第8話 屋上扉の前で

その夕方、白石奈緒は最後まで編集局に残った。

締切前の北桜日報は、静かなのに忙しかった。誰も声を荒らげない。必要な言葉だけが短く交わされ、紙束が机から机へ渡される。電話の向こうで印刷所の担当者が数字を読み上げ、経理の電卓が乾いた音を刻み、地下の輪転機が低く唸っている。

三浦遼が死んだあとも、朝刊は出た。

その事実が、奈緒にはまだ不自然だった。人が一人いなくなったのに、仕事の流れは止まらない。空いた机には別の原稿が置かれ、誰かが三浦の使っていた付箋を借り、電話の伝言は彼の名前を避けて次の担当者へ回される。日常は死者の輪郭を、使い勝手のよい形に削っていく。

奈緒は、三浦の古い紙ファイルを抱えて資料棚へ向かった。

ファイルには、駅前再開発の初期計画、商店街の立ち退き区域、配水塔の改修記録などが綴じられていた。紙は湿気を吸ってわずかに膨らみ、指先にざらつきを残している。三浦なら、背表紙のラベルを見ただけで必要な一枚を抜き出せただろう。奈緒はまだ彼の分類法を完全には理解していない。だから、日付と紙の厚みを一冊ずつ確かめていた。

廊下を曲がったとき、屋上階へ続く階段の前に人影があった。

篠原克己だった。

屋上扉の前で、彼は立入禁止の札を見上げている。扉は閉まっていた。右手には鍵束があり、親指で金属の頭を一つずつ確かめていた。

奈緒の足が止まった。

篠原は鍵を取り出してはいない。扉を開けようともしていない。普段の管理確認と変わらない所作だった。だからこそ、彼がここにいること自体が、説明を必要としないように見えた。

その自然さが、奈緒には不自然だった。

「まだ残ってたんですか。無理しないでください」

篠原が振り返った。

彼がいつからこちらに気づいていたのか、奈緒には分からなかった。声は穏やかで、口元には薄い笑みがある。先に声をかけられたことで、奈緒が鍵束を見ていたという事実まで、会話の外へ押し出された気がした。

「資料を戻しに来ました」

奈緒は抱えていたファイルを少し持ち上げた。

「三浦さんの机にあったものです。屋上の倉庫に関係する資料が混じっていたので」

「そうですか。彼は古い資料をよく調べていましたからね。再開発の記事は、昔の記録を見ないと分からないことも多い」

「屋上の倉庫に、再開発の資料があるんですか」

「いくつかあります。配水設備の古い図面や、ビルの改修記録です。現在の計画とは直接関係がありませんから、普段は誰も見ません。ただ、必要になると三浦くんは自分で探す人でした。誰かに頼むより、自分で見た方が早いと思っていたのでしょう」

「三浦さんは、よく屋上へ行っていたんですか」

「よく、というほどではありません。以前に一度か二度、資料を探していたのを見た記憶があります」

篠原は鍵束をポケットへしまった。

奈緒はその手元を見た。屋上扉の鍵番号は二一七。古い真鍮の頭に白い塗料の剥がれがある。どれがその鍵なのか、もう覚えていた。篠原が触れていたものと同じかどうかは、確かめられない。

「屋上扉の鍵、まだ篠原さんが持っているんですか」

「管理は私のところで預かっています。正確には鍵棚に置いてありますが、最終的な確認は私がします」

「鍵棚に戻す時刻も記録するんですか」

「必要なら」

「必要なら、というのは?」

篠原は少し笑った。

「毎回、誰が何時に触れたかまで記録していたら、仕事が立ち行きません。編集局は、鍵を動かすたびに申請書を書くような大きな組織ではないんです。普段は互いに分かっている。それで十分に回ってきました」

