第8話 湯呑みを二つ

台所の電気をつけると、居間の戸口に祖母が立っていた。
音がしなかった。玄関の戸が開いた気配も、廊下の床板が鳴る音も聞いていない。ついさっきまでひとりだったはずの家に、最初からそこにいたような顔で、タエが立っている。
白い寝間着の上に、古い茶色の羽織を重ねていた。髪はきちんと結ばれている。眠りから起きたばかりには見えなかった。
「ばあちゃん、起きてたの」
返事はなかった。
タエは私を見ず、流し台の横に置かれた棚から湯呑みを二つ取り出した。いつも使っている、縁の欠けた湯呑みと、模様の薄くなった湯呑み。二つを卓の上へ並べる。空の器の底が、蛍光灯の白い光を鈍く返した。
その並べ方には、決まった間隔があった。
昔からそうだったのだろう。私は初めて気づいたような気がした。二つの湯呑みの間には、指三本分の隙間がある。近すぎず、離れすぎず、誰かが向かいに座ることを前提にした距離だった。
「お茶、淹れようか」
「いらない」
タエは短く答えた。
その声には、眠気も驚きもなかった。私が夜中に訪ねてくることも、封筒の束を抱えていることも、すでに知っていたような落ち着きがあった。
私は持っていた手紙を卓の上へ置いた。
束の一番上にある封筒が、木の表面へ触れる。乾いた音だった。それなのに、家の奥で水が動いたような気配がした。床下か、壁の向こうか、場所の分からないところで、重たいものがゆっくり身じろぎした。
タエの指が、封筒の上を一瞬だけかすめた。
触れたというより、触れる前に引いたような動きだった。けれど、その指先の硬さを私は見逃さなかった。
「来た」
タエが言った。
「うん」
「何通目だ」
「数えてるの」
「お前が数えないから、こっちで数えている」
祖母は湯呑みを見たまま言った。
私は束を持ち上げ、指で枚数を確かめた。
「七通」
「七つか」
「そう。毎朝一通。郵便局のみどりさんが届けてくる。差出人は、旧三和集落の下組六番地」
地名を口にした瞬間、タエのまぶたがわずかに下がった。
言いかけた言葉を、喉の奥で押し戻したときの顔だった。
「その名前を、軽く口にするな」
「軽く言ってない」
「口に出せば、近くなる」
「もう近いよ。家の郵便受けに届いてる。役場の台帳にも欠番があった。下組六番地の世帯だけ、番号を残して名前を消されていた」
タエは返事をしなかった。
私は向かいの椅子を引いた。椅子の脚が床を擦り、乾いた音が家の中に広がった。祖母は座らない。二つの湯呑みも空のままだ。
「ばあちゃんは、下組六番地に誰が住んでいたか知ってるんでしょう」
「知らない」
「筆跡を見たとき、知らない人の顔をしてなかった」
「年を取ると、昔のことを知っているような顔になる」
「そうやってまた、話を終わらせるの」
口から出た言葉は、思ったより尖っていた。
タエは私を見た。怒った様子はなかった。ただ、目の奥に疲れが沈んでいる。何度も同じ場所へ戻され、戻るたびに同じ言葉を選んできた人の目だった。
「真琴。お前は、何を知りたい」
「全部」
「全部という言葉を使うな。人間が知れることには限りがある」
「それなら、知れるところまででいい」
「知ったら、楽になると思うのか」
「楽になるためじゃない」
私は封筒の角を指で撫でた。紙は乾いていた。けれど指先の奥に、水底の冷たさが残っている。
「私の中に、知らない誰かの記憶がある。土間の匂いも、水の音も、井戸の黒さも、私は覚えていないのに、身体だけが知ってる。ばあちゃんは、それを知ってる。知っていて、私には知らなくていいと言う」
「忘れている方が、生きていけることもある」
「誰が決めたの」
「私だ」
タエは即答した。
その声に初めて、硬いものが混じった。
「私が決めた。お前が小さかったからだ。お前の父親も母親も、決められなかった。泣いて、怒って、互いに責めて、それでも何も戻らない夜に、私が決めた」
