第7話 静かな湖面

その夜、私は眠れないまま窓を開けていた。
新三和町の家々は暗く沈み、湖面だけが、風のない布のようにぴんと張っている。いつもなら、どこかの家の戸を閉める音や、遠くを走る軽トラックのエンジンが聞こえる。犬が一度だけ吠え、誰かが咳をし、隣家の給湯器が低く唸る。町は眠っていても、暮らしの音を完全には止めない。
けれど、その夜は何もなかった。
湿った冷気が網戸の目をくぐって入り、頬を撫でた。台所の隅に置いた湯呑みの茶が、窓を開ける前より少しずつ薄くなっていくように見える。表面に浮かんだ細かな茶葉が、ひとつ、またひとつと沈んでいった。
私は窓辺から動かず、湖を見ていた。
夜の水面は黒い。街灯の明かりが護岸道路に沿って細く並び、その光だけが、岸近くの水を鈍く照らしている。湖は何も映していない。山の影も、雲も、月も映さず、ただ黒いままそこにある。
枕元には、何度も折り返した手紙の束があった。
最初に届いた一通目から、数えて六通。便箋はすべて同じ紙で、封筒も同じ色をしている。少し黄ばんでいるのに、古びた感じはしない。紙の端は手で触れるたびに柔らかくなっていたが、冷たさだけは失われなかった。
差出人の名義は、いつも同じだった。
旧三和集落・下組六番地。
何度見ても、そこだけが現実の地図から切り離された場所のように思える。地上の地図にはない。役場の台帳からも消され、郵便局の配達区域にも存在しない。それなのに、毎朝、同じ折り方の手紙が届く。宛名は私の名前と住所を一画も違えず、古い帳面を写したように正確だった。
私は束の一番上にある封筒を手に取った。
紙は乾いている。
乾いているのに、指先の内側だけが濡れたように冷える。掌を返して見ても、水滴はない。けれど、皮膚の下へ細い水の筋が入り込み、手首から肘へ向かって静かに上ってくるような感覚があった。
封筒を開ける。
中の便箋には、その日の記録が並んでいる。
令和六年六月十七日。曇り。水温十四度。
午前五時二十分、湖面は平ら。濁り少ない。旧道脇の石垣に白い花が三つ。下組四番地の縁側に、朝から濡れた足跡がある。住人は足跡を拭かない。
私はそこまで読んで、便箋を膝の上に置いた。
縁側の足跡。白い花。下組四番地。
どれも、この町に暮らす人間なら知りようのないことだった。旧道脇の石垣など、水位が下がったときにしか現れない。下組四番地は、手紙の差出人と同じように、地図から消えた場所だ。
それでも、便箋の文面にあるものは、誰かの空想には見えなかった。
あまりに生活に近い。
白い花が三つ咲いたこと。縁側に足跡があること。住人がそれを拭かずにいること。そこには、幽霊や呪いを語る者が持つ熱がなかった。ただ、見たものを見た順に書き残す冷静さがある。
最後の一行を読む。
夜、鈴が二度。真琴はまだ井戸を見ていない。
便箋が手の中で揺れた。
井戸。
その言葉を読むと、胸の奥にしまっていた何かが、湿った布のようにゆっくりほどけた。
暗い土間。
裸足の裏に貼りつく冷たさ。
鼻の奥へ入ってくる、濡れた藁と赤土の匂い。
私は幼い。膝の高さほどしかない戸口の向こうに、誰かの背中が見える。外は明るいのに、土間の中には光が届かない。足元には丸い石があり、その向こうに、黒い穴が開いている。
井戸だ。
そう思ったところで、記憶は途切れた。
私は便箋を折り直した。四つの角を合わせ、折り目を指先でなぞる。紙を閉じても、井戸の黒さは消えなかった。
私は、旧三和集落で過ごした幼い頃のことを、ほとんど覚えていない。
父は、私がまだ小さい頃に引っ越したのだと言った。母は、古い家は取り壊されて、今は湖になっていると話した。祖母は、昔のことは思い出さなくていい、と繰り返した。
誰も嘘をついているようには見えなかった。
だから私は、何も覚えていないことを、自分の問題だと思っていた。記憶力が悪いのだと。大切なことが少なかったのだと。子どもの頃の記憶など、誰にでも曖昧なところがあるのだと。
そう思っていれば、家族を責めずに済んだ。
私は、そうやって二十年以上を過ごしてきた。
机の上には、小さなメモ帳が開いたままだった。夢の断片を書き留めるために使っているものだ。昨夜は、鉛筆で三つの言葉だけを書いた。