「記録がなくても、互いに分かっているから問題ない、と」

「少なくとも、これまではそうでした」

「三浦さんも、その中にいたんですね」

「もちろんです。彼は信頼できる人でしたから」

信頼できる。

その言葉が、奈緒の胸の内側に薄く残った。篠原は三浦を褒めている。けれど、三浦の手帳に残った一行は、信頼だけでは処理できない何かを示している。

「では、三浦さんが鍵を持ち出した記録がないことは、持ち出していないことと同じですか」

篠原の表情が、わずかに止まった。

ほんの一瞬だった。けれど奈緒には、紙の上に残る鉛筆の擦れと同じくらいはっきり分かった。篠原は答える前に、言葉を整える。その間が、いつもより長かった。

「同じではありません」

篠原は言った。

「記録がないことは、何も起きていないことの証明にはならない。ただ、記録のない出来事を前提に話を進めるのは危険です」

「三浦さんが屋上へ行ったことは、前提にしていますよね」

「彼が古い資料を探していたと聞いていますから」

「誰から?」

「本人からです」

「いつですか」

「亡くなる前日の夕方です」

篠原は扉へ視線を向けた。

「再開発区域の昔の境界線を確認したいと言っていました。屋上の倉庫に古い図面がある。そう教えたのは私です」

「鍵は渡したんですか」

「いいえ。私が開けました」

ファイルの背表紙が、奈緒の腕の中できしんだ。

「篠原さんが?」

「屋上扉は立入禁止ですから。勝手に入らせるわけにはいきません。私が開けて、三浦くんが資料を探し、戻ってきたところで私が施錠しました」

「そのことは、管理表に残っていますか」

「ありません」

「入退館記録にも?」

「屋上へ上がっただけなら、入退館記録には残らないでしょう。あれはビルの外へ出たかどうかを見るものです」

「でも、篠原さんが外へ出て、戻った記録はあります」

「印刷所との打ち合わせです」

「何時に戻ったんですか」

「正確には覚えていません」

「二十二時二十分では?」

奈緒が言うと、篠原の視線が一瞬、鍵束をしまったポケットへ落ちた。

二十二時二十分。

三浦の手帳に書かれた一行を、奈緒はまだ口にしていない。それでも篠原は、その時刻に触れた人間のように反応した。

「……三浦くんが戻ってきたのは、その頃だったかもしれません」

「手帳には、七時二十分と書かれています」

「見ました」

返事が早かった。

「遺品を確認したときに。あれは本人の作業記録でしょう。三浦くんは重要なことを何度も書き移す癖がありましたから」

「二十二時二十分ではなく、七時二十分です」

「時刻の書き方は、人によって基準が違います。夕方以降を七時、八時と呼ぶ人もいる」

「三浦さんは、二十四時間表記で記録していました。取材先への訪問時刻も、入稿時刻も、二一時、二二時と書いています。七時二十分だけ書き方が違う理由は何ですか」

篠原は答えなかった。

階段室の窓から差し込む夕方の光が、屋上扉の前の床を細長く照らしている。金属枠の影が、床に境界線を引いていた。奈緒はその線の手前に立ったまま、動けなかった。

「白石さん」

やがて篠原が口を開いた。

「あなたが何を確かめたいのかは、分かっています。三浦くんの一行が、事故の前に何かを知らせようとしていたのではないか。誰かが鍵を持ち、誰かが屋上へ入り、誰かがそのあとに現場へ手を入れたのではないか。そういう順番を考えているのでしょう」

奈緒は返事をしなかった。

篠原の言葉は、彼女がまだ口にしていない考えまで、先に形にしていた。

「ですが、順番を考えるなら、まず前提を揃えた方がいい。三浦くんが屋上へ行ったこと。私が鍵を開けたこと。彼が資料を探していたこと。屋上扉がその後に施錠されたこと。それらは、私が隠している事実ではありません。むしろ、私が説明している事実です」