「何を」
「忘れさせることを」
蛍光灯が、かすかに明滅した。
私は聞き返さなかった。聞き返せば、祖母はまた黙る気がした。けれどタエは、空の湯呑みへ視線を落としたまま、言葉を続けた。
「記憶というものは、取って捨てられるものじゃない。触らないようにして、別のものを上に置くしかない。お前には本を読ませた。絵を描かせた。鉛筆削りを買ってやった。眠れない夜は、窓の外を見せずに、台所で湯を沸かした。そうして、あの家のことを少しずつ遠ざけた」
「私が忘れるように?」
「お前が、生きていけるように」
「同じことに聞こえる」
タエは黙った。
家の外で、風が軒先を撫でた。風の音に混じって、遠くで水が流れたように聞こえる。私は反射的に流し台を見た。蛇口は閉じている。桶の蓋も、きちんと置かれている。
「ばあちゃんは、私を守ったつもりだったの」
「つもりではない。守った」
「何から」
「見たものからだ」
タエの右手が、卓の縁を一度だけ撫でた。
「お前は、あの夜、井戸のそばにいた。大人が何人もいて、口々に言い争っていた。移転の話ではない。もっと前から、村の者が触れないようにしてきたことだった。水が濁ったとか、井戸の底から音がするとか、そんな話ではない。誰が何を見たのか、誰が見なかったことにしたのか、その話だ」
祖母の声は低く、途切れなかった。
「村は沈むことが決まっていた。家も道も、地蔵堂も、井戸も、全部、水の下へ行く。役場の人間は、移転の期限と補償の金額だけを並べた。村の者は、家を失う話をしながら、同時に、失くしてはいけないものを隠していた。隠したまま沈めれば、いつか土地と一緒に消えると思っていた」
「失くしてはいけないものって何」
「名前だ」
タエは初めて、私の目を見た。
「人の名前。誰がそこにいたかということ。家族として数えられなかった者の名前。戸籍に入らなかった子ども。移転の金を受け取れず、別の家の人数に紛れ込ませた者。役場の台帳に載らない人間は、死んでもいないことにされる」
胸の奥が冷えた。
役場で見た複写紙の、朱色に塗りつぶされた名前が浮かんだ。篠原家。家族の人数、四。消された一人分の記録。
「下組六番地に、誰がいたの」
タエは答えなかった。
「私の家に、誰がいたの」
「真琴」
「私以外に、誰が」
「お前は小さかった」
「だから訊いてるの。私は何を見たの。誰といたの」
声が震えた。怒鳴るつもりはなかったのに、最後の言葉だけ、喉の奥で擦れた。
「私は、あの家で誰かと暮らしていたの?」
タエの手が、湯呑みの縁へ伸びた。けれど持ち上げず、ただ指を添えた。
「暮らしていた」
「誰が」
「澄江」
知らない名前だった。
なのに、その音を聞いた瞬間、鼻の奥に古い布巾の匂いが戻ってきた。濡れた藁、煤けた柱、梅干しを漬けた樽。誰かが笑っている。幼い私の髪を、乱暴に撫でている。
すみちゃん。
そう呼んだ声が、記憶の底から浮かんだ。
「澄江は、私の……」
「お前の姉だ」
言葉が、空の湯呑みの底へ落ちた。
音はしなかった。けれど、胸の内側で何かが割れた。
「姉?」
「戸籍にはない。お前の母親が産んだ子ではない。けれど、篠原の家で育った。お前より三つ上だった」
「どうして、誰も言わなかったの」
「言えなかった」
「言わなかったんでしょう」
「同じではない」
「私には同じだよ」
タエの表情がわずかに歪んだ。
「澄江は、あの井戸を見た。見てはいけないものを見た。いや、見たことにされなかったものを、見たと言い張った。村の大人たちは、あの子が話すことを怖がった。役場も、家族も、私も」
「ばあちゃんも?」
「私もだ」
短い言葉のあと、祖母は一度、目を閉じた。
「怖かった。澄江が話せば、誰かが責められる。誰かが責められれば、家が壊れる。家が壊れれば、お前も巻き込まれる。だから、あの子を黙らせた。見なかったことにした。お前には、澄江という子はいなかったと教えた」
