第3話 穏やかな説明

翌朝、北桜日報の編集局には、雨の名残がまだ残っていた。

窓ガラスの隅に細かな水滴が並び、駅前の工事現場から聞こえる金属音が、輪転機の低い振動に混じっている。蛍光灯はいつもと同じ白さで机を照らしていた。紙とインクの匂いも、電話の鳴る間隔も、締切前の人の歩き方も変わらない。

三浦遼が死んだあとも、朝刊は出た。

その事実を、奈緒はまだ身体のどこかで受け入れられずにいた。誰かの机が空いたからといって、仕事の流れまで止まるわけではない。むしろ、人がいなくなった場所には、別の誰かがすぐ入り込む。紙を運び、電話を取り、空いた原稿を埋める。そうやって日常は、死んだ人間の輪郭を少しずつ削っていく。

編集会議は、いつもより短く始まった。

篠原克己が紙面編成表を机の中央に置き、参加者の顔を順番に見渡す。彼は人の名前を呼ぶ回数が少ない。呼ばなくても伝わるように話し、伝わらないときだけ、相手の方から口を開かせる。

「一面の駅前再開発は、昨日の数字をそのまま使います。市の発表資料に変更はありません。ただ、反対住民の会が午後に記者会見をするそうなので、夕刊用に一段空けておきましょう」

「現場の写真は?」

「雨が上がれば、午後に差し替えます。白石さん、整理をお願いできますか」

奈緒は頷いた。

「はい」

「それから、三浦くんが見ていた古い資料の件ですが」

篠原はそこで言葉を切った。

会議室の外で、誰かが紙束を落とした。乾いた音がして、すぐに拾い上げる気配があった。奈緒は机の下で赤いボールペンを握り直した。

「遺族の方には、会社から改めて連絡を入れます。紙面で大きく扱う必要はありません。事故として調査が進んでいる段階ですし、憶測を呼ぶような書き方は避けた方がいいでしょう」

篠原の声は低く、誰の耳にも引っかからなかった。

「三浦くんの名前を載せない、ということですか」

記者の一人が尋ねた。

「載せないとは言っていません。必要な情報は載せます。ただ、ご家族に余計な負担をかける形は避けたい。こちらの判断で話を大きくするのは、今の段階では適切ではありません」

「警察は事故として見ているんですか」

「現場の外形としては、そう受け取れる状況です。最終的な判断は警察に任せるべきでしょう」

「でも、屋上は立入禁止だったんですよね」

別の声が上がった。

篠原はすぐに答えなかった。否定もせず、相手の言葉が会議室に馴染むのを待つように、紙面編成表の端を指で押さえた。

「立入禁止だからこそ、管理上の問題があった可能性は確認します。ただ、三浦くんは以前から古い資料を調べるために、屋上倉庫へ入ることがありました。管理者に一声かければ、必要なときには入れる場所です」

奈緒の指が止まった。

三浦が屋上倉庫へ入ることがあった。

その話を、奈緒は初めて聞いた。昨夜、篠原からも似た説明を聞いている。古い再開発資料を探していた。本人がそう言っていた。篠原が屋上の鍵を管理していた。

ひとつひとつなら、どれも不自然ではない。だが、会議の机に並んだ紙のように、順番をそろえると別の形が見えてくる。

「白石さん」

不意に呼ばれ、奈緒は顔を上げた。

「はい」

「三浦くんの机にあった資料は、今日中に一度まとめておいてください。遺族に渡すものと、社内で保管するものを分ける必要があります。現場が乱れたままだと、確認に支障が出ますから」

「分かりました」

「急がなくて結構です。ただ、置き場所が変わる前に」

篠原はそれだけ言って、次の議題へ移った。

置き場所が変わる前に。

奈緒は、その言葉を頭の中で繰り返した。篠原はたぶん、整理の必要を言っただけだ。いつもの仕事の言葉だ。書類を分類し、責任の所在を明確にし、後から誰かが困らないようにする。篠原が普段からしていることだった。

