第2話 封筒の中の重さ

母からの電話が鳴ったのは、ユニフォームの山を半分ほど畳み終えたころだった。

机の上に置いていた携帯電話が、短く震える。画面に母の名前が出ている。俺はすぐには手を伸ばさなかった。封筒を握ったまま、濡れた布地の上に目を落とす。白いユニフォームの背番号が、汗で薄く黄ばんでいた。

「もしもし」

電話に出ると、母はまず俺の声を確かめた。

『まだ学校?』

「うん。片付けがあるから」

『昨日、引退試合だったんでしょ。今日は早く帰ってきなさい。進路希望の書類、机の上に置いたままだから』

「分かってる」

『分かってる人は、三日も放っておかないの』

責める調子ではなかった。ただ、朝の台所で食器を置く音が、電話の向こうから小さく聞こえた。母は俺が何かを後回しにしているとき、声を荒げない。その代わり、逃げ道を塞ぐみたいに同じことを繰り返す。

『今日、夕飯は家で食べる?』

「たぶん」

『たぶんじゃなくて』

返事をする前に、俺は一度息を止めた。

「食べる。帰るから」

『そう。じゃあ、待ってる』

通話が切れた。

暗くなった画面に、自分の顔が映っている。目の下が少し落ちていた。髪は寝癖のままで、顎には昨日の試合前に剃り残したところがある。部長らしくない顔だと思った。部長でなくなった翌朝なのだから、当たり前なのかもしれない。

俺は携帯電話を机に置いた。

その隣に、封筒を置こうとした。

けれど、指が離れなかった。

持っているだけで、紙の重さが増していく。中に入っているのは便箋一枚か二枚のはずなのに、手のひらへ沈み込む感触は、濡れたタオルより重い。俺は封筒の口に挟まった花びらを親指で押さえた。朝の光に白く透けていた花びらは、今見ると薄い桃色を残している。花の名前は分からない。凛なら知っているのかもしれない。

窓の外で、蝉が鳴いていた。

あまりにも大きな声だった。部室の中に残る空白を、無理に埋めようとしているみたいだった。

俺は封筒を裏返した。

封はされていなかった。糊の跡がわずかに浮いている。凛は、渡すつもりでここまで持ってきた。それでも直接は渡せず、ユニフォームの山の下へ置いた。

どうして、俺に声をかけなかったのか。

その問いが浮かんだとき、すぐに別の問いが重なった。

どうして俺は、声をかけられなかったことに気づかなかったのか。

封筒の口へ指を入れる。紙が擦れ、乾いた音を立てた。

中から便箋を取り出す。

何度も折り直した跡があった。四つ折りの線が少しずれていて、端の一か所だけ、爪で強く押したように白くなっている。紙を開くと、最初の行が目に入った。

――相馬先輩へ。

それだけで、喉が詰まった。

凛はいつも、俺を名前で呼ばなかった。練習中も、必要なときだけ「先輩」と言った。声が小さいから聞き返すと、今度はさらに丁寧な言葉に直した。俺はそれを、礼儀正しいやつだと思っていた。思っていたというより、そう決めていた。

便箋には、最初に感謝が書かれていた。

入部したばかりのころ、何も分からなかった自分に声をかけてくれたこと。練習のあと、誰もいない場所で一人だけ残っていた凛に、ボールの持ち方を教えたこと。失敗したとき、みんなの前で責めず、俺が代わりに藤井先生へ説明したこと。

そんなことまで覚えていたのかと思った。

俺は忘れていたわけではない。ただ、特別なことだとは思っていなかった。先輩なら、それくらいはするものだと思っていた。

文字の間に、赤い線で消された跡がある。

――先輩のおかげで、続けられました。

その一文の下に、薄く別の言葉が透けていた。

――先輩のようになれない自分を、何度も嫌いになりました。

俺は便箋を少し傾けた。消された文字は読めるのに、見てはいけないものを覗いているようだった。

手紙は、感謝だけでは終わっていなかった。

凛は、俺の背中を追いかけるのが苦しくなったと書いていた。

俺が練習中に出す声。失敗したときに眉を寄せること。誰かの足が止まると、すぐに「もう一回」と言うこと。帰り際、疲れているはずなのに「明日も遅れるな」と言ってしまうこと。

それらを、凛は一つずつ覚えていた。

自分が忘れていた動作まで、細かく。

――先輩が悪い人だとは思っていません。

そこまで読んで、俺の指が止まった。

悪い人だとは思っていない。

その言葉は、優しさの形をしていた。だからこそ、次に続く言葉を予感させた。

――だから、苦しいと言えませんでした。

紙の上で、文字だけがまっすぐ並んでいる。

俺は読み進めた。

憧れていた。先輩のように走りたかった。先輩みたいに、失敗してもすぐ立ち上がりたかった。声を出して、誰かを安心させられる人になりたかった。

けれど、真似をしようとするほど、自分の動きが遅くなった。声を出そうとすると喉が狭くなった。先輩ならできることを、自分もできなければいけないと思った。

そのたびに、凛は笑っていた。

俺はそれを、調子が戻ったのだと思っていた。

便箋の右下に、小さな水滴の跡があった。インクは滲んでいない。書いたあとに落ちたのか、書く前に落ちたのかは分からなかった。

――私は、もう同じ場所には立てません。

その一文だけ、他より少し大きく書かれていた。

文字の線が強い。筆圧が紙の裏まで残っている。

俺はそこを何度も読んだ。

同じ場所。

それが、部長の隣という意味なのか、俺の背中を追う場所という意味なのか、それとも部活そのものを指しているのか、分からなかった。分からないまま、胸の奥だけが先に理解してしまう。