「教えたんじゃない。消したんだよ」
「そうだ」
タエは否定しなかった。
「消した。お前の記憶からも、台帳からも。だが、消したつもりで、消えてはいなかった。だから手紙が来る」
卓の上に置いた封筒が、かすかに膨らんだように見えた。
紙の内部で、水が動いている。
「手紙を書いているのは、澄江なの」
「分からない」
「ばあちゃんが、分からないなんて言うんだ」
「澄江かもしれない。あの子を見た者かもしれない。あるいは、下組六番地そのものかもしれない」
「そんな言い方で逃げないで」
「逃げているのではない。名前を決めると、また誰かを一人にしてしまう」
タエは湯呑みを私の前へ押し出した。
空の器だった。
「手紙は、澄江のことだけを書いているわけではない。あの村で、見なかったことにされたものを、順番に戻している。下組五番地の戸。地蔵堂の塩。鈴の音。誰がどこで泣いたか。あの子は、そういうものを記録していた」
「澄江が書いていたの?」
「小さい頃から、何でも書く子だった。天気、魚、犬の鳴いた回数。人が泣いた場所まで。泣いた人間より、泣かなかった人間をよく覚えていた」
その言葉に、全身の血が引いた。
「私のことも?」
「お前は泣かなかった」
「どうして」
「泣けなかったんだろう」
タエの声が、初めて崩れた。
「井戸のところで、澄江が落ちた。落ちたというより、落とされたと、あの子は言っていた。誰かが手を放した。誰かが見ていた。誰かが助けられたのに、助けなかった。けれど、その場にいた大人たちは、事故だったと言い、事故にすらしなかった。井戸は埋められ、名前は消され、澄江は移転名簿から外された」
私は椅子の背に手をかけた。
指が震えていた。紙の端を撫でる癖が、何度も指を動かしている。止めようとしても、止まらなかった。
「私は見たの」
「見た」
「澄江が落ちるところを?」
「お前は、井戸のそばにいた」
「それで、泣かなかった」
「泣けなかった。澄江が、お前の口を塞いだからだ」
記憶が、濁った水の底から一気に浮かび上がった。
冷たい手。
土で黒くなった爪。
私の口を押さえる、小さな掌。
澄江の顔が見えない。井戸の縁から身を乗り出し、何かを見ている。私の背中へ回った手が、強く押しつけられる。
泣かないで。
声は聞こえなかった。ただ、その形だけが分かった。
泣いたら、あの人たちに見つかる。
そう言われた気がした。
私は卓に手をついた。空の湯呑みが震え、二つの器の間で小さな音を立てた。
「ばあちゃんは、私を連れて逃げたの」
「連れて逃げた」
「澄江を置いて?」
タエは長く黙った。
その沈黙が、答えだった。
「置いていったんだね」
「置いていくしかなかった」
「それは、守ることじゃない」
「分かっている」
「分かっているなら、どうして私に何も言わなかったの」
「お前まで、消されると思ったからだ」
「誰に」
「村に。家族に。記録に。生きている人間は、死んだ人間より簡単に人を消す。毎日顔を合わせて、名前を呼ばず、話を変え、なかったことにする。それを何年も続ければ、本当にその人がいなかったようになる」
祖母は空の湯呑みを見つめていた。
「私は、お前をこちら側へ置きたかった。消される側ではなく、生きている側へ。だから記憶を閉じた。閉じれば、お前は普通に育つと思った。学校へ行き、本を読み、働き、誰かを好きになって、子どもを産んで。沈んだ村とは関係のない人生を歩けると思った」
「関係がない人生なんて、最初からなかった」
口にした途端、涙が出た。
悲しい、と言葉にするより先に、身体の一部が抜け落ちたような感覚があった。今まで私の中にあった空白は、何もない場所ではなかった。誰かを置き去りにしたあとに残った、形のある欠落だった。
タエは立ち上がった。
流し台へ向かい、水桶の蓋に手をかける。蓋を開けると、桶の中の水面がわずかに揺れた。家の中に水道の音はないのに、水面だけがいつまでも揺れている。