「説明される前から、私たちが知っていたわけではありません」

「だから説明したんです。情報が欠けていると、想像が入り込む。想像は、善意であっても誰かを傷つけます」

「説明が事実と違っていた場合は?」

「そのときは、訂正します」

「誰が訂正するんですか」

「責任を持つ人間が」

「篠原さんが?」

「必要なら、私が」

その答えは穏やかだった。けれど、責任という言葉には会話を終わらせる力があった。篠原が引き受けると言えば、追及する側は、それでも疑い続ける自分を冷たい人間だと思わされる。

奈緒は三浦からもらった付箋束を思い出した。

あとで困るのは時間の方だから。

三浦は、困ることを先に避ける人だった。だから、誰かが説明を整えてしまう前に、手帳へ同じ一行を残したのかもしれない。

「三浦さんの手帳は、篠原さんに見せるために書かれたものではないと思います」

「では、誰に?」

「まだ分かりません」

「分からないものを、誰かへの警告だと考えるのは危険では?」

「危険でも、確認する価値はあります」

「なぜです」

「三日間、同じ文が残っているからです。三浦さんは、同じことを何度も書く人でした。でも、何度も書くときは、同じ意味を繰り返していたのではなく、同じ順序を固定していました。紙面の修正でも、取材メモでも、順番を変えられることを嫌がっていた」

奈緒はファイルを抱え直した。

「篠原さんが説明した順番は、三浦さんが残した順番と少し違います」

「どこがですか」

「篠原さんは、三浦さんが資料を探したことを最初に話しました。でも、手帳に残っているのは資料の名前ではなく、鍵が戻る時刻です。三浦さんが記録したかったのは、資料ではなく、鍵の移動だったのではないでしょうか」

「それはあなたの解釈です」

「はい」

「解釈で人を疑ってはいけません」

「だから、記録を見ています」

奈緒は言ってから、一度だけ息を止めた。

「私は篠原さんを犯人だと言っていません。三浦さんの死が事故なのか事件なのかも、まだ決めていません。ただ、屋上の鍵を誰が持ち、いつ戻し、誰がそのあと現場を見たのかを、記録で確かめたいんです」

篠原はしばらく奈緒を見ていた。

「記録は、残した人間の意図まで残しません」

「残さないから、並べて読む必要があるんだと思います」

「並べる人間の意図は残りますよ」

「だから、木村さんと確認しています」

篠原は小さく息を吐いた。

「木村さんは、数字に厳しすぎるところがあります。彼女の仕事には敬意を持っていますが、数字が合わないことと、誰かが悪いことをしたことは同じではない」

「分かっています」

「三浦くんも、そこを混同しない人でした。だから私は、彼に余計なことを言わないようにしていました。彼は一つの違和感を見つけると、自分で抱え込む。誰かに相談すれば済むことまで、紙の上で何日も考える。そんなことをしていれば、いつか心身が持たなくなる」

「篠原さんは、三浦さんが何かに気づいていたと思っていたんですか」

篠原はすぐには答えなかった。

「気づいていた、というより、気にしていたのでしょう。三浦くんは、何でも丁寧に扱う人でしたから」

「何を?」

「古い資料です。過去の紙面に数字の違いがある。再開発計画の初期資料と、現在の発表内容が一致しない。そういうことを気にしていた」

「それは、紙面の誤りですか」

「誤りとは限りません。計画が変わっただけかもしれない。行政の資料は更新されます。過去の数字と現在の数字が違うからといって、どちらかが間違っているとは限らない」

「でも、三浦さんは屋上の資料を見ていた」

「見ていたのでしょう」

「そして、手帳に鍵のことを書いた」

「そうかもしれません」

篠原は立入禁止の札へ目を向けた。

「白石さん。仕事というものは、全部を表に出せば正しくなるわけではありません。確認のために資料を集め、整理し、必要な部分を残す。その途中で、扱いを誤れば、関係のない人まで巻き込む。私はそれを何度も見てきました」

