第3話 真琴と、言い足りない朝

昼を過ぎても、部室の匂いは薄くならなかった。

窓を開け放しているのに、汗を吸ったタオルと泥のついたユニフォーム、それからテーピングの糊が混じった甘い臭いが、壁や床の隙間に残っている。風が入るたび、カーテンが膨らみ、机の上の紙が一枚ずつ揺れた。外では文化祭の準備をする声がしている。誰かが脚立を運び、誰かが看板の向きを直し、誰かが笑っている。

その声を聞きながら、俺は一人で部室にいた。

昼飯を食べた記憶がない。冷蔵庫の脇にあったスポーツドリンクを飲もうとしたが、ぬるくなっていた。口に含むと、甘さだけが舌に残った。冷えていないスポーツドリンクは、喉を潤すより、身体の中に残っている熱を思い出させる。

机の上には、佐伯からの手紙を開いたまま置いてある。

紙の端が風にめくれるたび、そこに書かれた文字が覗いた。

感謝。憧れ。苦しさ。

どれも同じ筆跡で書かれている。丁寧で、崩れていなくて、だから余計に逃げ場がなかった。

部室の戸が勢いよく開いた。

「生きてる?」

長谷川真琴が顔を出した。片手にスポーツドリンクを二本、もう片方の手にコンビニの袋を下げている。

「死んでたら返事できないだろ」

「いや、死んだ人間でも部長の意地で返事くらいしそうだから確認した」

真琴はそう言って、一本を俺の前へ置いた。冷えた缶が机に触れ、結露した水滴が丸い跡を作る。もう一本を自分の手に残し、蓋を開けるなり、喉を鳴らして飲み始めた。

金属の蓋が机の端に当たる。

カン、と乾いた音がした。

真琴は半分ほど飲んでから、缶を口から離した。いつもなら、そこで味の文句を言う。炭酸が弱いとか、昨日の売店の方が安かったとか、そういうどうでもいい話を一つ挟む。けれど今日は、何も言わなかった。

部室の中を見回している。

記録ボード。乱れたロッカー。床に残った泥。机の上の戦術ノート。そして、開いたままの便箋。

真琴の目が、最後に手紙で止まった。

「後輩に手紙もらうなんて、部長としては大人気だな」

冗談だった。

俺は笑えなかった。

「ファンレターじゃない」

「分かってる。ファンレターなら、もっと字が丸い」

「字で分かるのか」

「凛の字は、怒ってるときほど丁寧になるから」

真琴は缶を机に置いた。指先でラベルの端を剥がし始める。考え事をするときの癖だ。白いラベルが細く裂け、彼女の爪の周りに貼りついていく。

「読んだの?」

「ああ」

「全部?」

「全部」

「そっか」

真琴はそれだけ言った。

俺は手紙を閉じようとした。だが、紙に触れた指が止まる。封筒の横に置いた花びらが風で揺れ、便箋の上へ滑った。真琴はそれを拾おうとしたが、俺が先に押さえた。

花びらは乾いて、薄い紙のようになっていた。

「それ、凛が挟んだの?」

「たぶん」

「たぶんって。本人に聞いてないのに、凛の細工だって分かるんだ」

「こういうのを残すから」

「言葉の代わりに?」

俺は答えなかった。

真琴は花びらを見て、それから手紙の最初の数行だけを目で追った。最後まで読もうとはしなかった。紙へ伸ばしかけた指を途中で引き、缶の水滴を親指で拭う。

「凛、あいつ、言葉を出すまでに時間かかるくせに、出したら重いんだよ」

「……何度も書き直したんだろうな」

「うん。たぶん、一晩じゃ足りないくらい」

「なんで、直接言わなかったんだ」

「言えると思う?」

真琴の声から、笑いが消えた。

俺は便箋ではなく、机の木目を見た。細い傷がいくつも走っている。ボールペンの先でつけたもの、道具を引きずってできたもの、誰かが苛立って拳を置いたときにできたもの。傷は重なっていて、いつ、誰がつけたのか分からない。

