第10話 戻された鍵の行方

翌朝、北桜日報の編集局には、いつもより早く藤堂圭吾が来ていた。
雨は上がっていたが、屋上へ続く階段の窓はまだ曇っている。蛍光灯の白さが、濡れた手すりに細く反射していた。藤堂は二一七号の鍵を指先でつまみ、鍵穴へ差し込んだ。金属が擦れる音が、階段室の静けさに長く残った。
奈緒は木村と並んで、その背中を見ていた。
「開きます」
藤堂が言った。
扉の内側には、古い配水管と、使われなくなった工具箱が並んでいた。床は乾いている。配水塔の基部には、昨日まで誰も触れていないような埃が積もっていた。
だが、扉のすぐ脇だけが違った。
埃の線が、途中で切れている。
藤堂はしゃがみ込み、携帯用のライトを床へ向けた。壁際に、細長い擦れ跡があった。何か硬い紙箱を引きずったような跡だった。
「ここに、箱が置かれていた」
奈緒が言うと、藤堂は頷いた。
「置かれていた、というより、急いで動かした跡です」
木村が扉の内側を見た。
「この白い粉、石灰ですか」
「配水塔の塗装片でしょう。昨日の現場写真にも写っている」
藤堂は手袋を替え、壁際から小さな紙片を拾い上げた。紙は湿気を吸って波打ち、端に赤い鉛筆の跡が残っている。
奈緒はその色を見た瞬間、三浦の机にあった赤鉛筆を思い出した。
紙片には、数字が二つだけ書かれていた。
四・八。 三・一。
木村が覗き込み、眉を寄せる。
「寸法ですね。配水塔の基礎か、境界線の位置か」
藤堂は紙片を封筒へ入れた。
「保管庫を見ます。三浦さんが探していた資料が残っているかもしれない」
屋上の隅にある倉庫は、古い南京錠で閉じられていた。鍵は篠原の鍵束にあった。藤堂が開けると、湿った紙と錆びた金属の匂いが流れ出した。
棚には、改修工事の図面、消防設備の点検票、建物の売買契約書の控えが、年代順に積まれていた。奈緒は一冊ずつ背表紙を確かめた。紙の厚さ、綴じ紐の色、ラベルの端。三浦なら、探す前にすべての位置を覚えていただろう。
木村が棚の奥から、薄いファイルを引き抜いた。
「これだけ、背表紙が新しい」
ファイルの表には、何も書かれていなかった。
中には、駅前再開発区域の旧図面が入っていた。現在の計画では撤去対象になっている配水塔が、十年前の図面では別の区画に記されている。境界線が、数メートルずれていた。
奈緒は図面の端を押さえた。
「この数字、紙片と同じです」
四・八。三・一。
木村は図面の赤鉛筆を調べた。
「三浦さんの筆跡に近い。でも、最後の訂正は別の人です」
赤線の上から、黒いボールペンで新しい境界が引かれていた。線は定規を使っているのに、終点だけがわずかに外へ膨らんでいる。
「篠原さんの字?」
奈緒が尋ねると、木村は首を振った。
「字ではなく、書き方の癖。編成表の線と同じです。最初に赤で直して、黒で確定する」
藤堂は図面を見た。
「この線が、再開発の補償範囲を変えていますね」
「配水塔の土地が、計画区域の外へ出る」
「その結果、誰かが得をする」
「篠原さんが?」
奈緒の問いに、藤堂はすぐ答えなかった。
「会社が、です。北桜日報は再開発事業者から広告を受けている。区域の変更が記事になれば、契約に影響する可能性がある」
木村がファイルの最後のページをめくった。
そこに、三浦の手帳と同じ筆圧で書かれた短い文があった。
七時二十分、鍵は戻る。 戻ったあと、線が変わる。
奈緒は息を止めた。
三浦は、手帳だけでなく、資料そのものにも記録を残していた。だが、誰かに見つけられれば消される。だから同じ一行を、何度も別の場所へ置いたのだ。
「これで、動機の一部は見えました」
藤堂が言った。
「しかし、転落が故意だったことは、まだ別に立証する必要がある」
奈緒は図面から目を離せなかった。
「篠原さんは、何を守ろうとしたんでしょう」
