第1話 手帳の一行

雨上がりの朝、北桜日報の編集局には、濡れたアスファルトを踏んで持ち込まれた空気がまだ残っていた。五階の窓は曇り、駅前の工事現場から届く金属音が、輪転機の低い振動に混じっている。紙とインクの匂いはいつもと変わらない。変わらないことが、奈緒にはかえって落ち着かなかった。

整理部の机で、白石奈緒は三浦遼の遺品を仕分けていた。

机の上に残されていたものは少なかった。差し替え前のゲラ、取材先から届いた封筒、何度も使った付箋の束、古い紙ファイル。それらはすべて、三浦が使っていたときと同じように角を揃えられている。机の主だけがいなくなり、物の位置だけが律儀に残っていた。

人がいなくなった机は、思っていたより早く他人のものになる。

奈緒はそのことを考えながら、ファイルの中身を一枚ずつ確認していた。三浦は書類を日付順に並べる癖があった。新しいものを上に置くのではなく、古いものから順に重ね、最後に右下の角を指で押さえる。そのため、紙束の端には薄い半月形の跡が残る。

奈緒はその跡に指を触れた。

三浦が生きていたとき、何度も同じ動作をしていたのを覚えている。誰かに頼まれた資料を渡すときも、印刷所へ回す原稿をまとめるときも、最後に必ず角を押さえた。何かを確かめるというより、乱れがないことを自分の手で納得するための動作だった。

その手帳が、ファイルの底から出てきた。

黒い表紙は角が擦れて白くなっている。留め具の金属には、指で何度も触れた跡があった。奈緒は手帳を開き、予定や取材先の電話番号を確認していった。三浦の筆跡は細く、ほとんど傾きがない。日付の数字も、時刻の数字も、紙の上に置かれた小さな部品のように整っていた。

三日分の欄に、同じ一行があった。

七時二十分、鍵は戻る。

奈緒の指が止まった。

最初は、単なる予定の控えだと思った。誰かと待ち合わせをしていたのかもしれない。屋上扉の鍵を返す時刻か、印刷所の担当者が戻ってくる時間か。だが、次の日にも、その次の日にも、同じ文が書かれていた。

七時二十分、鍵は戻る。

七時二十分、鍵は戻る。

文字の大きさも、筆圧も、行間もほとんど変わらない。急いで書いた様子はなく、かといって予定を忘れないための走り書きにも見えなかった。三浦は同じ文を、同じ位置に、同じ丁寧さで残している。

奈緒は赤いボールペンを指の間で回した。入社した日に買ったものだった。考え込むと、いつもペンの軸を親指でなぞってしまう。

恐怖の記録ではない。

そう思った。

恐怖を感じている人間なら、もっと文字が乱れる。誰かに助けを求めるなら、相手の名前を書く。恨みを抱えていたなら、感情を隠しきれない線がどこかに現れる。だが、この一行には感情らしいものがなかった。書かれているのは、出来事の順序だけだった。

奈緒は一行を方眼ノートに書き写した。次に、少し大きく書いた。さらに、三日分を横に並べて書いた。

七時二十分、鍵は戻る。

どれも同じだった。

「三浦さんの手帳、何かあった?」

隣の席から声がした。

木村由衣が、校閲紙の束をめくる手を止めている。机の左上から順に紙を並べる彼女の癖は、今日も変わらない。赤ペン、定規、入稿管理表、修正紙。その並びに一ミリでも乱れがあると、木村は何も言わずに紙を動かす。

奈緒は手帳を閉じかけて、また開いた。

「同じ文が、三日続けて書かれていました」

「何て?」

「七時二十分、鍵は戻る」

木村はすぐには反応しなかった。手帳を覗き込むこともせず、奈緒の方を見たまま、赤ペンのキャップを指先で押さえた。

「戻る、ね」

「はい」

「返す、ではなく?」

「……戻る、です」

「主語がない」

木村はそう言ってから、手帳のページを受け取った。紙を傷めないように、端だけをつまむ。文字を読むというより、印刷物の不備を探すときの目だった。

「三日間だけ、同じ場所にある。前の日にも、後の日にもない。時刻としては普通すぎるし、文章としては足りなさすぎる」

「足りない?」

「誰が、どこへ、何を戻すのかが書かれていない。普通の予定なら、ここまで省略しないでしょう。三浦さんは書類の宛先を省く人じゃなかった」

奈緒は手帳の紙面を見つめた。

三浦は重要なことほど短く書くことがあった。だが、短く書くときにも、後から自分が読めるように必要なものは残していた。日付、時刻、場所。どれか一つが欠ける場合は、別の紙に続きがあることが多い。

