、笑いながら投げる。けれど今は、投げる前に一瞬迷ったような間があった。
「おまえもか」
俺は聞いた。
「おまえも、何か抱えてるのか」
真琴は顔を上げた。少し驚いたような表情だったが、すぐにいつもの軽さを取り戻そうとした。だが、取り戻しきれなかった。
「あたしは」
言いかけて、口をつぐむ。もう一度、言葉を選び直すように、紙コップの水滴を指でなぞった。
「引退した日の帰り道、鍵をポケットに入れたつもりで、何回も確かめてたんだよね。もう先生に返したのに。手が勝手に、なくなったものを探してる感じ。それって、たぶん、あたしも同じなんだと思う。終わったことが、頭では分かってるのに、身体がまだついていけてない」
その言葉で、真琴自身も引退後の空白を笑いだけでは埋めきれていないことが分かった。彼女はずっと、周りの感情を拾い上げる側にいた。拾い上げることに慣れすぎて、自分の空白には気づかないふりをしてきたのかもしれない。
「でも」
真琴は一度、大きく息を吐いた。わざと大きめに、音を立てて。
それは、重い空気を少しだけ軽くするための、彼女なりの呼吸の仕方だった。
「でもさ、今はそれでいいと思ってる。凛が手紙にしか書けなかったことも、あたしが鍵を探しちゃうことも、悠斗がその封筒を今日一日中手放せないでいることも、全部、終わったばかりだから仕方ないことなんだよ。終わったことを、綺麗に終わらせなきゃいけないなんて、誰も決めてない」
窓の外で、蝉の声が一際強くなった。文化祭準備の声が遠くに混じり、体育館の方角からは新チームの笛の音が、一定の間隔で届いている。俺たちの夏が閉じた場所で、別の季節がもう動き始めている。
真琴はコップに残った氷を、音を立てて口に含んだ。その冷たさで、場の空気を少しだけ切り替えるように。
「手紙ってさ」
彼女は言った。最後にもう一度、いつもの調子を取り戻そうとする声だった。
「受け取ったあとが、一番めんどくさいよな」
その言葉に、俺はただ頷いた。
頷くこと以外、何もできなかった。
返事をする前に息を止める癖が、今日はまだ一度も出ていないことに、俺はふと気づいた。いつもなら、正しい言葉を探すためにその間が必要だった。けれど今は、正しい言葉を探す代わりに、ただ真琴の言葉をそのまま受け取っている。
真琴は空になった紙コップを握りつぶし、机の端にあったゴミ箱へ軽く投げ入れた。コップは縁に当たって跳ね、それでも中に落ちた。
「よし」
彼女は立ち上がった。
「あたしも、自分の空白と折り合いつけに行くわ。売店、まだ開いてるかな」
「アイスか」
「アイス」
真琴は戸口で一度だけ振り返った。
「悠斗」
「何だ」
「凛の手紙、ちゃんと最後まで抱えてやれよ。重いものを軽くする必要はない。重いまま持ってればいい。それがたぶん、おまえにできる一番誠実なことだから」
戸が閉まる。
部室には俺一人が残った。
机の上の便箋は、さっきのままの形で開かれている。花びらは風に揺れることもなく、紙の上で静かに色を失いかけていた。俺は戦術ノートの余白に視線を落とした。凛が書き込んだ赤い文字の下に、まだ何も書けていない鉛筆の跡がある。
重いまま持っていればいい。
真琴の言葉が、耳の奥でまだ響いていた。
窓の外では、蝉の声がどこまでも続いている。夏は終わりかけているのに、終わり方を知らないみたいに、ただ鳴き続けていた。
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