だからこそ、彼の言葉には嘘らしさがなかった。

会議が終わると、出席者たちはそれぞれの机へ散っていった。誰も三浦の話をしない。話さないことで、仕事に戻ることができる。誰かが不意に沈黙を破れば、全員がそこに集まってしまう。篠原はそれを知っていて、会話の出口を先に作っていた。

奈緒が書類をまとめていると、篠原が隣に立った。

「白石さん、少しいいですか」

奈緒は立ち上がりかけたが、篠原が手のひらで制した。

「そのままで。大した話ではありません」

彼は机の上に広がった紙を見た。三浦の手帳の写し、校閲紙の控え、入退館記録のコピー。奈緒はそれらを重ねる前に、角をそろえた。

篠原はその動作を見て、わずかに笑った。

「三浦くんに似ていますね。紙の角をそろえるところ」

「そうですか」

「彼も、最後には必ず確認していました。白石さんが入ったばかりの頃、ずいぶん助けてもらったでしょう」

「はい。何度も」

「面倒見のいい人でしたから。仕事を教えるのも、誰かの失敗を表に出さずに直すのも、あの人はうまかった。だから、今回のことも、あまり自分を責めないでください。もっと早く気づけたはずだとか、何か声をかけるべきだったとか、そういうふうに考える必要はありません」

奈緒は篠原の顔を見た。

彼の言葉は親切だった。三浦を失った者が抱きそうな後悔を、先回りして取り除こうとしている。そう思えば、胸が温かくなるはずだった。

だが、どこかで引っかかった。

自分が何を後悔しているのか、奈緒はまだ誰にも話していない。

「私は、何もできなかったとは思っていません」

「そうですか」

「ただ、手帳に気になる記述がありました」

篠原は急かさず、奈緒の続きを待った。

「七時二十分、鍵は戻る。三日間、同じ文が書かれています」

「見ました」

答えが早かった。

奈緒は赤いボールペンを机に置いた。

「見たんですか」

「遺品を確認するときに。警察にも伝えています。三浦くんは、作業の予定を手帳に残す癖がありましたから、何かの記録だろうと」

「篠原さんは、あれが何を意味するかご存じですか」

「いいえ。本人にしか分からない省略でしょう。三浦くんは、細かいことを自分の中だけで処理するところがありました。仕事の順序も、誰に何を頼んだかも、全部頭に入れているつもりだった」

「でも、同じことを三日続けて書くのは普通ではありません」

「普通かどうかは、本人の習慣によります。重要な予定を何度も書き直す人もいます。たとえば、白石さんは今、その一行を何度も見ていますね」

奈緒は黙った。

「それと同じです。気になるから確認する。三浦くんにとっては、鍵を戻すという作業が、何かの区切りだったのかもしれません」

「誰が鍵を戻すんですか」

篠原は一度だけ視線を落とした。

「それは、記録だけでは分からないでしょう」

「屋上の鍵は二一七号ですよね」

今度は、篠原の表情から笑みが消えた。

消えたといっても、口元が固くなっただけだった。怒ったわけではない。驚いたわけでもない。ただ、会話の中に置かれた紙を一枚取り除くように、表情が平らになった。

「よく覚えていますね」

「管理表に書いてありました」

「そうですか。屋上の鍵は古いものですから、管理表を見なければ分かりません。三浦くんがそれを手帳に書いていたなら、資料を探すために使ったのでしょう」

「鍵を持ち出した記録はありません」

「持ち出しの記録がないことと、鍵を使っていないことは同じではありません」

「では、誰が使ったかは分からない?」

「少なくとも、私には分かりません」

篠原の返答は、整いすぎていた。

奈緒は手帳の写しに目を落とした。三浦の文字は、篠原の言葉よりずっと不器用だった。必要なものを省き、同じ一行を繰り返し、読む者に考えさせる。けれど、その不器用さの中には、言葉で説明されることを避けた意志があった。