「俺がそんなに怖かったか」

「そういう言い方するから、たぶん怖いんだよ」

「どういう意味だ」

「凛が怖がってたのは、怒鳴られることじゃない。期待を裏切ったと思われることだよ」

俺は顔を上げた。

真琴はもうラベルを剥がしていなかった。缶を両手で包み、冷たさを確かめるようにしている。

「おまえは怒鳴らないし、みんなの前で失敗を責めたりもしない。だから余計に、凛は言えなかったんだと思う。おまえに『頑張れ』って言われたら、頑張れない自分の方が間違ってるみたいになる。おまえが悪いって言いたいんじゃないよ。でも、正しいことを言う人の前では、正しくない自分を見せにくいんだよ」

「俺は、正しいことを言ってきたつもりはない」

「でも、正しくあろうとはしてたでしょ」

返事の前に、息が止まった。

真琴は俺の顔を見た。目が合ったのは一瞬だった。すぐにこちらの手元へ視線を落とす。俺が誰かの話を聞くとき、目より手元を見るのと同じように、真琴も俺の指先を見ていた。

俺の指は、手紙の角を何度も撫でていた。

「前から、気づいてたのか」

「何に?」

「凛のこと」

「気づいてたというか、気づきそうになって、やめた」

「なんだそれ」

「だって、本人が言ってないものを、勝手に言葉にするのは違うでしょ」

真琴はそこで一度、窓の外を見た。

午後の光が校庭の白線を強く照らしている。立て看板を運んでいた生徒たちは、今度は大きな布を広げていた。風に煽られた布が何度も膨らみ、そのたびに数人が慌てて端を押さえる。

「昨日の試合のあとね」

真琴が言った。

「凛、用具室の隅にいた」

「一人で?」

「うん。みんなが帰り始めてるのに、ずっと。手紙を持ってた。ポケットから出して、封筒の口を見て、またしまって。三回か四回、それを繰り返してた」

「声はかけなかったのか」

「かけようとはしたよ。でも、私が『何してんの』って言ったら、たぶんあいつは笑って、何でもないですって言う。そしたら私は、いつものように冗談を言って、あいつもいつものように少し遅れて笑って、それで終わる」

「それでも、声をかければよかっただろ」

「そうかもね」

真琴はあっさり認めた。

その素直さが、かえって痛かった。

「でもさ、悠斗。沈黙って、いつも壊せばいいわけじゃないよ。誰かがやっと自分のところまで戻ってきてるときに、横から手を突っ込んで引っぱったら、また遠くへ行っちゃうこともある」

「じゃあ、黙って見てろっていうのか」

「違う。見てるなら、見てるって分かるようにいればいいんだよ」

「そんなの、俺にはできない」

「知ってる」

即答だった。

俺は缶を握った。冷気が手のひらへ染みる。蓋の縁が指に食い込み、薄い痛みが残った。

「俺は、言わないやつの代わりに言わなきゃいけないと思ってた。誰かが迷ってたら、先に決めなきゃいけない。声が出ないなら、俺が出せばいい。そうしないと、部が止まるから」

「止まってもいいときは?」

「試合中に止まったら負ける」

「部室では?」

すぐには答えられなかった。

真琴は続けた。

「練習中でも、試合中でもない場所でまで、止まっちゃいけないと思ってたんじゃないの。誰かが黙ったら、失敗みたいに感じて。だから埋めた。励ました。指示を出した。前へ行けって言った。たぶん、私も同じことをしてた」

「おまえが?」

「私は笑いで埋めるから、もっとたちが悪いよ」

真琴は自分の缶を見下ろした。

「しんどいときにふざけるのは、呼吸する隙を作るためだと思ってた。でも、ふざけたまま本当のところまで行けないこともある。昨日の帰り、私はみんなにアイス買おうって言った。引退試合のあとだから、そういうもんだと思って。誰も泣かなかったし、誰も立ち止まらなかった。でも、帰ってから急に、部室の鍵を持ってないことに気づいてさ」

真琴は笑おうとした。

「鍵って、ずっと持ってると邪魔なのに、なくなると手が変になるんだよね。ポケットを何回も探す。もう返したのに」

その言い方で、真琴自身も空白を抱えていることが分かった。

俺は何も言えなかった。

真琴は、俺の沈黙を急かさなかった。けれど、今回は冗談も挟まない。部室の中に、蝉の声だけが入り込んでくる。うるさいのに、耳を澄ませると、その向こうに体育館の笛が聞こえた。

