第9話 差し替えの順番

昼過ぎ、木村由衣は校閲紙の束を抱えて奈緒の机へ戻ってきた。

編集局の窓には、朝の雨がまだ細かな水滴として残っている。蛍光灯の白い光が紙面を平らに照らし、地下の輪転機が低く唸っていた。三浦が死んだあとも、紙は決められた順番で流れ、新聞は毎朝の形に折られていく。

木村は束の表紙を奈緒の前へ置き、隅に記された時刻を指で押さえた。

「ここ。三浦さんの夜の差し替え、順番が一つだけおかしい」

奈緒は紙を受け取った。

二十一時十二分、旧版を入稿。 二十一時十六分、修正版を保存。 二十一時十八分、三浦の確認印。

ところが、紙の束は十二分の位置へ戻されたあと、十六分の版に差し替えられている。さらに、その上から二十一時十二分という時刻だけが残されていた。

「時刻を変えずに、紙だけ戻した?」

「そう見える」

木村は赤ペンで、紙の端に残る白い擦れをなぞった。

「この傷、紙を抜いたときにできたもの。差し替えのために一度抜いて、別の順番へ戻している。急いだのか、わざと痕を残したのかは分からない」

「三浦さんが触った可能性は?」

「確認印は二十一時十八分。印を押したあとに紙が動かされている。三浦さんが自分で戻したなら、確認印の上に別の紙を重ねる必要がない」

奈緒は紙面を斜めに傾けた。蛍光灯の反射の中に、薄い凹みが浮かぶ。二一七という数字の跡だった。

「屋上扉の鍵番号です」

「ええ」

木村は別の紙を並べた。再開発計画の旧資料を引用した記事と、配水塔の改修記録を扱った囲み記事。どちらにも三浦の確認印があり、その下に同じ数字が残っている。

二一七。

奈緒は手帳の写しを開いた。

七時二十分、鍵は戻る。

三日間、同じ一行が書かれている。恐怖で手が震えた文字ではない。同じ筆圧、同じ行間。同じ出来事の順序を、何度も固定するための書き方だった。

「三浦さんは、紙面の差し替えと鍵の動きを同じものとして記録していたんだと思います」

奈緒は言った。

「紙が戻る。鍵が戻る。戻されたものには、戻した人間がいる」

木村はすぐに肯定しなかった。

「それでも、篠原さんが三浦さんを落とした証拠にはならない」

「はい」

「分かってる?」

「分かっています」

奈緒は方眼ノートに、時刻を書き並べた。

二十一時十二分。 二十一時十六分。 二十一時十八分。 二十二時十九分。 二十二時二十分。 二十二時三十七分。 二十二時四十一分。

木村が入退館記録をその横へ置く。

「篠原さんは二十二時十九分に再入館している。本人は印刷所との打ち合わせと言った。でも、三浦さんが鍵を返したとされる時刻は二十二時二十分。篠原さんの説明では、三浦さんはその時刻に屋上から戻った」

「一分差です」

「一分は短い。でも、鍵を受け取って、屋上扉を閉め、現場へ移動するには十分な時間でもある」

奈緒は現場写真を取り出した。

配水塔の脇に残った水の輪。乱れていない上着の裾。扉の取っ手に残った洗剤の匂い。篠原が、何かが乱れたとき最初に現場を整える癖。ひとつずつは決め手にならない。だが、紙の順番と重ねると、別の輪郭が浮かび上がった。

そのとき、藤堂圭吾が編集局へ入ってきた。

彼は現場写真の束を抱え、奈緒たちの机の前で足を止めた。写真を一枚ずつ並べ、木村の赤入れと時刻の列を見比べる。質問はしなかった。ただ、写真の端を指で押さえた。

「この写真、撮影時刻は」

「二十二時三十四分です」

奈緒が答えた。

「篠原さんの退館は二十二時三十七分。三浦さんは二十二時四十一分」

藤堂は現場写真の床を見た。

「救急隊が入る前に撮ったものです。配水塔の脇に、水の輪がある。服の裾は濡れているのに、泥が少ない。転落した場所としては、状態が均一すぎる」

「現場に手が入ったと思いますか」

「思う、では処理できません」

藤堂は奈緒を見た。

「ただ、最初に見たときより、事故の説明が窮屈になった」

木村が校閲紙を差し出した。

「こちらも同じです。二十一時十二分の紙が、二十一時十六分の版を含んだまま、十二分の位置へ戻されている。誰かが紙面の順序を直した」

藤堂は紙を受け取り、赤字の擦れを眺めた。

「この紙を扱った人間は、三浦さんの確認印を見ていますね」

「はい」

「なら、三浦さんが何を確認していたかも知っていた」

奈緒は手帳を開いた。

「三浦さんは三日間、同じ一行を残しました。七時二十分、鍵は戻る。二一七は屋上扉の鍵番号です。二十二時二十分は、篠原さんが三浦さんから鍵を受け取った時刻として記憶している」