土間。
水音。
泣かなかった。
最後の言葉を見たとき、胸の奥が細く痛んだ。
泣かなかった。
それは手紙に書かれていた文面と同じだった。
私は土間の隅で泣かなかった。
なぜ、差出人はそんなことを知っているのだろう。幼い自分が泣いたか泣かなかったかなど、家族以外の誰にも分からない。そもそも、私自身が覚えていない。
便箋をもう一度開く。
文字は細く、少し右へ傾いている。筆圧は一定で、文字の大きさもほとんど変わらない。急いで書いた跡はない。水底に沈んだ家の中で、机に向かい、窓の外の天気を確かめ、紙の端を指で撫でてから、一行ずつ書いている人の姿が浮かぶ。
そんな人間が、まだいるのだろうか。
湖の底に。
沈んだ家の中で。
毎朝、天気と水温を記録しながら。
私は窓の外へ目を戻した。
湖面は変わらず静かだった。静かすぎて、ただの夜ではないことだけが分かる。水の上に静けさがあるのではなく、水の下から静けさが押し上げられているようだった。
私は窓を閉めようと手を伸ばした。
そのとき、遠くから音が響いた。
低く、長くは続かない音だった。
寺の鐘に似ている。けれど、鐘よりも鈍い。濁った水の中を通って、岸まで届いた音のようだった。音の輪郭が揺れていて、聞こえたというより、胸の内側を一度だけ叩かれたように感じた。
私は手を止めた。
二度目の音を待った。
何も聞こえない。
耳を澄ますと、家の中の音が戻ってきた。冷蔵庫の低い唸り。壁時計の秒針。窓枠に触れる枝の擦れる音。
そして、台所のどこかで、水が一滴落ちた。
ぽたり。
私は振り返った。
台所には誰もいない。蛇口は閉じている。流し台の周りも濡れていない。けれど、床の隅に置いた湯呑みの表面に、細い水滴がひとつ浮かんでいた。
私はそこへ近づいた。
水滴に指を触れる。
冷たい。
冷水というより、長い時間、光の届かない場所に置かれていたものの冷たさだった。指先を離すと、水滴はすぐに消えた。床へ落ちた形跡もない。
私は湯呑みを持ち上げた。
茶はまだ温かいはずだった。けれど、口をつけると、ほとんど味がしなかった。ほうじ茶の香ばしさも、湯の熱さも、舌の上で薄くほどけて消える。
窓の外で、湖面がかすかに明るくなった。
月が出たのかと思った。
しかし、空に月はなかった。
湖の中央だけが、ぼんやりと白んでいる。霧とも違う。水面の下から、何かが光を返しているように見えた。白いものが、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
私は息を止めた。
それは、沈んだ家の屋根だった。
もちろん、そんなはずはない。水面に屋根が浮かぶはずがない。湖の底にあるものが、夜の水を透かして見えるはずもない。
けれど、確かに見えた。
黒い瓦の線。傾いた軒先。水草の間に引っかかった白い布。どこかの家の縁側らしきもの。
その縁側に、小さな影が座っている。
子どもだった。
顔は見えない。膝を抱え、湖のこちら側を向いている。肩まで伸びた髪が水の中で揺れている。影のそばには、細長いものがあった。鈴のついた紐か、古い鍵か、それとも濡れた草の束か。
私は窓ガラスへ手をついた。
冷たさが掌に吸いついた。
影が顔を上げた。
その瞬間、湖面の白さが消えた。
水はただの黒い水に戻り、屋根も、子どもの影も、何もなかったように消えていた。
私はしばらく動けなかった。
見間違いだと思おうとした。疲れている。眠れていない。手紙を読みすぎた。古い記憶に引きずられて、現実の湖へ余計なものを重ねて見ただけだ。
理由はいくつも並べられた。
けれど、どの理由も、子どもの影が顔を上げたときの感触を消せなかった。
あれは私を見た。
そう思った。
私は窓を閉め、鍵をかけた。習慣通り、一度目は右へ回し、二度目は左へ戻し、もう一度右へ回す。鍵の金属が擦れる音が、家の中でやけに大きく響いた。
枕元へ戻り、手紙の束を抱えた。
便箋の角が胸元に当たる。紙は薄いのに、沈んだ家の壁を抱えているように重かった。
私は目を閉じた。
土間の景色が浮かぶ。