「俺の声が、凛には重かったのかもしれない」

言った瞬間、口の中が乾いた。

「支えたかったんだ。後輩が失敗して、下を向いて、それでも次へ行けるようにしたかった。俺が先輩からしてもらったことを、同じように返したかった。でも、返すって、相手が同じものを欲しがってると決めることじゃないよな」

「うん」

「俺が欲しかったものを、凛も欲しいと思ってた。そう決めつけてた」

「うん」

「……それだけかよ」

「今は、それでいいと思う」

真琴の返事は、柔らかいというより正確だった。

「すぐに『違うよ』って言ったら、手紙を書いた凛の言葉を、私がまた上から消すことになるから」

俺は便箋へ目を落とした。

手紙の一行が、風に揺れている。

――先輩が悪い人だとは思っていません。だから、苦しいと言えませんでした。

その文字を指でなぞることはできなかった。なぞれば、書いたときの凛の筆圧まで伝わってきそうだった。

部室の戸が、今度は控えめに開いた。

藤井先生が立っていた。黒いファイルを脇に抱え、手には古い布巾がある。俺たちを見ても、何かを聞こうとはしなかった。まず床へ目を落とし、ベンチの下からはみ出していたタオルを拾う。次に、開きっぱなしだったロッカーの扉を一つ閉めた。

「先生、盗み聞きですか」

真琴が言った。

「廊下まで聞こえていた」

「声、大きかった?」

「声ではなく、間が」

真琴が眉を上げる。

「間って聞こえるんですか」

「部室に長くいると、聞こえるようになる」

先生は机の上のボールペンを一本ずつ揃えた。青、黒、赤。色ではなく長さを見ているような手つきだった。

俺は手紙を閉じ、封筒へ戻そうとした。

「しまうのか」

先生が言った。

「はい」

「まだ片付けるには早い」

「片付けるんじゃありません。置いておくだけです」

「それなら、場所を決めるといい」

「場所?」

「手紙を置く場所ではなく、今の自分がそれをどう扱うかの場所だ」

先生の言葉は、意味を急いで掴もうとすると逃げていく。俺は眉間に力を入れた。こういうとき、いつもなら誰かに具体的な答えを求める。何をすればいいのか。いつまでに決めればいいのか。次に何を言えばいいのか。

けれど先生は、答えを出す代わりに、机の上の紙を揃えている。

「先生は、こういうとき何をすればいいと思いますか」

「何について」

「手紙をもらったときです」

「読んだなら、読んだことになる」

「それだけですか」

「それだけで終わるかどうかは、相手との間に何が残っているかによる」

「俺には、残っているものが多すぎます」

「そうか」

「返事をしないといけない。でも、何を書いても、俺の都合のいい言葉になりそうで」

先生はすぐに返さなかった。

窓の外で、布が風に鳴った。校庭から誰かの笑い声が上がり、すぐに遠ざかる。

「返事は、整っていなくてもいい」

先生がようやく言った。

「整えすぎると、相手の言葉を自分の形に戻してしまうことがある」

真琴が、静かに缶を置いた。

俺は手紙の上に落ちた花びらを見た。薄い桃色の花びらは、風に押されて便箋の端へ寄っている。紙片と紙片が触れ合い、かすかな音を立てた。

「片付けって、物をしまうことじゃないんですか」

「物をしまうのは、片付けの一部だ」

「じゃあ、残ったものは」

「残ったままにするものもある」

先生はそう言って、窓を少し閉めた。蝉の声が一段遠くなる。静かになったというより、外と内の境目が戻ったようだった。

真琴が俺の方を見る。

「悠斗」

「何だ」

「今日、返事しなくていいからね」

「でも」

「ただ、読んだことだけは忘れないで。凛があれを直接渡せなかったことも。おまえが受け取ったのが今日だったことも。すぐ答えを出せないなら、出せないまま覚えておく。それも受け取るってことじゃない?」

