第6話 みどりの配達記録

役場を出たあと、私は書店へ戻らなかった。

鞄の底には、相川さんが見せてくれた複写紙の感触が残っていた。一二八番。下組六番地。篠原家。朱色で塗りつぶされた名前。その下に浮かんでいた、読めない一人分の記録。

湖は、朝からずっと平らだった。町の上空には風がある。役場の旗も、街路樹の葉も揺れている。それなのに、湖面だけが動かない。風が水に触れる前に、どこかへ吸い込まれているようだった。

郵便局へ向かう坂道を上りながら、私は何度も鞄の口を確かめた。二通目の手紙は、まだ開いていない。封筒の角を指で撫でるたび、そこに残った砂が布の内側でかすかに擦れた。

郵便局の裏口は、表の窓口よりずっと狭く、古い庇の影に隠れている。扉を開けると、紙とインク、それから誰かが昼に食べたカップ麺の匂いが混じっていた。奥の休憩室から、缶の底を机に置く音がした。

「真琴さん?」

野田みどりが顔を出した。制服の上着を脱ぎ、白いシャツの袖を肘までまくっている。右手には、いつもの甘い缶コーヒー。まだ開けていないのか、冷たい缶の表面に水滴が浮かんでいた。

「どうしたんですか。役場帰り? まさか、とうとう町長に立候補するとか」

「その軽口、今日は少し無理があるよ」

私が言うと、みどりは笑おうとした。けれど、唇の端だけが動いて、声にならなかった。

「……やっぱり、あれは普通の郵便じゃないです」

彼女は缶コーヒーを机の上へ置き、配達用の手袋を取り出した。白い手袋の指先は、ところどころ黒ずんでいる。みどりはそれを両手にはめ、親指と人差し指で空気を挟むように擦った。

「普通じゃないって、どういう意味?」

「意味は、まだ分かりません。分からないですけど、普通の郵便なら、届いたあとに家の中から水音がすることはないでしょう」

休憩室の窓は閉まっていた。ガラスの向こうには、郵便局の駐車場と、軒下に並んだ自転車が見える。薄い雲が空を覆い、明るいのに、部屋の中は夕方のように暗かった。

みどりは缶コーヒーのプルタブに指をかけた。開けずに、何度も触れている。

「真琴さんに最初の手紙を渡した朝、仕分け棚から出したときは、まだ普通に思えたんです。紙が古いとか、差出人がおかしいとか、そういうのはありましたけど、まあ、誰かのいたずらだろうって。郵便局って、たまに変なものが混ざるんですよ。宛名が猫の名前だったり、住所が『月の裏側』だったり。そういうのは笑って戻せば済むんです」

「今回は済まなかった」

「はい。宛名が正確すぎたから」

みどりはようやく缶を開けた。小さな金属音がした。甘い匂いが、乾いた休憩室に広がる。

「下組六番地からの手紙は、最初の日だけじゃありませんでした。翌朝も、その次の朝も、同じように仕分け棚に入っていた。消印はない。局の機械を通った跡もない。でも、朝の仕分けが始まる前には、必ずそこにあるんです」

「誰かが夜中に入れている可能性は?」

「局の出入り口は施錠されています。防犯カメラにも、変な人影はありません。それに、誰かが入れたなら、手紙は棚の上に置かれるはずなんです。でも、あれは毎回、宛先ごとの束の中に挟まってる。最初から、そこへ配達されるものとして」

みどりは缶コーヒーを一口飲み、少し顔をしかめた。甘すぎたのか、それとも別の味を感じたのか分からない。

「私は一度、局長に言いました。差出人住所が存在しないし、料金も消印もないから、配達不能で戻した方がいいんじゃないかって。でも局長は、住所が合っているなら配達しろって。ほら、郵便物は中身じゃなくて宛先が大事だから、って」

「その言葉、みどりさんが言っていたのと同じだね」

「はい。だから、余計に嫌なんです」

彼女は笑いかけたが、今度は笑えなかった。

「宛先が合っているなら届ける。それだけなら、私の仕事です。でも、あの手紙は、届けたあとに何かを連れてくる。家の中へ入っていくんです。封筒そのものは郵便受けに残っているのに、別の何かだけが、家の奥へ」