「ただのメモじゃない気がします」

奈緒が言うと、木村は手帳から目を上げた。

「そう思う根拠は?」

「三日とも、同じ筆圧です。忘れないための予定なら、一度書けば十分です。何度も同じ文を書くなら、予定の確認というより、何かが起きたことを記録しているんだと思います」

「起きたこと?」

「まだ分かりません。でも、これから起きることを書いている人の文字には見えない」

木村は一度、沈黙した。校閲の仕事をしていると、言葉の内容より前後関係を見るようになる。奈緒はそれを知っていた。木村が黙るときは、反対しているのではなく、紙面の別の場所を探しているときだ。

「この手帳だけで、事故を事件にはできない」

「はい」

「それでも調べる?」

奈緒は答える前に、一度だけ息を止めた。

窓の外で、工事車両が後退する警告音を鳴らしていた。短い音が何度も繰り返される。編集局では、三浦の死がすでに「転落事故」と呼ばれている。誰かがそう言い始め、何人かが同じ言葉を使い、やがてそれが事実の形になった。

「事故だと決める前に、事故だと決められた順番を確認したいです」

奈緒は言った。

木村は手帳を返し、紙束の端を揃えた。

「なら、まず記録を見て。人の記憶は、簡単に揃うから」

その言葉が、奈緒の胸に残った。

編集局の入り口近くでは、藤堂圭吾が総務の担当者から建物の見取り図を受け取っていた。濃紺の上着には、雨の名残がわずかに付着している。藤堂は見取り図を机に置き、屋上へ続く階段と非常口の位置を指で追った。

「屋上扉の鍵は、普段どこで管理していますか」

「編集局の鍵棚です。ただ、最終的には篠原次長が見ています」

総務担当者はそう答えた。声には、説明が終わったという安堵が混じっていた。

藤堂はすぐには返事をしなかった。見取り図の余白に時刻を書き込み、鍵棚の位置を丸で囲む。

「三浦さんが最後に屋上へ上がった時間は?」

「正確には分かりません。本人が取材資料を取りに行ったのではないかと」

「誰の判断ですか」

「それは……」

担当者の視線が、少し離れたところにいる篠原へ向いた。

篠原克己は、遺族への連絡事項を確認していた。黒い手帳を開き、付箋の位置を確かめながら、相手の話を遮らずに聞いている。電話を切ったあと、数秒だけ目を伏せ、それから周囲へ穏やかに声をかけた。

「ご家族には、会社からも改めて伺います。今日の紙面については、三浦くんの名前を大きく出さない方向で進めましょう。今は、余計な憶測が広がらないようにした方がいい」

その言葉に、近くにいた記者が頷いた。

「そうですね。変な噂になったら、ご家族もつらいでしょうし」

「ええ。事実関係が固まっていない段階で、こちらから形を作るべきではありません」

篠原の声は低く、よく通った。誰かを説得しているようには聞こえない。相手の考えていることを先に言葉にして、そこへ戻しているだけだった。

奈緒は少し離れた机から、その様子を見ていた。

篠原は、三浦の死を隠そうとしているようには見えなかった。むしろ、誰よりも丁寧に扱っているように見えた。遺族の気持ち、紙面の影響、社内の動揺。すべてを考えている。だからこそ、疑う理由が見つからない。

