第2話 整いすぎた現場

昼前、白石奈緒は藤堂圭吾に呼ばれ、屋上へ続く階段を上っていた。

階段室には、雨を吸ったコンクリートの匂いがこもっている。壁の白い塗装はところどころ剥がれ、非常灯の緑だけが、曇った窓から入る薄明かりの中で浮いていた。奈緒の前を歩く藤堂の足音は一定だった。急がず、遅れず、踏み板ごとの軋みまで確かめるように進んでいく。

五階から六階へ上がる途中、下の編集局から輪転機の振動が伝わってきた。低い唸りが階段の手すりを揺らし、奈緒の掌に細かな震えを残す。仕事は続いている。三浦が落ちたあとも、朝刊は刷られ、電話は鳴り、誰かが校正紙を運んでいる。

それが正しいのかどうか、奈緒にはまだ分からなかった。

屋上扉の前には、黄色い立入禁止の札が掛かっていた。札の角は雨で波打っている。紐が一本、金具に擦れて白く毛羽立っていた。その頼りなさに反して、扉の鍵穴には新しい傷がなかった。

藤堂は扉に触れず、まず床を見た。

「ここから先は、最初に確認した状態と大きく変わっていません」

「誰も入っていないんですか」

「入っていない、とは言っていません。入った形跡が、決定的ではないということです」

藤堂は古い革の手帳を開き、扉の下、蝶番、錠前の順に短い記録を書き込んだ。奈緒はその手元を見ていた。彼の文字は小さく、行間も狭い。誰かに読ませるためではなく、後で自分が順序を戻せるように書かれている。

「この扉は、雨の日には滑りやすいですか」

「床は濡れます。ただ、屋上に出た人間が必ず転ぶわけではない」

「三浦さんは、ここで足を滑らせたと」

「事故として処理するなら、その可能性はあります」

藤堂は言葉を区切った。

「ですが、私はまだ『事故だった』とは言っていません」

その言い方に、奈緒は少しだけ息をついた。藤堂は彼女の感情を慰めようとしているわけではない。ただ、事実の範囲を狭めずに置いている。先に形を決めないための、不愛想な親切だった。

扉の脇には、古い配水塔へ向かう細い通路がある。雨水が排水溝へ流れた跡が、黒い筋になって床に残っていた。奈緒は写真で見た水の輪を思い出した。

「現場の写真に、配水塔の近くで水が円になって残っていました」

「見ました」

「雨水なら、流れる方向があるはずですよね」

「床の傾斜によります」

「でも、輪が途中で切れていなかった。何かを置いた跡には見えませんか」

藤堂はすぐに返事をしなかった。しゃがみ込み、排水溝の縁を指で示した。

「水の跡は、写真の中では一つの輪に見えます。実際には、救急隊が動いたあとに別の水が重なった可能性もある。写真だけで誰かが何かを置いたとは言えません」

「では、何も分からない?」

「分からないことと、分からないままにしておくことは違います」

藤堂は立ち上がった。階段を上ってきたせいか、息が少しだけ乱れている。だが声は変わらない。

「あなたが気にしているのは、三浦さんが落ちたことそのものより、落ちた場所がどう見えるように残されたかでしょう」

奈緒は答えなかった。

「もしそうなら、現場の印象ではなく、現場に触れた人間の順番を調べる必要があります。誰が最初に来たのか。誰が写真を撮る前に動いたのか。誰が鍵を管理していたのか。記憶ではなく記録で追うしかない」

「記録は、もう整理されています」

「だから見直すんです」

藤堂の視線が扉へ移る。

「整理された記録は、乱れた記録より扱いやすい。ただし、誰かが整理したものなら、整理した手順が残ることがあります」

奈緒はその言葉を方眼ノートに書き留めた。整理されたもの。その手順。

階段を下りる途中、窓から駅前の景色が見えた。再開発区域の白い仮囲いの向こうで、クレーンがゆっくり旋回している。古い建物を壊すための機械が、空の一部を切り取っていた。北桜日報の入る雑居ビルも、数年後には建て替えの対象になるらしい。三浦は以前、古い紙ファイルを見ながら、ここに残っているものは建物と一緒に捨てられるかもしれない、と言っていた。

「紙は、場所がなくなると消えますから」

そう言って、彼は古い記事を日付順に並べていた。

編集局へ戻ると、木村由衣が奈緒の机の前に立っていた。左手には校閲紙の束、右手には入稿管理表がある。彼女の机には赤ペンと定規しか残っていなかった。ほかのものは、すべて左上から順番に片づけられている。

「現場は?」

「整いすぎていました」

「それは見れば分かる」

木村は校閲紙を机に置いた。

「こっちも整いすぎてる」

奈緒は紙束を受け取り、ページをめくった。三浦が死んだ前夜の紙面修正だった。再開発の記事が一面下段に入り、関連する短い記事が地域面に載る予定になっている。修正欄には赤字が並び、入稿時刻と確認者の印が記されていた。