凛はもう、俺のやり方に戻るつもりがない。

それは拒絶だろうか。

それとも、ようやく自分の立つ場所を探そうとしているのだろうか。

手紙を持ったまま、俺は立ち上がった。部室の中を歩く。床に落ちたテーピングの切れ端を拾い、ゴミ箱へ入れる。ロッカーの扉を閉める。乱れていた名札を一つ直す。

いつもの片付けを始めても、手紙の文字は消えなかった。

俺は練習中の凛を思い出していた。

「佐伯、今の動き、遅い」

そう言った日のこと。

凛は一度視線を落とし、それから「すみません」と答えた。俺はすぐに、「謝る前にもう一回やれ」と続けた。責めたつもりはなかった。謝らなくていい。次へ行け。そう伝えたかった。

けれど、凛がそのあと何を考えていたのか、俺は知らない。

知らないまま、次のメニューを叫んだ。

別の日には、凛が練習メニューの紙を持って俺のところへ来た。何か言いかけていた。俺は時計を見て、全員を集める時間だと思い、「それ、あとで見る」と言った。

凛は「はい」と言って、紙を折った。

あとで見ることはなかった。

その紙がどこへ行ったのかも、俺は知らない。

俺は戦術ノートを開いた。

昨日までなら、試合の反省を書くページを探していた。けれど今日は、凛が練習中に使っていた配置のメモが目に入った。俺が書いた矢印の脇に、細い赤ペンで小さな修正が加えられている。

右へ寄りすぎる。  ここで一拍待つ。  相手の視線が外れてから。

俺が書いたものではなかった。

凛の字だった。

俺はその書き込みを見つけたとき、以前なら勝手に直したことへの苛立ちを覚えていたかもしれない。戦術は全員で共有するものだ。勝手に変えれば混乱する。そう思っていた。

だが、今見ると、その修正は正しかった。

試合中、凛は何度もそこを指摘していたのだろう。俺が聞かなかっただけで。

ノートを閉じることができなかった。

窓から風が入り、便箋の端が揺れた。花びらが机の上でくるりと回り、戦術ノートの表紙へ落ちる。

俺は花びらを拾おうとして、手を止めた。

凛は、なぜこれを挟んだのだろう。

花びらは、祝福にも見えた。引退への餞別にも、終わりを知らせる印にも見えた。部活お守りの紙片は、勝つための願いだったのかもしれない。続けるための願いだったのかもしれない。

けれど、手紙の中の凛は、続けることだけを願ってはいなかった。

自分が潰れないこと。

誰かの背中ではなく、自分の足で立つこと。

そういう願いが、紙片の折り目に押し込められている気がした。

「俺は、何を見てたんだ」

声に出してから、返事がないことに気づいた。

部室は静かだった。冷蔵庫の低い音と、窓の外の蝉の声だけがある。誰もいない場所では、言葉はすぐ床へ落ちる。拾い上げる人がいないから、自分で拾うしかない。

俺は便箋を机へ置いた。

その横に、進路希望の書類を置く。母に急かされている紙と、凛から届いた紙。どちらも薄いのに、手に取ると逃げ場がなくなる。

部長を終えたら、次は進路を決める。そういう順番だと思っていた。部活が終われば、受験か就職かを選び、決めた方へ進めばいい。努力して、結果を出して、次へ行く。

けれど、凛の手紙は、その順番を乱した。

終わったあとに、終わらせてはいけなかった言葉が残っている。

俺は窓の外を見た。

校庭では、文化祭の立て看板を運ぶ生徒たちが、板の向きを何度も変えていた。遠くの体育館から、短い笛が聞こえる。新チームの練習は、もう始まっている。俺がいなくても、部は動く。俺がいない方が、動きやすいことだってあるのかもしれない。

その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥に痛みが走った。

誇りと罪悪感は、よく似た場所にある。

俺が前に立っていた時間を、全部間違いだったことにはしたくない。凛を支えたかった気持ちも、勝ちたかった気持ちも、泥だらけで走った日々も、嘘ではなかった。

でも、嘘ではないことと、誰も傷つけなかったことは別だ。

俺は手首に残ったテーピングの跡を撫でた。皮膚には薄い赤みが残っている。痛みをごまかすために巻いていたものだ。剥がしたあとも、そこだけ身体が覚えている。

手紙の痛みも、同じように残るのだろうか。

すぐに消すのではなく、何度も触れて、そこに傷があったことを忘れないようにするしかないのだろうか。

便箋をもう一度、最初から読む。

今度は、返事を考えずに読んだ。

謝る言葉も、励ます言葉も探さない。凛が書いた一行を、一行のまま受け取る。感謝も、憧れも、苦しさも、俺に都合のいい順番へ並べ替えない。

読み終わるころには、蝉の声が少し遠くなっていた。

俺は花びらを便箋の上へ戻した。

それから、封筒の裏に小さく日付を書いた。引退試合の翌朝。手紙を見つけた日。たったそれだけの記録だった。

書き終えた鉛筆を置き、俺はしばらく動かなかった。

返事はまだ書けない。

何を言えばいいのか分からない。分からないまま、分かったふりをしてはいけないと思った。

部室の外で、誰かが走っていく足音がした。階段を下り、校庭の方へ遠ざかっていく。俺はその音を聞きながら、机の上の花びらに指を伸ばす。

薄い紙片は、触れた途端にわずかに折れた。

元に戻そうとして、やめた。

折れたものは、折れたまま残る。その形を含めて、受け取るしかない。

俺は手紙を封筒へ戻した。

今度は、机の上に置くことができた。

ただし、鍵を返したあとの部室で、もう一度ここへ戻ってくるために。

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封筒の中の重さ - 紙片の朝 - 誰でも作家life