「篠原さんは、三浦さんが屋上へ行った理由をご存じなんですね」

「本人から聞きました」

「いつですか」

「亡くなる前日の夕方です。再開発に関する古い資料を見たい、と言っていました。私は屋上の倉庫にあることを伝えました」

「鍵は渡したんですか」

「いいえ。私が開けました」

奈緒は息を止めた。

篠原は、彼女の目を見たまま続けた。

「正確に言えば、鍵を渡したわけではありません。私が屋上扉を開け、三浦くんが中へ入り、戻ってきたあとに私が施錠した。それだけです」

「それは、いつのことですか」

「二十一時を少し過ぎた頃だったと思います。紙面の最終確認が終わってからです」

「記録にはありません」

「管理表には、ですか」

「入退館記録にも」

「三浦くんが編集局内から屋上へ移動しただけなら、入退館記録に残らないことはあります。篠原さんが外へ出て、戻った記録はありますが」

奈緒の声は、自分でも驚くほど乾いていた。

篠原は少し考えるように目を伏せた。

「夜の紙面確認で、私は一度外へ出ています。印刷所との打ち合わせがありました。その後、局へ戻った。三浦くんの資料探しと時間が重なっていた可能性はありますね」

「可能性、ですか」

「はい。数日前のことです。正確な時刻まで覚えている人は少ないでしょう」

「三浦さんは覚えていました」

「だから、手帳に書いたのかもしれません」

「七時二十分、鍵は戻る」

奈緒が一行を読み上げると、篠原は小さく頷いた。

「その言葉が、白石さんにとって重要なのは分かります。ただ、意味の分からない一行を根拠にして、人を疑うのは危険です。記録は大切です。しかし、記録だけで人の意図を決めつけることも、記録を曲げるのと同じくらい危うい」

「疑っているのではありません。確認しています」

「その違いは、本人にとっては大きいでしょうね」

篠原は穏やかに言った。

「でも、周囲から見れば、どちらも同じように映ることがあります。職場は、疑いが生まれた瞬間に形を変えます。誰かが誰かを見張るようになり、昔からの言葉まで別の意味に聞こえる。そうなると、仕事は回らなくなる」

「仕事を回すためなら、分からないことを分からないままにしてもいいんですか」

奈緒は自分の声が震えていないことに、あとから気づいた。

「事故なら、事故だと確認すればいい。事件なら、事件だと確認すればいい。どちらか分からないものを、職場のために事故らしく整えることは、確認とは違うと思います」

篠原はすぐに反論しなかった。

窓の外で、クレーンがゆっくりと旋回していた。鉄骨の間から薄い光が差し込み、会議室の床に細長い線を作っている。篠原はその光の上に立たないよう、半歩だけ位置をずらした。

「白石さんは、真面目ですね」

その言葉に、褒める響きはなかった。

「真面目であることは、時に人を傷つけます。事実を知りたいという気持ちが強いほど、誰かの生活を壊す可能性も見えなくなる。私が言っているのは、調べるなということではありません。ただ、順序を守ってほしい。警察が確認し、会社が整理し、必要なものだけを残す。その順序があるから、皆が仕事を続けられるんです」

「会社が整理するものに、真実も含まれますか」

篠原は奈緒を見た。

初めて、目の奥から柔らかさが消えたように感じた。

「真実という言葉は便利です。誰も反対しにくい。けれど、真実を求める人間が、必ずしも正しいとは限りません。自分が見つけた違和感を、世界の中心に置いてしまうことがある」

長い言葉だった。篠原がこのように話すのを、奈緒は初めて聞いた。普段の彼は、相手の不安を短い結論で包む。今は違った。奈緒の言葉を否定するのではなく、真実を求める行為そのものに疑いを向けている。

