第9話 取水塔の足元

階段は、湖面より下へ続いていた。

私は手すりに触れた。鉄は朝露に濡れているだけのはずなのに、指へ伝わったのは、井戸の縁に触れたときのような冷たさだった。苔の匂いがする。古い水と、錆びた金属と、底に溜まった泥の匂い。足元の段には、誰かが先に降りたような湿った跡が、ひとつずつ残っていた。

「真琴さん、待って」

みどりの声が背後からした。

「降りるの?」

「そのつもり」

「聞いておきますけど、これ、業務じゃないですよね」

「違うと思う」

「ですよねえ」

みどりは軽口の形を作ろうとした。しかし、すぐに口を閉じた。自転車の鍵を掛ける音が、白く曇った朝の中で小さく響く。彼女は配達鞄を肩から外し、取水塔の脇に置いた。中にはまだ、町の家々へ届ける郵便が入っているはずだった。

「置いていって大丈夫なの」

「配達物を持って、湖の底みたいなところへ行くのは、もっと大丈夫じゃないです」

そう言ってから、みどりはゴム手袋を外した。手袋の内側から、赤茶けた砂が一粒、落ちた。

彼女はそれを拾わなかった。

「これ、昨日からずっと入ってたみたいです。洗ったのに」

「私の鞄にもある」

「じゃあ、もう返すしかないですね」

「誰に?」

みどりは階段の下を見た。

「届いた場所に」

私たちは降り始めた。

段を踏むたび、鉄が低く鳴った。湖面はすぐ目の高さから外れ、代わりに取水塔の円筒形の壁が、朝の薄闇を塞いでいく。水は見えなくなったのに、湿気だけが濃くなった。首筋を冷たいものが撫で、髪の間へ入り込む。私は封筒を胸の前で握りしめた。乾いた紙の冷たさが、皮膚の冷たさと区別できない。

「この階段、地図にはありました」

みどりが言った。

「でも、途中までしかないはずだった。水位が下がっても、管理用の下段は立入禁止で、鍵が掛かっていることになってる」

「鍵は?」

「掛かってました」

私は足を止めた。

みどりが一段下を指す。手すりに、小さな南京錠がぶら下がっていた。錆びた金具は閉じている。けれど、その脇の扉はわずかに開いていた。錠前だけが、扉から取り残されたように揺れている。

風はない。

それなのに、南京錠が一度だけ鳴った。

ちりん。

鈴の音に似ていた。

「戻るなら、今です」

みどりは私を見ずに言った。

「真琴さん、まだ戻れます。私は配達に戻ったことにできます。真琴さんも、寝不足で変なものを見たってことにできる。手紙は、読まなかったことにはできないけど、読んだことを誰にも話さず、どこかへしまっておくことはできる」

「みどりさんは、それでいいの」

「よくないです」

「じゃあ、どうして戻れって言うの」

「戻れないと分かっている人に、戻る道を教えるくらいしか、今の私にはできないからです」

彼女はそこで初めて、私の方を見た。明るさを失った目の中に、それでも逃げたくないという意志が残っている。

「配達員は、相手の代わりに封を開けられません。届けたものを、受け取る人の手から奪うこともできない。だから、私はここで待ちます。真琴さんが戻るなら、一緒に戻る。戻らないなら、戻ってくるまでここにいる」

「怖いのに」

「怖いです。ものすごく怖いです。だから、ひとりでは待てない」

その言葉に、胸の奥が少しだけ緩んだ。

私は扉へ手を伸ばした。触れる前に、向こう側から冷気が流れてくる。水の匂いに混じって、古い味噌汁と煤と、乾かした布巾の匂いがした。

祖母の家の匂い。

それよりも古い、土間の匂い。

扉を押す。

内側には、階段が続いていた。

取水塔の設備へ降りるためのものではない。壁に沿って、ゆるく曲がりながら下へ伸びている。段の幅は狭く、手すりの向こうは真っ黒だった。明かりはない。それなのに、階段の先だけが薄く白んでいる。