木村が答えた。
「会社でしょうね。あるいは、会社を守る自分自身」
その日の午後、篠原は編集局の小会議室にいた。
机の上には、屋上から見つかった図面と紙片が並べられている。窓の向こうで、駅前工事のクレーンがゆっくり動いていた。篠原は図面を見ても、表情を変えなかった。
「この線を引いたのは、私です」
彼は言った。
藤堂のペン先が止まる。
「認めるんですか」
「訂正しただけです。古い図面には誤りがあった。現在の計画に合わせて修正した」
「三浦さんは、誤りではないと考えていた」
「彼は、数字を信じすぎた」
篠原は疲れたように目を伏せた。
「数字だけでは、仕事は回りません。広告がなくなれば、紙は出せない。紙が出なければ、地域の記録も残らない。私は、何かを隠したかったわけではない。壊さずに済む形へ戻そうとしただけです」
「三浦さんが屋上から落ちたことも?」
奈緒が尋ねた。
篠原は彼女を見た。
「彼は、私が持っていた資料を取り返そうとした。手を伸ばしただけです。私は押していない」
「でも、助けなかった」
その言葉に、篠原の顔からわずかに色が引いた。
「……あのとき、何をすればいいか分からなかった」
「だから、現場を整えた」
「騒ぎになれば、会社が終わると思った」
「会社が終わらないためなら、三浦さんの死を事故に変えてもいいと?」
篠原は答えなかった。
沈黙の中で、壁掛け時計の秒針だけが動いた。一定の間隔で、時間を刻んでいる。誰かが戻すことのできない時間だった。
藤堂が図面を封筒へしまった。
「篠原さん。あなたの言う秩序は、亡くなった人間から反論する権利を奪うことでしか保てなかった」
「では、あなた方は何を守るんです」
篠原の声は初めて揺れた。
「会社を潰して、社員を路頭に迷わせて、それで正しい記録が残ったと言えるんですか」
藤堂はすぐには答えなかった。
奈緒は、机の上の紙片を見た。短い数字と、薄い赤い線。三浦は会社を壊したかったのではない。壊れかけたものを、壊れたまま記事にしないために記録していた。
「守ることと、隠すことは違います」
奈緒は言った。
「紙を出し続けるために、誰かの死を事故へ戻してはいけない。正しいことをしたら全部うまくいくとは思いません。でも、うまくいかないから最初から変えていいわけでもない」
篠原は目を閉じた。
鍵束が、机の端に置かれている。二一七号の鍵だけが外れ、そこには小さな輪の跡が残っていた。長い間、同じ場所にあった証拠だった。
藤堂が立ち上がる。
「署で詳しく話を聞きます」
篠原は抵抗しなかった。
部屋を出る前、彼は奈緒の机に置かれた手帳の写しを見た。
「三浦くんは、あなたなら読めると思ったんでしょうか」
「分かりません」
「彼は、人を信じるのが下手な人でした」
「そうかもしれません」
奈緒は写しを閉じた。
「でも、記録は信じていたと思います」
篠原はそれ以上何も言わず、藤堂の後に続いた。
編集局へ戻ると、木村が紙面の校閲を始めていた。新しい原稿が机から机へ渡され、電話が鳴り、輪転機が低く振動している。
日常は、事件のあとにも続く。
奈緒は三浦の手帳の写しをファイルへ戻した。三日間だけ繰り返された一行は、もう暗号ではなかった。鍵が動いた順番と、誰かがそれを戻した事実を、言葉にせず残した記録だった。
窓の外では、工事の音が止んでいた。
夕暮れの屋上で、二一七号の鍵は藤堂の手元にある。もう篠原のポケットへ戻ることはない。
奈緒は机上の紙の角を揃えた。
揃えた紙の下から、三浦の赤鉛筆が一本、転がり出た。彼女はそれを拾い、手帳の写しの隣へ置いた。
鍵は戻る。
けれど今度は、戻された場所が、誰にも見えない場所ではなかった。
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