奈緒は返事を急がなかった。

木村が以前言ったことを思い出した。

人の記憶は、簡単に揃うから。

篠原の言葉は、記憶だけでなく、正しさの形まで揃えようとしていた。

「分かりました」

奈緒は言った。

「順序を守ります」

篠原の表情がわずかに緩む。

「それが一番です」

「だから、記録を見ます」

篠原の目が、机の上の紙へ移った。

奈緒は続けた。

「人の記憶ではなく、入退館記録と校閲紙と、三浦さんが残したものを。誰かを裁くためではなく、何が起きたかを確認するために」

二人の間に沈黙が落ちた。

輪転機の振動が、床を通じて足裏へ伝わってくる。紙が回り、印刷され、折られ、束ねられていく。何かが整えられるたびに、別の何かが見えなくなっていくようだった。

篠原はやがて、いつもの穏やかな顔に戻った。

「無理はしないでください。三浦くんの机は、今日中に片づけます。白石さんが見ている資料も、必要なものだけ残しておけばいい」

「必要かどうかは、私が確認します」

奈緒は言った。

篠原は一瞬だけ彼女を見た。それから、静かに頷いた。

「そうしてください」

彼が会議室を出ていくと、廊下の空気が少し軽くなった。だが奈緒には、胸の奥に細い糸が残ったように思えた。切れたのではない。どこかに引っかかり、彼女をその場から動かさない糸だった。

午後、奈緒は三浦の机に戻った。

手帳の写しを開き、三日間の一行を並べる。七時二十分。鍵は戻る。篠原はその時刻を知っていた。しかも一度、朝の時刻として口にしたあと、二十二時二十分へ訂正した。

言い間違いかもしれない。

もちろん、そうかもしれない。

奈緒は、篠原を疑う理由を一つずつ書き出そうとして、筆を止めた。疑いを並べるのではなく、確認できる事実を並べなければならない。そうでなければ、篠原の言う通り、違和感だけを世界の中心に置いてしまう。

彼女は方眼ノートを開き、紙の上に時刻を書いた。

二一時十二分。 二一時十六分。 二一時十八分。 二二時十九分。 二二時三十七分。 二二時四十一分。

その横に、鍵番号を書き添える。

二一七。

最後に、手帳の一行を写した。

七時二十分、鍵は戻る。

紙の上で、数字と時刻が並んでいく。まだ何も証明していない。けれど、数字は人の声より黙っていて、黙っているぶん、誰かの都合で形を変えにくい。

奈緒は三浦の机の引き出しを開けた。

付箋束の下に、折りたたまれた古い校閲紙があった。紙の中央には、赤字で一箇所だけ修正が入っている。篠原の筆跡に似た、細く整った文字だった。

「現場は整理済み」

その下に、三浦の赤鉛筆で小さく線が引かれている。

奈緒は線を指でなぞった。

三浦は、何を消そうとしたのだろう。あるいは、何を消さずに残したのだろう。

夕方になっても、編集局の仕事は止まらなかった。印刷所から校正紙が届き、電話が鳴り、誰かが無香料の茶を奈緒の机の端に置いた。木村だった。何も言わず、紙コップを置いていく。

奈緒が顔を上げると、木村はすでに自分の机へ戻っていた。赤ペンの先を紙に当て、いつものように修正を続けている。

その小さな気遣いが、奈緒にはありがたかった。疑うことは、ひとりで進む作業だと思っていた。だが、紙を見てくれる人がいるだけで、孤独の形は少し変わる。

奈緒は茶に口をつけた。冷めていて、ほとんど味がしなかった。

机の上の紙束を、もう一度そろえる。

三浦の死は、篠原の説明の中で、すでに一つの形に整えられていた。古い資料を探しに屋上へ行き、足を滑らせた。鍵は管理者が扱い、入退館記録に不審な点はない。仕事を止めるほどのことではない。

それは、あまりに自然な説明だった。

自然であることは、事実であることと同じではない。

奈緒はそのことを、まだ誰にも言えなかった。けれど、方眼ノートの上には、すでに別の順序が並び始めている。

鍵は戻る。

戻ったのではない。

誰かが戻した。

その誰かが、三浦の死を事故に見える形へ整えたのだとしたら、三浦の手帳に残された一行は、予定ではなく警告だった。

奈緒は赤いボールペンを置いた。

窓の外では、工事現場の照明がひとつずつ点灯している。古い建物の壁に、白い光が伸びていく。壊されるものを照らすための光だった。

彼女は手帳の写しをファイルケースにしまい、角を押さえた。

信頼することと、確かめることは、同じではない。

その違いを、三浦は声にせず残した。

奈緒は椅子から立ち上がり、総務の保管棚へ向かった。次に見るべきものは、入退館記録だった。

← 横にスクロールして読み進められます