「こんなもの、昨日までありませんでした」

みどりが呟いた。

「昨日も見たの?」

「見てません。見られませんでした」

「どういう意味」

「曲がり角の向こうが、いつも同じ塀だったんです。走っても、戻っても。あれは道がなかったんじゃない。道を見せてもらえなかったんだと思います」

私たちは階段を下りた。

何段あるのか、途中から分からなくなった。数えようとしたが、十七の次に二十が来て、その後は同じ数字を繰り返していた。壁の向こうで、低い水音がしている。ぽたり、ぽたり、と一定の間隔で落ちる音。音がするたび、封筒の中で紙がわずかに擦れた。

私は足を止めた。

「手紙が、動いてる」

封筒を開いたわけではない。なのに、内側から便箋が押されている。冷たい紙の角が、封筒の表面を何度も撫でていた。

「開けますか」

「ここまで来れば、読むだけでは足りないんでしょう」

私は封を切った。

便箋の冒頭には、いつもの記録があった。

令和六年六月十九日。曇り。水温十二度。

午前四時五十分、取水塔の下段が開いた。鈴、三度。真琴、来る。

その下に、今までになかった長い文章が続いていた。

下組六番地の井戸は、沈められる前に埋められた。埋めた土の中に、名前がひとつある。名前を埋めれば、そこにいた者が消えると思った。だが、土は水を吸い、名前を戻した。

お前は見ていた。

澄江は、落ちたのではない。

手を放した者がいる。

その一文を読んだ瞬間、階段の壁が揺らいだ。

目の前に、古い家の土間が現れた。

濡れた藁。黒い柱。井戸の縁に置かれた、赤い布。大人たちの足が何本も見える。誰かが怒鳴っている。誰かが、事故だと言っている。誰かが、まだ間に合うと叫んでいる。

幼い私は、土間の隅に座っていた。

泣いていない。

目の前に、澄江がいる。泥で汚れた頬。片方だけほどけた髪。彼女は井戸の中を覗き込み、それから私のところへ走ってくる。私の口を両手で塞ぎ、背中を壁へ押しつけた。

唇が動く。

声は聞こえない。

けれど、何を言っているのか分かった。

泣かないで。見ていないことにして。

その直後、背後で何かが倒れた。

澄江の手が、私の口から離れた。

私は目を開けた。

階段の先に、古い郵便受けがあった。

家の玄関に取りつけられていたものらしい。白い塗装は剥げ、表面に下組六番地という札が残っている。郵便受けの蓋が、内側からゆっくり持ち上がった。

中から、紙が一枚、押し出される。

私は手を伸ばした。

便箋だった。

封筒はない。紙は四つ折りにされ、角は正確に重なっている。開くと、細く右へ傾いた文字が並んでいた。

澄江は、ここにいる。

その文字を見た途端、背後でみどりが息を呑んだ。

私は階段の先を見た。

そこには、沈んだ集落の道があった。

水はない。家々は濡れてもいない。けれど空は暗く、屋根や石垣の隙間に水草が揺れている。遠くの家から味噌汁の匂いが漂い、どこかで戸を閉める音がした。村は、沈んでいるのに暮らしていた。

縁側に、子どもが座っている。

肩までの髪。細い背中。膝の横に、鈴のついた紐を置いている。

「澄江」

声に出すと、子どもは振り返った。

顔は、思い出せなかった。

姉だったはずなのに、私はその顔を知らない。知っているのは、髪を撫でる手の乱暴さと、土で黒くなった爪と、私の口を塞いだ掌の冷たさだけだった。

子どもは立ち上がり、こちらへ歩いてきた。

その足元に水はない。なのに、一歩ごとに床へ濡れた跡が残る。

「真琴さん」

みどりの声が遠く聞こえた。

「それ以上、行かないで」

私は動かなかった。

澄江は私の前で止まり、手に持っていた紙を差し出した。私は受け取った。紙の中央には、子どもの字で書かれている。

今日、真琴が来た。  泣かなかった。  今度は、帰るかどうか自分で決める。

最後の一行を読んだとき、村のあちこちで鈴が鳴った。

ひとつ。

ふたつ。

数え切れないほどの音が、水の底に広がっていく。

私は澄江を見た。

「私を呼んだの」

澄江は答えなかった。

「私に、思い出させたかったの」

やはり答えない。

「それとも、私もここへ沈めたいの」

子どもの顔に、初めて表情が浮かんだ。

笑ったように見えた。

泣いたようにも見えた。

私は、澄江の手から鈴の紐を受け取った。金属は冷たかったが、すぐに指の中で温度を持ちはじめた。生きているものの温度ではない。長く抱えていたものを、誰かへ渡したあとの、空いた手の温度だった。