藤堂は手帳の写しを見た。

「七時二十分が、二十二時二十分を指す根拠は」

「三浦さんは二十四時間表記を使っていました。だから、七時二十分は意図的にずらされた表記です。二一七の七と、二十二時二十分の二十分を一行に埋めた。三日間の記録と、鍵番号が別の紙で重なっています」

木村が続けた。

「さらに、篠原さんは私たちが時刻を口にする前に、二十二時二十分という時刻を知っていた。最初は七時二十分を言い間違えたと説明しましたが、そのあと、三浦さんがその時刻に鍵を返したと話した」

藤堂はしばらく黙っていた。

「篠原さんの説明では、三浦さんは二十二時二十分に屋上から戻り、鍵を返した。そのあと、三十七分に篠原さんが退館し、四十一分に三浦さんが退館したことになる」

「はい」

「なら、三浦さんは鍵を返したあと、四十一分まで編集局にいた。屋上で見つけた資料を持ち帰り、紙面の確認を続けた可能性がある」

「でも、その資料がありません」

奈緒が言うと、木村が別の校閲紙を抜いた。

「正確には、あった痕跡だけが残っている。三浦さんの確認印が、いつもの右下ではなく中央寄りにある。印が乾く前に紙を動かされ、その後、差し替えの順番が戻されている」

藤堂は紙面と現場写真を交互に見た。

「三浦さんが戻ってきたのは、紙を持ってではなく、何かを持って戻ってきたことを隠すために紙面を動かした」

「誰が?」

藤堂の問いに、奈緒は答えなかった。

答えは目の前にある。けれど、名前を口にするには、まだ一つ足りなかった。

その一つを、木村が見つけた。

「藤堂さん。現場写真の裏に、撮影順の控えがあります」

彼女は写真の束を裏返し、鉛筆で書かれた時刻を示した。

二十二時三十四分。屋上扉。 二十二時三十六分。配水塔脇。 二十二時三十七分。全景。

「屋上扉の写真が先です」

「それが?」

「扉の取っ手を撮った写真には、水滴がほとんどない。でも、配水塔脇の写真には、水の輪がある。現場を撮った順番が、発見時の順番と一致していない」

奈緒の胸の奥で、何かが静かに反転した。

藤堂が現場写真を撮ったとき、すでに誰かが扉と転落場所を別々に整えていた。扉を閉め、取っ手を拭き、配水塔の脇から水を運び、服の裾を整えた。写真に写る現場は、落下直後ではなく、誰かが事故の形へ戻したあとのものだった。

「篠原さんは二十二時十九分に戻り、二十分に鍵を受け取った。その後、三十七分に退館しています」

奈緒は言った。

「三浦さんは、二十二時二十分に鍵を返したのではない。篠原さんが二十二時二十分に、鍵を持って屋上へ戻ったんです」

藤堂の目が、奈緒へ向いた。

「続けてください」

「三浦さんは、屋上で古い資料を見つけた。再開発計画の数字が、現在の発表と違っていた。篠原さんは、それを紙面に出させたくなかった。だから、二十二時十九分に戻り、鍵を持って屋上へ行った。三浦さんと話し、資料を取り上げようとした。そこで揉み合いになり、三浦さんが転落した」

奈緒は写真の水の輪を見た。

「篠原さんは、事故に見せるために現場を整えた。転落後に上着の裾を直し、床を拭き、扉の取っ手を清掃した。三十四分に撮影が始まる前に、現場はもう整えられていた」

木村が静かに言った。

「そして、紙面の差し替え順も直した。三浦さんが何を見ていたか分からないように」

藤堂は写真の束を閉じた。

「仮にそれが正しいとして、なぜ三浦さんの退館記録が残っている」

「三浦さんが退館した記録ではありません」

奈緒は入退館記録の一行を指した。

「これは、篠原さんが二十二時三十七分に退館したあと、三浦さんのカードが四十一分に記録されたものです。篠原さんは、三浦さんがまだ生きているように見せるため、カードを使った。あるいは、三浦さん自身が戻ったように記録を残した」

藤堂は記録を見た。

「カードは本人のものですか」

「管理表では、そうなっています。でも、三浦さんの机にあったカードケースには、使用痕がありません。篠原さんが持っていた予備の入館カードと、番号の末尾が一致しています」

木村が入館管理表の写しを差し出した。

「予備カードの使用欄だけ、二十二時四十一分の記載が抜けています。四十一分の記録はあるのに、使用者の欄が空白です」

藤堂は、指先でその空白を押さえた。

空白は、初めからそこにあったのではない。誰かが残したものだった。

「篠原さんを呼びます」

藤堂が言った。

篠原はすぐに来た。編集局の中央を横切る彼の歩き方は、いつもと変わらなかった。周囲の人間が会話を止め、紙を伏せ、視線を落とす。彼が場へ入るだけで、空気が整えられていく。