「関係のない人を守るために、関係のある事実まで隠すことは?」

「隠すのではありません。順番を選ぶんです」

「その順番を選ぶ人が、当事者だったら?」

篠原は黙った。

古い建物の内部で、配管が小さく鳴った。水がどこかを通り抜ける音だった。奈緒は扉の取っ手に目を向ける。金属の表面には、雨の匂いではない、薄い洗剤の匂いが残っていた。

「この扉、誰かが拭きましたか」

「清掃担当が入ったのかもしれません」

「立入禁止なのに?」

「扉の外側は廊下です。清掃が入ることはあります」

「いつですか」

「そこまでは覚えていません」

「清掃記録は?」

「清掃記録まで私が把握しているわけではありません」

答えは自然だった。すべてを知っているわけではないという態度も、信頼を保つためには有効なのだろう。何でも知っている人間は不自然だが、必要なことだけを知っている人間は頼りになる。

奈緒は、その頼もしさが一枚ずつ積み重なって、疑いの視界を塞いでいることに気づいた。

「篠原さんは、三浦さんの死を事故だと思っていますか」

「現時点では、そう考えるのが妥当でしょう」

「妥当というのは、事実ですか」

「事故の可能性が高いという意味です」

「でも、事故だとは断定しない」

「警察がまだ確認中ですから」

「なら、編集局の中で事故と呼ばれているのはなぜですか」

篠原の目が、初めて奈緒から外れた。

「誰かが死んだあと、周囲が何も呼ばずにいることは難しい。人は、名前のないものを怖がります。事故と呼ぶことで、少なくとも今は仕事を続けられる」

「呼び方が、事実を決めることもあります」

「ええ。だから、責任のある人間が呼び方を選ぶ必要がある」

「篠原さんが?」

「編集局次長として、必要な範囲で」

篠原は、鍵束をポケットの上から押さえた。

「私は、三浦くんの死を軽く扱っているわけではありません。だからこそ、無責任な憶測から彼を守りたい。彼が何かを隠していた、誰かに追い詰められていた、会社が何かを揉み消そうとしている。そういう話は、証拠がなければ三浦くんの死を別の噂へ変えるだけです。亡くなった人間は、反論できません。だから、生きている側が余計な物語を与えないようにする責任がある」

奈緒はその言葉を聞きながら、三浦の手帳を思った。

三浦は、物語を残したのではない。物語にされないよう、数字と順序だけを残したのだ。誰かの善意や悪意という説明に包まれる前に、鍵が戻るという一行だけを置いた。

「三浦さんは、噂から自分を守るために書いたのではないと思います」

「なら、何のために?」

「誰かが、噂ではなく記録として読めるように」

篠原は奈緒を見た。

その目に怒りはなかった。だが、柔らかさもなかった。扉の鍵穴のように、暗く、内部を見せない目だった。

「それが白石さんであると?」

「分かりません」

「分からないのに、そこまで踏み込む」

「分からないからです」

篠原は、鍵束から一本の鍵を取り出した。古い真鍮の頭に、白い塗料の剥がれた跡がある。二一七号だった。

「この鍵は、三浦くんが戻したものです」

奈緒の視線が鍵へ吸い寄せられた。

「どうして分かるんですか」

「戻ってきたとき、彼が私に返したからです」

「いつ?」

「二十二時二十分頃です」

「その時刻を、どうして正確に?」

「彼が戻ってきたとき、編集局の時計が二十二時二十分を指していた。私は覚えています」

「手帳の七時二十分を見たとき、そのことを思い出したんですか」

「そうかもしれません」

「では、なぜ最初に心当たりがないと言ったんですか」

篠原は鍵を見つめた。

「否定したつもりはありません。手帳の一行が、私の記憶を指しているとは限らない。だから、すぐに結びつけなかっただけです」

言葉の意味が、一つずつ狭められていく。否定していない。記憶を指しているとは限らない。鍵を開けたが、貸してはいない。何も間違ってはいないのに、重要な部分だけが手の届かない場所へ移される。