私は返事をせず、鞄から二通目の封筒を取り出した。

みどりの視線が、そこへ落ちる。

「開けました?」

「まだ」

「開けないほうがいい、とは言えません」

「言えない?」

「私が言うと、たぶん嘘になるからです。怖いなら捨てればいいって、最初は思ってました。でも、捨てたら終わるものなら、こんなふうに毎朝届かないでしょう」

みどりの指先が、手袋越しに封筒の角へ伸びた。触れる直前で止まり、空中を撫でる。

「それに、真琴さんの手紙には、真琴さんしか知らないことが書かれていた。だったら、読まない方がいいとは言えないです。読んでしまったものを、読まなかったことにはできないから」

「みどりさんは、ほかの家の手紙も見たの?」

「中身までは見てません。配達員が勝手に開けたら、さすがに普通の郵便局員じゃなくなりますから。でも、渡すときの様子は見ました。受け取った人の顔とか、家の音とか」

彼女はポケットから、薄い手帳を取り出した。角が擦り切れ、表紙の紐が少し毛羽立っている。配達地図と一緒に持ち歩いているものらしい。ページをめくると、日付と住所と、短い言葉が細かく書かれていた。

下組二番地。郵便受け、三回。玄関内、足音。

下組五番地。受取人、手紙を見ずに裏返す。奥で水滴。

旧道沿い、表札なし。犬が吠えない。

私はその文字を追いながら、手紙の文面を思い出した。日付、天気、水温、魚影。誰がどこで何をしたか。みどりの手帳も、同じように感情を削り、起きたことだけを残している。

「これ、いつから書いているの」

「最初の手紙を見つけた朝からです」

「仕事の記録?」

「最初はそうでした。配達事故の報告に使えるかもしれないと思って。何時に、どこで、何があったか。そうしておけば、あとで気のせいにされにくいから」

「あとで、誰かに?」

「誰にでもです」

みどりはページを閉じた。

「変なものを見たって言うと、たいてい『疲れてるんじゃない』で終わりますよね。水音を聞いたと言っても、古い家なら鳴るよ、で済まされる。郵便受けが内側から震えたと言っても、風でしょ、で終わる。でも私は、配達先を間違えたくないし、見たものを自分の記憶違いにしたくないんです。だから、書くことにしました。誰かに信じてもらうためじゃなくて、私があとで自分を疑わないために」

「怖くない?」

「怖いです」

みどりは即答した。

「怖いから書くんです。怖くないふりをしていると、見たものまで軽くなる気がするから。私、怖いものを怖いまま持っているのが苦手で、すぐ冗談にしたくなるんですけど、冗談にしてしまうと、誰かの暮らしを馬鹿にしたことになる場合があるでしょう。旧三和のことを、昔話みたいに言う人がいるけど、あそこに家があって、台所があって、毎朝起きる人がいた。それを『昔の村』の一言にしてしまうと、そこにいた人まで遠くなる。手紙は、たぶん、それを嫌がっているんだと思います」

長い話をしている間、みどりは一度も湖の方を見なかった。窓の外を見れば、山の向こうに水面があると分かっているのに、意識して視線を外している。

「別の家のことを教えて」

私が言うと、みどりは手帳を開いた。

「下組五番地の家です。古い農家で、今はおばあさんが一人で暮らしてます。手紙を届けた朝、郵便受けから封筒を抜いた直後に、家の中から床板が軋みました」

「誰かが歩いたの?」

「分かりません。廊下を一人分の重さで歩いたみたいに、ぎし、ぎし、と二回。私は玄関先にいました。おばあさんは、すぐ内側に立っていた。でも、音はおばあさんの足元からではなくて、もっと奥から聞こえたんです」

「水音もしたんだよね」

「はい。床板の音のあとに、ぽたん、ぽたんって。台所の蛇口かなと思って、おばあさんに水が漏れてないか聞きました。そしたら、そんなものはないって言われた。私が見に行きましょうかと言ったら、急に怒られました」

「怒ったの?」

「『見るな』って。すごい顔で。いつもは、飴をくれる人なんです。配達が終わると、あんたも食べなさいって、古い缶から黒飴を出してくれる。でもその日は、玄関から一歩も動かずに、手紙を受け取って、私の手を見た」