疑う理由がないことと、疑う必要がないことは同じではない。

その区別を、奈緒はまだうまく言葉にできなかった。

藤堂が手帳を閉じた。

「屋上は施錠されています。転落した場所は、配水塔の脇です。雨のあとでしたが、足跡は限定的で、第三者が出入りしたと判断できる状態ではありません」

奈緒は現場写真の控えに目を向けた。藤堂が鞄から一枚を取り出し、机の上に置く。屋上の床は濡れていた。配水塔の灰色の影、錆びた手すり、転落防止の柵。画面の端に、三浦の上着の裾が写っている。

奈緒は写真を手に取った。

裾の乱れが少なかった。

落下した人間の服が、あれほど整っているものなのか。もちろん、落ち方や衣服の種類によるだろう。そんなことは分かっている。それでも、写真の中の三浦は、落ちたというより、置かれたように見えた。

床には水の輪があった。配水塔から漏れたものか、雨水が溜まったものか。だが輪の形は妙に均一で、途中で途切れていない。濡れた床を誰かが拭き、別のものを置いたあとにできたようにも見えた。

奈緒は写真の端を親指でなぞった。

「現場に、誰かが触れた可能性はありませんか」

藤堂が顔を上げた。

「何を見て、そう思いました」

「服の裾です。床の水も。人が転落した場所にしては、乱れが少ないように見えます」

「見える、だけでは判断できません」

「はい」

「雨が降ったあとなら、床の状態は変わります。救急隊や警察が入れば、足跡も乱れる。写真は撮影された時点の一枚にすぎない」

藤堂の口調は硬かったが、奈緒を退けるためのものではなかった。写真を受け取ると、彼は床の水の輪をしばらく眺めた。

「ただ、現場がきれいだったことは記録しておきます」

「事故として、ですか」

「事故として処理するために必要な条件が揃っている、ということです。事故だったと断定したわけではありません」

奈緒はその言葉を聞いて、少しだけ顔を上げた。

藤堂は続けた。

「警察の仕事は、違和感を拾って結論にすることではありません。違和感が、どの事実と結びつくか確認することです。現場に不自然さがあるなら、不自然だと書ける材料を集めてください。印象のままでは、誰も動けない」

「手帳の一行は、材料になりますか」

「一行だけなら、なりません」

藤堂は写真を受け取りながら、奈緒を見た。

「ただし、一行が別の記録と同じ時刻を指しているなら話は変わる。時刻は人の記憶より頑固です。そこから調べるのがいいでしょう」

そのとき、篠原がこちらへ歩いてきた。

「藤堂さん、屋上の件で確認できることがあれば、私からも説明します。三浦くんは前日の夜、紙面の確認で遅くまで残っていました。屋上へ行った理由は、本人が何か資料を探していたのだと思います」

奈緒は、篠原の言葉の早さに気づいた。

藤堂が尋ねる前に、三浦が屋上へ行った理由を説明している。

「資料、というのは?」

藤堂が聞く。

「古い再開発関連のファイルです。三浦くんは、以前の取材資料をよく整理していましたから。屋上の倉庫に、古い紙ファイルがいくつか残っているんです」

「屋上の倉庫を使うことは、通常ありますか」

「通常はありません。立入禁止です。ただ、鍵を管理している人間なら、必要なときに入れます」

篠原はそこで一拍置いた。

「ですが、三浦くんがその鍵を持ち出した記録はありません。おそらく、私に断る時間も惜しんで上がったのでしょう。締切前でしたし、彼はそういうところがありました」

三浦の性格を、篠原はよく知っていた。

穏やかで、丁寧で、仕事を滞らせない。誰かに迷惑をかけるくらいなら、自分で先に済ませようとする。奈緒も、三浦から付箋束をもらったときに同じことを言われた。

あとで困るのは時間の方だから。

篠原の説明は自然だった。自然すぎて、三浦の性格が一枚の紙のように、都合のよい場所へ置かれていく感じがした。

「屋上の鍵は、どの番号ですか」

奈緒が尋ねた。

篠原は彼女を見た。驚いた様子はなかったが、答える前にわずかな間があった。

「二一七です。古い鍵なので、番号を覚えている人間は少ないですが」

「篠原さんは覚えているんですね」

「管理を担当していますから。鍵の所在が分からなくなると、事故につながります」

「三浦さんが鍵を持ち出した記録はない、とおっしゃいました。記録がないことは、持ち出していないことと同じですか」

言ってから、奈緒は自分の声が思ったより強かったことに気づいた。会話の前に一度息を止める癖がある。今はそれを忘れていた。

篠原は責めるような顔をしなかった。むしろ、奈緒がそう尋ねることを待っていたように、柔らかく頷いた。

「同じではありません。ただ、管理表に記載がない以上、確認できないものを前提にするのは危険です。三浦くんの死を考えるなら、まず分かっていることから積み上げた方がいい」

