第10話 戻る者の記録

書店の鍵を開けたとき、店内の空気はまだ夜の続きを抱えていた。

冷えた紙と、木の棚に染みついた埃の匂い。窓際に置いた観葉植物の鉢から、湿った土の匂いがかすかに上がっている。私は照明をつけず、入口のガラス戸を内側から拭いた。

布を動かすたび、湖の白い水面が細長く歪んだ。

いつもなら、汚れが落ちていくことに安心する。曇ったものが透明になり、外の景色が戻ってくる。けれど今朝は、拭うほどに別の風景が浮かんだ。

屋根の低い家々。

濡れた石垣。

縁側に座った、顔の見えない子ども。

私は布を絞った。水滴が床へ落ちる。ひとつ、ふたつ。落ちた雫はしばらく丸い形を保ち、それから木目の中へ吸い込まれていった。

取水塔で見たことを、忘れないうちに書こうと思った。

レジの横にノートを開き、鉛筆を持つ。指先にはまだ、鈴の紐の冷たさが残っている気がした。

六月十九日。曇り。  取水塔の下段に、地図にない階段があった。  階段の先に、旧三和集落があった。  水はなかった。けれど、すべてが濡れていた。

そこで私は手を止めた。

すべてが濡れていた、という書き方は正確ではない。家の壁も、道も、縁側も、触れれば乾いていたはずだ。それなのに、視界の奥では水が揺れていた。空気そのものが水の中にあるようだった。

私は一度、書いた文章を消した。

取水塔の下段に、地図にない階段があった。  階段の先に、旧三和集落があった。  そこでは、沈んだ時間だけが続いていた。

こちらの方が、まだ近い気がした。

ノートの隣に、澄江の紙片を置く。

今日、真琴が来た。  泣かなかった。  今度は、帰るかどうか自分で決める。

子どもの字は、私の知っている手紙よりも傾きが大きかった。けれど、四つ折りの角は同じように揃っている。差出人は澄江なのか。そうでないのか。祖母の言った通り、もう一人の名前に決めてしまうことが、何かを再び置き去りにするのかもしれない。

紙片の下に、封筒を重ねた。

そのとき、店の奥で本が一冊落ちた。

音は大きくなかった。棚から滑り、床へ伏せるだけの音だった。けれど私は、すぐには見に行けなかった。

鈴の音がした。

店内のどこからともなく、ちりん、と一度。

私は鉛筆を置き、棚の間を歩いた。落ちていたのは、古い地図帳だった。表紙には町の名前が書かれている。開いたページは、三和ダム周辺の地形図だった。

地図の端に、鉛筆で小さな丸がついている。

取水塔ではない。

湖の北側、現在は水面になっている場所。旧三和集落の下組に当たるあたりだった。

丸の横には、見覚えのない文字があった。

六番地ではない。  その下にある。

私は地図帳を閉じた。

開店時間にはまだ早かったが、相川さんへ電話をかけた。呼び出し音が四回鳴ったところで、彼が出た。

「はい、相川です」

「篠原です。今、話せますか」

「書店からですか」

声の奥で、紙を整える音がした。

「昨日、取水塔へ行きました」

沈黙があった。

短い沈黙だったが、相川さんが息を止めたのが分かった。

「……そうですか」

「取水塔の下に、階段がありました。旧三和集落へ続いていました」

「その話は、電話ですることではありません」

「では、どこですればいいですか」

「役場へ来てください」

「今日、ですか」

「今日でなければ、記録が変わるかもしれません」

その言葉を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走った。

「記録が変わる?」

「台帳の話です。あなたが見たものを、書面にします」

「今まで書面にしなかったものを?」

相川さんは答えなかった。

受話器の向こうで、紙をめくる音がした。次に、遠くで誰かが水を流したような音が聞こえた。

「相川さん」

「はい」

「澄江さんの名前を、知っていましたよね」

また、沈黙。

「知っていました」

その返事は、思っていたより静かだった。

「なのに、欠番のままにした」

「私が消したわけではありません」

「でも、戻さなかった」

「戻せる記録ではありませんでした」

「それは、どういう意味ですか」

相川さんの声が低くなった。

「戸籍にない人間を、戸籍へ戻すことはできない。移転名簿にない人間を、移転したことにはできない。役所の記録は、そこにあるものを残すためのものです。最初からなかったことにされたものを、後から存在させる仕組みはない」

「仕組みがないなら、作ればいい」

言ってから、自分でも驚いた。

相川さんは何も言わない。

「書類にできないなら、証言でも、記録でもいい。少なくとも、消された名前があったことを残すことはできる」

「残したものは、誰かを責めます」

「責められる人がいるなら、責められるべきです」

「そう簡単ではありません」

「簡単だとは言っていません」

店の窓に、朝の光が差し始めていた。

湖の上に細い風が走った。今度は水面が動いた。けれど、その動きの下に、別の流れがあるように見えた。

「澄江さんを見た人間は、私だけではありません」

相川さんが言った。

「誰ですか」

「それを、今日お話しします」

「役場で?」

「はい」

「祖母も知っていることですか」

返事が遅れた。

「篠原さん。あなたのお祖母さまは、知っていることをすべて話したわけではありません」

電話が切れたあとも、私はしばらく受話器を耳に当てていた。

店の中に、本の匂いが戻ってくる。紙と糊と、誰かが指で触れたページの匂い。私はレジの下から新しいノートを出し、表紙に日付を書いた。

記録は、戻る者の手に渡る。

その言葉を一行目に写す。

書き終えたところで、入口の郵便受けが鳴った。

店には郵便受けなど置いていない。

それでも、金属の蓋が開く音がした。

私はゆっくり振り返った。

入口の床に、白い封筒が一通落ちている。

差出人は、旧三和集落・下組六番地。

宛名の下には、いつもの私の名前ではなく、別の名前が書かれていた。

篠原澄江。

封筒の角から、赤茶けた砂がこぼれている。

私はすぐには拾わなかった。

店の時計が、開店時刻を告げる。外では車が一台通り過ぎ、遠くで犬が吠えた。町はいつもの朝を始めようとしている。

けれど床の上の封筒だけが、まだ夜の底にあった。

私はノートを閉じ、封筒の前へしゃがみ込んだ。

澄江の名前を指でなぞる。

紙は冷たかった。

その冷たさの奥で、誰かが私の返事を待っている。

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