「三浦さんは、その鍵を返したあと、どこへ行ったんですか」

「自分の机へ戻ったと思います」

「思います?」

「正確には見ていません。私も紙面の確認がありましたから」

「三浦さんが屋上で何をしていたかは、見ていない」

「資料を探していたのでしょう」

「何を持って戻ってきたかは?」

篠原は答えなかった。

それは、初めて明確な空白だった。

奈緒はファイルを抱えたまま、その空白を見つめた。篠原の説明は、三浦が屋上へ行った理由と、鍵を返した時刻については整っている。けれど、三浦が何を持って戻り、どこへ置き、何を見たのかについては、何もない。

何もないのではなく、篠原が語らないだけかもしれない。

その違いが、奈緒の中で形を持ちはじめた。

「その夜、三浦さんが何か紙を持っていたのを見ませんでしたか」

「覚えていません」

「紙の束を?」

「覚えていません」

「封筒は?」

「白石さん。私は何度も言っていますが、数日前の夜のことです。すべての動作を記憶しているわけではありません」

声は穏やかだった。

それでも、語尾に初めて硬いものが混じった。奈緒はそれを聞き逃さなかった。

「はい。だから、記録で確認したいんです」

「その記録がない」

「ないのか、見せられていないのかは、まだ分かりません」

言ったあと、奈緒は一歩踏み込みすぎたと感じた。だが、もう引き返せなかった。

篠原は鍵をしまった。

「白石さん。あなたが三浦くんを大切に思っていることは分かります。彼に助けてもらったから、何か返したいのでしょう。ですが、恩義は捜査の根拠にはなりません。三浦くんの死を、自分が意味のあるものにしようとしないでください」

胸の奥に、冷たいものが沈んだ。

それは奈緒自身が、密かに恐れていたことだった。三浦に助けてもらった恩を、死の真相を探す理由に変えているだけではないか。自分が見つけた一行に意味を与え、そこから事件を作ろうとしているのではないか。

「そうかもしれません」

奈緒は言った。

「私が、三浦さんの死を意味のあるものにしたいだけかもしれません。でも、意味がないことと、確認しなくていいことは同じではありません」

篠原は黙っていた。

「事故なら、記録が事故を示すはずです。鍵を誰が持ったか、いつ戻ったか、誰が屋上へ入り、誰が出たか。確認して事故なら、それでいい。三浦さんを疑うためでも、篠原さんを疑うためでもありません。曖昧なまま、誰かの説明だけで終わらせたくないんです」