一見すると、何もおかしくない。

だが木村は、三枚目と四枚目の間に細い付箋を挟んでいた。

「ここを見て」

「差し替え時刻が逆です」

「そう。二一時十六分に確認された紙が、二一時十二分に差し替えられている」

「記入間違いでは?」

「最初はそう思った。でも、同じページの電子データは二一時十六分に保存されてる。紙だけが四分前に戻っている」

奈緒はページの余白を見た。鉛筆で引かれた薄い線が途中で消え、その上から別の赤字が重なっている。修正した人間が、一度紙を抜き、別の順番に置き直したようだった。

「誰の印ですか」

「三浦さんの確認印は、二一時十八分。つまり、彼はこの紙が戻されたあとに見ている」

木村は別の紙を出した。

「それと、ここ。屋上関連の資料を参照したと書いてある」

奈緒は小さな記載に目を近づけた。記事の出典欄には、再開発計画の旧資料、配水設備の改修記録、社内保管ファイルの三つが並んでいる。三浦の担当印があり、その下に鉛筆で「二一七」とだけ書かれていた。

屋上扉の鍵番号だった。

奈緒の指が紙の端で止まる。

「三浦さんは、屋上の資料を探していたんでしょうか」

「それなら、篠原さんの説明と合う」

木村はそう言いながら、納得していない顔をした。

「でも、説明と合うことが、正しいことの証明にはならない」

「篠原さんは、三浦さんが古い再開発資料を探していたと言っていました」

「いつ?」

「今朝、藤堂さんに」

「資料を探していたと分かる前に?」

奈緒は答えられなかった。

木村は赤ペンを紙の上に置いた。

「人が話す順番は、校閲できない。でも、記録ならできる。篠原さんは、三浦さんが屋上へ行った理由を先に説明した。理由が分かっていたのか、それとも理由を作ったのか。そこはまだ分からない」

「木村さんは、篠原さんを疑っていますか」

「疑っているというより、説明の前後が嫌いなの」

木村は一度、机上の紙を見下ろした。

「私は前に、入稿時刻の間違いを『だいたい合っているから』で通したことがある。その翌朝、数字が全部違っていた。訂正を出して、電話を受けて、頭を下げた。でも、間違いは頭を下げても元には戻らない。それ以来、私は人の確信より、紙の順番を見ることにしてる」

淡々とした言葉だった。けれど奈緒は、その淡々とした声の奥に、長く残った悔しさを聞いた。

「それで、紙の順番が三浦さんを救えると思いますか」

「救えるかどうかは知らない」

木村は奈緒の方を見た。

「ただ、誰かが『もう終わったことです』と言ったときに、終わっていない箇所を示すことはできる」

奈緒は手帳の写しを取り出した。三日分の一行を、校閲紙の余白に並べて書く。

七時二十分、鍵は戻る。

三浦の筆跡は、紙面の確認印よりも静かだった。だが、静かなものほど、後から消しにくいことがある。

「七時二十分に、何があったのか確認したいです」

「入退館記録を見ればいい」

「記録が残っていれば」

木村は管理表の束を取り上げた。

「残っているかどうかを確かめるのも仕事でしょう」

二人は総務の保管棚へ向かった。編集局の奥を横切ると、記者たちの会話がいくつか途切れた。三浦の死について、誰も正面から話さない。けれど人の視線は、紙の上の赤字より早く広がっている。

総務の棚から出てきた入退館記録は、日付ごとにファイルされていた。篠原が管理しているらしく、背表紙のラベルはすべて同じ幅で揃っている。奈緒はファイルを開き、前夜の記録を探した。

三浦の退館時刻は、二二時四十一分。

篠原の退館は二一時五十八分。

その後、二二時十九分に再入館の記録があった。

「紙面の確認に戻った、と言うかもしれません」

奈緒が言うと、木村は記録の下部を指した。

「見て。二二時三十七分に、篠原さんの退館。三浦さんの四分前」

「でも、七時二十分とは合いません」

「これは夜の記録。手帳の七時二十分は、三日前から書かれている」

木村は別の日のファイルを開いた。

三日前。篠原の再入館、二二時二十分。

二日前。篠原の再入館、二二時二十二分。

前日。篠原の再入館、二二時十九分。

時刻は揃っていなかった。だが、いずれの日も、三浦が屋上関連の資料を確認した夜にだけ、篠原の再入館が記録されている。

奈緒は手帳の一行を見つめた。

「七時二十分は、朝の時刻じゃないかもしれない」

「どういう意味?」

「七時二十分を、二二時十九分のように、別の何かと組み合わせて読む。鍵番号の二一七と同じで、手帳の中では数字を省略しているのかもしれません」

「七時二十分。二一七」

木村が繰り返す。

「七時二十分に、鍵が戻る。だけど、三浦さんが見たのは、鍵が戻る時間そのものではなく、鍵が戻されたあとに誰かがどこへ移動したか」

奈緒は言葉にしながら、自分でも確信が持てなかった。数字を並べても、まだ一つの形にはならない。

そのとき、背後から声がした。

「何か見つかりましたか」

篠原だった。

いつ来たのか、奈緒には分からなかった。彼は二人の机の上に広がった記録を見ても、驚かなかった。むしろ、書類が乱れていることだけを気にするように、ファイルの角をそっと揃えた。