「私は、あなたをなかったことにしない」

言葉は小さかった。それでも、沈んだ村の隅々まで届いた気がした。

「あなたが何を見て、誰が手を放して、誰が黙ったのか。全部を今すぐ分かるとは思わない。でも、分からないまま消すことはしない。ばあちゃんの沈黙も、役場の欠番も、手紙の記録も、私の記憶も、つなげて残す。あなたを、私の中だけの幽霊にしない」

澄江は、ゆっくりとうなずいた。

その瞬間、家々の窓から白い光が消えた。水の気配が一斉に押し寄せる。道の先から濁った波がこちらへ向かってくる。みどりが私の腕を掴んだ。

「戻ります!」

私は澄江から目を離せなかった。

「まだ、全部聞いてない」

「全部聞いたら、戻れなくなる!」

「でも、ここに置いていくのは嫌」

「置いていかないです!」

みどりは私の腕を強く引いた。

「帰って、書くんです。真琴さんが見たことを。私も見たことを書く。相川さんにも、書類の端に隠したものを出してもらう。ここで沈んだままにするんじゃなくて、上へ持っていくんです!」

私は澄江を見た。

彼女はもう、子どもの姿ではなかった。水草の影に立つ、輪郭だけの人間になっている。顔は見えない。それでも、私には分かった。

帰れ、と言っている。

帰って、忘れないで、と。

私はみどりの手を握り返した。

二人で階段を駆け上がった。背後から水音が追ってくる。段を踏むたび、鉄が激しく鳴る。手すりから冷たい水が流れ落ち、靴の中へ入り込んだ。途中で振り返ると、階段の下に、澄江が立っていた。

その隣に、誰かの影がある。

大人の影だった。

顔は見えなかった。

ただ、井戸の縁から手を放す仕草だけが、はっきりと見えた。

私は階段を上りきり、扉の外へ転がり出た。

朝の空気が肺へ入る。湖面は白く曇り、山の影が水の上へ沈んでいる。取水塔の周りには、何もなかった。開いていたはずの扉は閉まり、錆びた南京錠が元の位置で揺れている。

みどりは膝に手をつき、荒い息を吐いていた。私は手の中の紙を見た。便箋は乾いている。けれど、文字の一部が薄く滲み、最後の一行だけが残っていた。

記録は、戻る者の手に渡る。

みどりが顔を上げた。

「何て書いてあります?」

私は読み上げた。

みどりは、しばらく黙った。それから、手袋を拾い上げ、指先を確認するように一つずつはめ直した。

「じゃあ、戻りましょう」

「怖くないの」

「怖いです。でも、配達が残ってるので」

「この状態で?」

「この状態だからです。今日の郵便、まだ届けてません」

彼女は立ち上がり、路肩の配達鞄を肩へ掛けた。鞄の底から、紙が擦れる音がする。町の家々へ届くはずの郵便が、まだそこにある。

私は封筒を見た。

差出人の欄には、旧三和集落・下組六番地。

宛名は、私の名前だった。

だが、もう受け取るだけでは足りない。

私は封筒を胸元へしまい、取水塔を振り返った。鉄骨の向こうに、湖面が広がっている。風が吹いているのに、水は動かない。水底のどこかで、家々の戸が開き、誰かが朝の支度をしている。

鈴が一度だけ鳴った。

私はそれを、別れの音だとは思わなかった。

届いたことを確かめる、短い合図のように聞いた。

みどりと並んで護岸道路を戻る。背後には、白く曇った湖がある。足元には赤茶けた砂が残っている。私はそれを払わなかった。

書店へ着いたら、まず窓を拭く。

棚の角をそろえる。

鉛筆削りを二度回す。

それから、手紙を開く。

そして、今日見たことを、今度は私の手で書き残す。

← 横にスクロールして読み進められます

取水塔の足元 - 底の手紙 - 誰でも作家life