今度は、前より少しだけはっきりしていた。自分の肩に置かれた手。大人の手だった。指先が冷たい。誰かが背後から私の口を塞いでいる。泣くな、と言われたのかもしれない。あるいは、声を出すな、と。
土間の奥で、水が滴っている。
ぽたり。
ぽたり。
誰かが低い声で言っている。
「井戸を見せてはいけない」
私はその言葉を聞いたことがある。
夢の中ではない。ずっと昔、まだ今の家へ移る前に。雨の夜だった。祖母と母が台所で話していた。私は襖の向こうで、意味も分からず耳を澄ましていた。母が泣いていた。祖母は、何度も同じことを言っていた。
見せてはいけない。
見たことにしてはいけない。
真琴には、何も言うな。
記憶の端が、指で触れた紙のように崩れていく。
私は目を開けた。
部屋は暗い。窓は閉じている。湖は見えない。それでも、どこかで水が流れている音がした。
家の中ではない。
壁の向こうでもない。
もっと遠く、もっと深い場所から聞こえる。
水の底で、誰かが戸を開けた。
私は手紙の束を、胸へ押し当てた。
ここで捨てれば、終わるかもしれない。封筒を破り、便箋を燃やし、祖母にも役場にも何も訊かず、明日の朝はいつも通り書店を開けばいい。そうすれば、手紙のない日常へ戻れる。
けれど、戻るという言葉を考えたとき、胸の奥が痛んだ。
私はもう、何も知らなかった頃の自分には戻れない。
手紙は、私の中にあった空白を見つけてしまった。そこへ冷たい水を注ぎ、忘れていた匂いや音を少しずつ浮かび上がらせている。
怖かった。
怖いからこそ、確かめなければならないと思った。
忘れることは、いつも自分で選んだわけではない。誰かが守るために黙り、誰かが暮らしを守るために記録を整え、その結果として、別の誰かの人生から記憶が抜き取られることがある。
私は、その抜き取られたものの上に立って暮らしている。
そんな考えが、はじめて形を持った。
窓の外で、三度目の音がした。
今度は鐘ではなかった。
金属が、どこか硬いものに触れる音。
ちりん、と一度。
私は立ち上がった。
玄関へ向かう。廊下の床板が、足の下で小さく鳴った。家の中は暗く、台所の灯りだけが背中側に残っている。玄関の郵便受けは、戸の向こうにある。
もう届いているかもしれない。
そんな考えが浮かんだ。
私は扉の前に立ち、しばらく手を伸ばせなかった。郵便受けの中を見るだけだ。見れば、何も入っていないかもしれない。入っていたとしても、朝になってから開けばいい。
そう自分に言い聞かせながら、蓋を持ち上げた。
内側は空だった。
古い金属の匂いがするだけで、封筒はない。
私は息を吐いた。
そのとき、蓋の裏側に、赤茶けた砂が細く付着しているのが見えた。砂は底に溜まっているのではなく、文字の形に並んでいた。
六。
それから、消えかけた一。
下組六番地。
指で触れると、砂は簡単に崩れた。けれど、崩れた砂は床へ落ちず、郵便受けの奥へ吸い込まれていった。
暗がりの奥で、紙が擦れる音がした。
私は蓋を閉めた。
すぐに、もう一度、内側から蓋が持ち上がった。
がたん。
誰かが向こうから押している。
私は動けなかった。
もう一度、がたん、と鳴る。
今度は、紙が差し込まれる音がした。
白い封筒が、郵便受けの奥からゆっくり現れた。誰かの指は見えない。封筒だけが、濡れた床を滑るようにしてこちらへ押し出されてくる。
私はそれを取り出した。
差出人は同じだった。
旧三和集落・下組六番地。
宛名には、私の名前が書かれている。
封筒は乾いていた。けれど、受け取った瞬間、掌の奥へ水が染みた。
私は封筒を捨てなかった。
破りもしなかった。
机の上に置き、明日の朝、店へ行く時間を確かめた。開くのは、それからにする。書店の窓を拭き、棚の角をそろえ、レジ脇の鉛筆削りを二度回す。いつもの手順を終えてから、手紙を読む。
日常の中で読む方が、まだ自分を保てる気がした。
私は灯りを消した。
布団へ戻り、目を閉じる。
眠りに落ちる直前、湖の底から、また水音が聞こえた。
ぽたり。
ぽたり。
その音の間に、誰かが紙を折る音が混じっていた。
私は、次の手紙が届く時間を待つ側へ回っていた。
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