俺は返事をする前に、息を止めた。

いつものように、正しい言葉を探した。

けれど今回は、見つからなかった。

「……分かった」

やっと出た声は、自分で思っていたより低かった。

真琴は笑わなかった。代わりに、少しだけ肩の力を抜いた。

「うん。それなら合格」

「何の合格だよ」

「引退初日の、ちゃんとした返事」

俺はようやく、ほんの少しだけ笑った。

笑ったあと、胸の奥に溜まっていたものが消えたわけではないと分かった。手紙の言葉は残っている。感謝も、憧れも、苦しさも、俺の中でまだ形を変えながら沈んでいる。

先生は記録ボードへ歩いていった。

白い板には、最後の得点とタイムが残っている。数字の脇には、誰かが消そうとした跡が薄く滲んでいた。先生はそれを眺めたが、消そうとはしなかった。

「このままにしておくんですか」

俺が聞くと、先生は記録ボードから目を離さずに答えた。

「次の記録を書く場所が決まるまでな」

その言葉を聞いて、俺は机の上の手紙を封筒へ戻した。折り目に沿って、急がずに畳む。花びらは抜け落ちないよう、封筒の口へ戻した。部活お守りの紙片も、角を傷めないように差し込む。

真琴は空になった缶を指で弾いた。

「帰る?」

「もう少しだけ」

「だと思った」

彼女は窓際のタオルを一枚取り、乾き具合を確かめた。まだ湿っている。布を鼻先へ近づけ、顔をしかめる。

「これ、明日までに乾くかな」

「干し方を変えれば乾く」

「ほら、そういうところ。何でもすぐ解決しようとする」

「タオルの話だろ」

「今日は、タオルだけの話じゃないんだよ」

真琴はタオルを肩に掛けたまま、戸口へ向かった。数歩進んでから振り返る。

「手紙、なくすなよ」

「なくさない」

「返事を急ぐなよ」

「分かってる」

「あと、ちゃんと寝ろ。顔が部長のままだから」

「もう部長じゃない」

口に出してから、その言葉が部室の中に残った。

真琴は何も言わなかった。ただ、いつもの軽い笑いを浮かべる代わりに、少しだけ目を細めた。

「じゃあ、顔を戻す練習でもしなよ」

戸が閉まる。

部室には、俺と藤井先生だけが残った。

先生は机の上のペンを最後に一本だけ動かし、俺の戦術ノートの横へ並べた。俺はポケットから鍵を取り出した。昨日まで首から下げていた鍵は、手のひらの中で妙に軽い。何度も握った金属の角だけが、身体に残った記憶みたいに馴染んでいる。

「先生」

「うん」

「鍵を返したら、俺はもうここに来ちゃいけないんですか」

先生は俺を見なかった。記録ボードに残る数字を見たまま、少しだけ間を置いた。

「来る理由があるなら、来ればいい」

「理由がなくても?」

「理由がないことを確かめに来る人もいる」

その答えに、俺は何も返さなかった。

鍵を先生の手のひらへ置く。

金属が触れた音は、小さかった。

それなのに、部室の奥まで届いたように思えた。

空いた手で、俺は封筒を握る。薄い紙のはずなのに、そこにはまだ、凛が言えなかった時間が詰まっている。俺が気づかなかった沈黙と、先輩でいようとしていた自分の声と、その声の隙間で小さくなっていった誰かの呼吸。

外では蝉が鳴いている。

校庭の向こうでは、文化祭の準備が続いている。体育館からは、新チームの笛が一定の間隔で聞こえる。夏はまだ終わっていない。けれど、俺のところだけ、季節が一度止まったようだった。

先生が先に部室を出る。

俺は戸口に立ったまま、振り返った。

ロッカーの名札は揃っている。床の泥も、ほとんど拾った。タオルは窓際に並び、戦術ノートは机の上で閉じている。記録ボードの数字だけが、消されずに残っている。

片付いた部室は、思っていたより静かだった。

けれど今は、その静けさを埋めなければならないとは思わなかった。

封筒を胸の前で確かめる。

読むことも、返事をすることも、まだ終わっていない。終わらせる必要もないのかもしれない。少なくとも、俺の都合で早くしまい込んではいけない。

階段へ出ると、湿った空気が肌にまとわりついた。夕方の光が校庭の端から伸び、部活棟の壁を薄い橙色に染めている。

遠くで、誰かが笑った。

そのすぐあとに、体育館の笛が鳴った。

俺は封筒を握ったまま、階段を下り始めた。靴底が、朝に残した泥の跡を踏む。乾きかけた泥は、崩れながら足元から離れていった。

それでも、指先にはまだ紙の感触が残っていた。

← 横にスクロールして読み進められます

真琴と、言い足りない朝 - 紙片の朝 - 誰でも作家life