タエは桶の底から、折り畳まれた布を取り出した。
古い布巾だった。端が擦り切れ、茶色い染みがいくつも残っている。祖母の家の匂いが染みついた、あの布巾だ。
「これを持っていけ」
「何?」
「澄江のものだ」
布巾の内側から、薄い紙片が落ちた。
私は拾い上げた。
紙は黄ばんでいたが、折り方は手紙と同じだった。四つ折り。角が正確に重なっている。開くと、子どもの字で、短い記録が書かれていた。
雨。井戸の水、黒い。 真琴、泣かない。 明日、鐘が鳴る。
最後の一行だけ、鉛筆の圧が強かった。
私は紙を持つ手に力を込めた。
「これを、ずっと持ってたの」
「捨てられなかった」
「なのに、私には何も言わなかった」
「言えば、お前の中で澄江が戻ると思った」
「戻ってきてほしかったんじゃないの」
タエは黙った。
「ばあちゃんは、澄江に戻ってきてほしくなかったの。私が思い出したら、あの夜のことを話すから? 誰かを責めることになるから? それとも、自分が澄江を置いていったことを、私に知られたくなかったから?」
「全部だ」
タエはそう言った。
「全部、怖かった。澄江が戻ることも、お前に責められることも、私が自分を許せなくなることも。だから、知らないふりを続けた。お前を守ったと言いながら、自分も守っていた」
その言葉は、手紙のどの記録よりも重かった。
私は祖母を責めたかった。責めれば、胸の中に溜まったものが少しは外へ流れると思った。けれど、タエの肩は小さく、背中は以前よりずっと曲がっている。長いあいだ、誰にも渡せなかったものを、ひとりで抱えたまま立っている背中だった。
許すことはできない。
けれど、憎むだけでも足りなかった。
「手紙は、これからも来る」
「来るだろう」
「私が全部読む」
「そうか」
「みどりさんにも、相川さんにも話す。記録にないものを、記録にないままにしない」
「相川は、まだ黙る」
「それでも、話させる」
「お前は、変わったな」
タエが言った。
私は首を振った。
「変わったんじゃない。知らなかっただけ」
祖母は湯呑みを二つ見た。
それから、片方を私の方へ、もう片方を自分の前へ引き寄せた。空のままだった器に、ようやく急須から茶を注ぐ。湯気が立ち上がり、湿った夜気の中でゆっくりほどけた。
茶の匂いがする。
ほうじ茶に似た、少し焦げた香ばしさ。その奥に、土と古い木の匂いがあった。
「澄江にも、同じように湯呑みを出していたの」
私が訊くと、タエは茶を注ぐ手を止めた。
「二つでは足りなかった」
「どういう意味」
「澄江の分と、お前の分。それから、帰ってこない者の分も出していた」
「帰ってこない者って」
タエは答えなかった。
ただ、三つ目の湯呑みを棚から取り出した。
それを二つの器の間に置く。
空の器の底が、蛍光灯の白を鈍く返した。
その瞬間、家の奥から鈴の音がした。
ちりん。
一度だけ。
タエは目を閉じた。私は布巾に包まれた紙片を握りしめた。窓の外には湖がある。夜の底で、沈んだ家々が水に押し黙らされている。けれど、黙っていることと、消えていることは違う。
私は三つの湯呑みを見つめた。
明日も手紙は届く。
届いたら、読む。
読むだけでは足りないと、どこかで分かっていた。けれど今夜はまだ、立ち上がることができなかった。目の前に置かれた空の器の数だけ、帰ってこなかった人間がいるように思えた。
タエが私の前の湯呑みに、もう一度茶を注いだ。
湯気の向こうで、祖母の顔がぼやける。
その奥、台所の暗がりから、子どもの声がした。
「真琴、まだ泣かないね」
私は振り返らなかった。
声の主を確かめることが、怖かった。
けれど、聞き間違いだと片づけることもできなかった。
手元の茶は温かい。
その温かさの底に、湖の冷たさが沈んでいた。
← 横にスクロールして読み進められます