篠原の目が、奈緒の抱えるファイルへ落ちた。

「その資料を、どこへ戻すつもりですか」

「三浦さんの机へ」

「そこは、もう整理するよう伝えたはずです」

「確認が終わるまでは、動かしません」

「白石さん」

「必要かどうかを決めるのは、確認してからにします」

奈緒の声は大きくなかった。以前なら飲み込んでいた言葉だった。篠原の説明に合わせて曖昧なまま頷くのではなく、自分で確かめるために立っている。

篠原はしばらく奈緒を見たあと、道を空けた。

「分かりました。あなたがそこまで言うなら、今日のところはそのままにしておきます」

「ありがとうございます」

「ただし、資料を持ち出す場合は、必ず私に声をかけてください。記録が必要ですから」

「記録が必要なら、篠原さんがつけてください」

一瞬、階段室の空気が止まった。

篠原は怒らなかった。むしろ、少しだけ悲しそうに笑った。

「疑われる側というのは、思ったより疲れるものですね」

「疑っているわけではありません」

「ええ。確認しているのでしょう」

その言い方には、奈緒の言葉をそのまま返す冷たさがあった。

「どうぞ、確認してください。確認して、何もなければ、そのときは三浦くんの死を静かに終わらせてあげてください」

篠原は扉の脇を通り過ぎ、階段を下りていった。

足音は一定だった。五階へ向かう足音が遠ざかり、編集局のざわめきへ吸い込まれていく。奈緒はその場に残り、屋上扉を見つめた。

取っ手には、薄い洗剤の匂いが残っている。

誰かが拭いたのだろう。

ただの清掃かもしれない。

奈緒は扉に触れなかった。触れれば、確かめたいという気持ちが先に立ち、見えたものを都合よく解釈してしまいそうだった。

代わりに、ファイルを開いた。

一番後ろの紙が、上下逆に綴じられている。三浦なら、そんなことはしない。奈緒は紙を抜き、裏側を見た。

鉛筆で、短い数字が書かれていた。

二一七 二二二〇

奈緒の指先が止まる。

屋上扉の鍵番号と、鍵が戻った時刻。

その下には、三浦の筆跡で、薄く消された一行があった。

七時二十分、鍵は戻る。

奈緒は三つの数字を方眼ノートへ書き写した。

二一七。 二二二〇。 七時二十分。

まだ、意味は一つに結ばれない。だが、篠原は二十二時二十分を知っていた。三浦が鍵を返したことも知っていた。しかも、最初からそれを語らず、奈緒が時刻を口にしたあとで記憶として差し出した。

その順番が、何よりも重かった。

奈緒は階段を下りた。

古い踏み板が、一段ごとに違う音を返す。窓の外では、駅前のクレーンが夕暮れの空をゆっくり切り分けていた。鉄骨の影が濡れたガラスの上を滑っていく。奈緒はその影の中を歩きながら、自分の中で何かが変わったのを感じていた。

篠原を信じられなくなったわけではない。

信じることだけでは、もう足りなくなったのだ。

編集局へ戻ると、木村が自分の机で校閲紙をめくっていた。奈緒の顔を見ると、何も尋ねず、机の右端に紙コップを置いた。無香料の茶だった。少し冷めている。

「屋上、どうだった?」

奈緒は紙コップを手に取った。

「篠原さんが、鍵を開けたと言いました」

木村の指が止まる。

「いつ?」

「三浦さんが資料を探すために入ったとき。鍵を返したのは、二十二時二十分頃」

木村は方眼ノートを開き、数字を書き込んだ。

二一七。 二二二〇。

「手帳の七時二十分と、同じ二十分」

「はい」

「篠原さんは、手帳を見たと言った?」

「見たと言いました。でも、最初は心当たりがないと」

木村は赤ペンで数字の横に線を引いた。

「記憶というより、答えを合わせたように見える」

「まだ、そう断定はできません」

「できない。でも、そう見える」

奈緒は手帳の写しを開いた。

七時二十分、鍵は戻る。

一行は、昨日までより近くに見えた。恐怖の記録ではない。誰かを告発する大きな言葉でもない。鍵が動き、戻され、扉が閉じた。その順番を、誰かが後から拾えるように残したものだ。

奈緒は赤いボールペンを取り出した。

篠原克己。

名前を書こうとして、手を止める。

まだ、書かない。

代わりに、事実だけを並べた。

屋上扉の鍵番号、二一七。 篠原が鍵を開けた。 三浦が資料を探した。 鍵が戻った時刻、二十二時二十分。 管理表には記録がない。 篠原は、時刻を聞かれるまで語らなかった。

最後の行を書き終えたとき、奈緒はようやく分かった。

疑いは、相手の名前を書いた瞬間に始まるのではない。見たものを、見なかったことにしないと決めた瞬間に始まる。

編集局の奥で、輪転機が低く唸った。紙が送り出され、印刷され、折られていく。今日も新聞は出る。誰かの死を抱えたまま、町の家々へ配られていく。

奈緒は手帳の写しをファイルケースにしまった。

屋上扉の向こうに何があるのか、まだ分からない。

ただ、鍵を持っていた人間が、鍵の戻った時刻を知っている。

その事実だけが、紙の上で静かに残っていた。

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