「入退館記録を確認しています」

奈緒が言うと、篠原は穏やかに笑った。

「三浦くんの件なら、必要な資料は私がまとめておきます。白石さんはまだ入ったばかりですし、こういう古い記録を見ていると、かえって混乱するでしょう」

「混乱しているわけではありません」

「そうでしょうね。あなたが几帳面なのは知っています。ただ、仕事には優先順位があります。三浦くんのことを調べるのは警察です。私たちは紙面を止めないことを考えなければならない」

「篠原さんは、三浦さんが屋上へ行った理由をご存じでした」

「本人から聞いていました」

「いつですか」

篠原は一拍置いた。聞かれることを予測していたような、整った間だった。

「亡くなる前の日の夕方です。古い再開発資料を探している、と。私は屋上の倉庫にあることを伝えました。鍵を貸すほどのことではないと思ったので、管理表には記録していません」

「鍵を貸したんですか」

「いいえ」

「では、三浦さんはどうやって屋上へ?」

「私が開けました」

篠原の声は変わらなかった。

奈緒の指先が、紙の端を押さえた。

「いつですか」

「彼が必要な資料を取りに行くと言った時です。二十一時過ぎだったと思います」

「そのあと、鍵は?」

「私が預かりました。三浦くんが戻ってきた七時二十分に、鍵を戻した」

奈緒は顔を上げた。

「七時二十分?」

篠原は初めて、ほんのわずかに表情を止めた。

「……失礼。朝の七時二十分ではなく、夜の二十二時二十分です。言い間違えました」

その訂正は滑らかだった。あまりに滑らかで、最初から用意されていたようにも聞こえた。

木村が静かに口を挟む。

「その時刻、管理表にはありません」

「管理表に書くほどの貸し出しではありませんでした」

「鍵を開けて、返却を確認したのに?」

「三浦くんとは長い付き合いです。毎回、細かく記録していたら仕事が回りません」

「記録しないから、今こうして確認できないんです」

木村の声は低かった。篠原は彼女を責めず、少し困ったように笑った。

「おっしゃることは分かります。ただ、現場はすべてを記録できるほど余裕があるわけではない。信頼して任せる部分がなければ、組織は動きません」

「信頼した結果、事実が分からなくなっても?」

奈緒が言うと、篠原は彼女を見た。

「事実が分からないのではなく、必要以上に疑わないだけです。疑いは簡単に広がります。ひとつ記録がない。ひとつ時刻が違う。ひとつ説明が足りない。それだけで人を疑い始めたら、誰も一緒に仕事ができなくなる」

「疑うためではありません。確かめるためです」

「確かめることと、疑うことは、紙一重ですよ」

篠原の言葉は柔らかかった。けれど、その柔らかさは奈緒の足元に薄い水を流すようだった。立っているだけで、こちらが過剰に騒いでいるように見えてくる。

篠原はファイルを閉じた。

「三浦くんは、きっと自分で足を滑らせたんです。彼は責任感が強かった。誰かに迷惑をかける前に、ひとりで片づけようとする人でした。だから、残された一行も、何かを恐れていた証拠ではなく、自分の作業を忘れないための記録だと思います」

奈緒は、篠原の口から三浦の性格が語られるたび、三浦が少しずつ別の人間へ置き換えられていくのを感じた。

穏やかで、几帳面で、誰にも迷惑をかけない男。

その像は間違っていない。だからこそ、反論できない。

篠原が去ったあと、総務の棚には紙の匂いだけが残った。奈緒は閉じられたファイルの表紙を見つめていた。

木村が言った。

「今の説明、どう思う?」

「分かりません」

奈緒は正直に答えた。

「でも、七時二十分という時刻を、篠原さんは知っていました。私たちが聞く前に」

木村は黙っていた。

奈緒は手帳の写しを開く。三日間、同じ一行。三浦は何かを恐れていたのではない。誰かが鍵を開け、誰かが鍵を戻した。その間に起きたことを、後から追えるように残した。

階段の上から、屋上扉の立入禁止札が風に揺れる音が聞こえた。

奈緒はファイルの角を揃え、赤いボールペンを握り直した。

篠原の説明は、現場と同じだった。

整いすぎている。

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