「何か、確認できましたか」

篠原は奈緒たちの前で立ち止まった。

藤堂は声を荒らげなかった。

「二十二時十九分の再入館について、印刷所との打ち合わせ以外に用事はありませんでしたか」

「ありません」

「二十二時二十分に、三浦さんへ鍵を返したと話されましたね」

「はい」

「しかし、二十二時十九分に戻っている。鍵を返す相手が屋上から戻った時刻より前です」

篠原の表情は変わらなかった。

「時計の見間違いでしょう。二十二時十九分と二十分は、ほとんど同じです」

「では、なぜ手帳の一行を見たとき、最初に心当たりがないと答えたんですか」

「意味が分からなかったからです」

「意味が分からないのに、二十二時二十分を正確に思い出した」

篠原は奈緒を見た。

「白石さんが、何を言わせたいのか分かりません」

「何も言わせたくありません。順番を確認しています」

「順番なら、すでに説明したはずです。三浦くんは資料を探すために屋上へ行った。私は鍵を管理していた。彼が戻って鍵を返し、私は紙面の確認をして退館した。それだけです」

「それだけなら、紙面の差し替え順が戻された理由は?」

「知りません」

「現場写真の撮影順と、発見時の状況が違う理由は?」

「警察の判断ではありませんか」

「屋上扉の取っ手を拭いたのは?」

「清掃でしょう」

「二十二時四十一分に使われた予備カードは?」

篠原の視線が、一瞬だけ入退館記録へ落ちた。

それだけで十分だった。

藤堂は記録を閉じた。

「篠原さん。現場写真の撮影時刻、校閲紙の修正順、入退館記録、鍵番号。ひとつずつなら、説明はつく。しかし、順番を一つに並べると、あなたの説明だけが逆向きになる」

篠原は黙っていた。

「三浦さんが鍵を返したのではない。あなたが二十二時十九分に再入館し、二一七号の鍵を持って屋上へ行った。三浦さんはそこで、あなたが隠したかった資料を持っていた。転落後、あなたは現場を事故に見える形へ整えた。そのあと紙面の差し替え順を戻し、三浦さんのカードを使って、彼が自分で退館したように見せた」

「証拠は」

篠原の声は穏やかだった。

「証拠は、まだ足りません。だから、これから現場を再確認します」

藤堂はそう言ってから、奈緒を見た。

「ただ、事故処理を続ける理由もなくなりました」

篠原は微笑んだ。

「藤堂さん、私はこの局を守ろうとしただけです。三浦くんが資料を持ち出し、会社に大きな混乱を起こそうとしていた。彼は自分が何をしているか分かっていなかった。私は止めようとした。転落は事故です。現場を整えたのは、遺族に見せられる状態ではなかったからです。カードを使ったのも、彼が生きて戻ったと思わせたかったわけではない。混乱を避けるためでした」

「混乱を避けるために、事実を変えた」

木村が言った。

篠原は彼女を見た。

「事実は変えていません。見え方を整えただけです」

「見え方を変えれば、責任の所在も変わります」

木村の声は平坦だった。

「それを、記録では改ざんと呼びます」

篠原は反論しなかった。

奈緒は、彼の机に置かれた紙面編成表を見た。角は揃い、付箋の位置も乱れていない。何年も使われてきた仕事の道具だった。篠原が守ろうとしたのは、会社だけではない。自分が管理できる形に世界を戻すことだった。誰か一人の死を事故にし、誰か一人の失敗を引き受け、周囲には何も知らせない。そのやり方を、彼は正しさだと信じていた。

「篠原さん」

奈緒は言った。

「三浦さんは、あなたを告発する言葉を残しませんでした」

篠原が顔を上げる。

「だから、あなたは最後まで、彼が何も言わなかったことを自分に都合よく使えた。でも、三浦さんは沈黙したのではありません。言葉にすると、あなたが別の説明に変えると知っていたから、記録にしたんです」

「記録は、誰が読むかで意味が変わる」

「はい」

奈緒は手帳の写しを机へ置いた。

「だから、私は順番を読みました。七時二十分。鍵は戻る。二一七と、二十二時二十分。鍵が戻ったのではない。あなたが戻した。現場も、紙面も、三浦さんの死の意味も」

篠原は手帳を見つめた。

「それで、何が変わるんです」

「分かりません」

奈緒は答えた。

「新聞が止まるかもしれない。職場が壊れるかもしれない。三浦さんの家族が、また別の痛みを抱えるかもしれない。それでも、事故ではないものを事故として残すよりは、確かめる方を選びます」

篠原は、初めて視線を逸らした。

藤堂が静かに告げた。

「篠原さん。屋上と保管庫を、改めて確認します。鍵を預かります」

篠原は鍵束を取り出した。金属同士が触れ、小さな音を立てる。彼は二一七号の鍵を外し、藤堂の掌へ置いた。

その動作は、何かを返すというより、長く自分のものだと思っていた秩序を手放すように見えた。

奈緒は手帳の写しを閉じた。

窓の外では、工事現場の照明が濡れた路面を白く照らしている。編集局では、誰かが次の原稿を読み上げ、電話が鳴り、紙が新しい順番で運ばれていく。

信頼は、音を立てて崩れなかった。

ただ、そこに置かれていた紙の順番が、一枚ずつ元に戻った。

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