「分かっていること、ですか」

「はい。彼が夜まで残っていたこと。屋上の扉が施錠されていたこと。転落した現場に、第三者の出入りを示す決定的な痕跡がないこと。そして、彼が普段から自分で資料を探し、自分で片づける人だったことです」

篠原の言葉は、ひとつずつ机の上に置かれていった。反論しようとすると、その反論まで含めて整えられてしまう。

「それなら、事故である可能性が高いということですか」

奈緒が言うと、篠原は少しだけ目を細めた。

「可能性の話なら、そうでしょう。ただ、断定を急ぐ必要はありません。警察の確認を待つべきですし、社内で憶測を広げるべきでもない。三浦くんのためにも、ご家族のためにも、仕事を止めないことが一番です」

仕事を止めないこと。

それは北桜日報で、ほとんど正しさと同じ意味を持っていた。朝刊は出る。紙面は埋める。締切は来る。誰かが死んでも、輪転機は止まらない。止めれば、別の誰かが困る。その現実を、篠原は誰よりもよく知っていた。

奈緒は手帳を見下ろした。

三日間、同じ一行を書き続けた三浦も、仕事を止めないために何かを残したのだろうか。

「篠原さん」

「はい」

「三浦さんは、死ぬ前の三日間、手帳に同じ文を書いています。七時二十分、鍵は戻る。何か心当たりはありませんか」

今度は、篠原の返事が少し遅れた。

ほんの一秒にも満たない間だった。けれど奈緒には、その短さがはっきり分かった。篠原は話す前に言葉を整える人だ。今の沈黙は、整えるためのものだった。

「いいえ。ありません」

声は穏やかだった。

「鍵を戻す時刻を記録していたのかもしれませんね。三浦くんは几帳面でしたから」

「三日間とも、同じ時刻です」

「何かの作業が三日続いたのではないですか」

「何の作業かは?」

「そこまでは分かりません。ただ、仕事の中で使う言葉には、本人にしか分からない省略があるものです」

奈緒は手帳を閉じた。

篠原の説明には、嘘だと断定できる箇所がなかった。三浦の性格にも、編集局の事情にも、よく馴染んでいる。だからこそ、何かを覆い隠すために作られた説明ではなく、初めからそこにあった説明のように聞こえた。

その日の午前の終わり、遺品の箱の底から小さな紙片が見つかった。

屋上扉 二一七

走り書きではない。三浦の筆跡だった。紙の端は二度折られ、折り目だけが白くなっている。奈緒は紙片を手帳の隣に置き、二つの文字列を見比べた。

七時二十分。

二一七。

時刻と鍵番号は、まだ結びついていない。だが、別々に置かれた二つの点が、紙の上で同じ方向を向いている。

奈緒は手帳の一行を、もう一度ゆっくり読んだ。

鍵は戻る。

違う。

鍵は戻ったのではない。誰かによって、戻されたのだ。

そう考えた瞬間、事故として閉じられたはずの死が、閉じた扉の向こうから音を立てた。

奈緒は手帳の写しを方眼ノートに貼り、紙の角を赤いボールペンの先で押さえた。まだ、誰かを疑うことはできない。篠原の名を、そこに書くこともできない。

それでも、確かめなければならなかった。

信じているからこそ、確かめる必要がある。

その考えは、彼女の中でまだ頼りなく、雨水の残る窓のように揺れていた。だが、手帳に残された一行だけは揺れていなかった。三日間、同じ筆圧で、同じ順序を指し続けている。

七時二十分、鍵は戻る。

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