「手を?」

「手袋をしていたのに、指先を見てました。水に濡れているかどうか確かめるみたいに。私は何も濡れていなかった。でも、手紙を渡したあとから、指の間がずっと冷たかった」

みどりは自分の手を見た。白い手袋の縫い目が、指の付け根で少し歪んでいる。

「帰ってから手袋を洗いました。洗面所で、何度も。水を流して、石鹸をつけて、干して。なのに翌朝、手袋の内側に砂が一粒入っていた」

私は鞄の底を思った。拾わずに残した砂粒。赤茶けた、乾かない砂。

「その砂は、今も持ってる?」

「捨てました」

みどりは言ったあと、少しだけ目を逸らした。

「捨てたはずでした。でも、次の日から、同じ砂が靴底についてくるんです。配達で湖岸へ行ってない日も。局の床を掃除した人に、靴が泥だらけだって言われました。乾いているのに、靴底だけが湿っていて」

休憩室の奥で、古い冷蔵庫が低く唸った。

みどりは黙った。

その沈黙の中に、冷蔵庫の音とは違うものが混じった。遠くで水が一滴、落ちたように聞こえた。

ぽたり。

私は振り返った。部屋の隅には流し台がある。蛇口は閉じている。床も濡れていない。

みどりは立ち上がらなかった。口元にも触れなかった。ただ、手袋をした手で缶コーヒーを包み、缶のへこみを親指で押していた。

「今の、聞こえた?」

「はい」

「よかった」

それは、安心の言葉には聞こえなかった。

「私だけじゃなかった」

休憩室を出ると、裏口から朝の光が差し込んでいた。郵便局の建物を回り込むと、空気が少し広くなる。けれど、湖へ向かう方角からは、冷たい湿気が流れてきていた。

「パン屋、まだ開いてるかな」

みどりが言った。

「朝の話なのに、もうパン屋?」

「朝だからパン屋なんです。あと、ここで話し続けると、局長に怪しまれるので」

「怪しまれる?」

「私が休憩室で幽霊の話をしていることじゃなくて、休憩時間を長く取ってることを」

軽口に戻ろうとする声が、少しだけいつもの調子を取り戻した。

二人で歩き出す。郵便局の裏道は、表通りより細く、家の軒先が近い。洗濯物の匂い、焼けた魚の匂い、湿った植木鉢の土の匂いが順に流れてくる。町はいつも通り朝を始めていた。向かいの家では、老人が新聞を取りに出ている。小さな女の子が母親に手を引かれ、学校へ向かっている。誰も湖を見ない。見なくても暮らせるように、町の道は作られている。

坂を下ると、パン屋の看板が見えた。

木製の看板は少し傾き、窓ガラスには朝の白い光がへばりついている。店の奥から、焼き立てのパンの匂いが流れてきた。バターと小麦と、焦げた砂糖の匂い。湿った湖の気配を、ほんの短い間だけ押し返してくれる。

みどりは店先の自販機で缶コーヒーをもう一本買った。

「さっき飲んでなかった?」

「さっきのは心を落ち着かせる分です。これは情報を話した後の分」

「そんなに飲んだら眠れなくなるよ」

「眠れない理由は、たぶん別にあります」

みどりは缶を私へ差し出した。

「半分、飲みます?」

「いらない」

「じゃあ、持っていてください。私、両手が冷たいと落ち着くんです」

私は缶を受け取った。冷たさが掌に広がる。手紙ほどではない。けれど、普通の缶の冷たさとも少し違っていた。内側から冷えているような、底へ向かう温度だった。

店の脇に、みどりの自転車が置かれていた。前籠の中には、古い地図が丸めて入っている。彼女はそれを取り出し、パン屋の壁に立てかけた。

「もう一つ、話しておきたいことがあります」

「配達経路?」

「はい」

地図を広げる。紙の端は何度も折り直され、白く擦れていた。現在の道路と、古い道が重なっている。赤いペンでいくつかの家が囲まれ、湖岸の一角だけが何度も塗り重ねられていた。

「ここです」

みどりが指したのは、旧三和集落へ続いていた旧道の途中だった。

「地図では、ここで道が二つに分かれています。右へ行くと地蔵堂、左へ行くと下組の家並み。昔の配達地図にも、そう書いてある。でも今、実際に走ると分かれ道がないんです」

「道が一本しかない?」

「はい。まっすぐな道が続いていて、曲がる場所そのものがない。最初は地図が古いせいだと思いました。ダム工事のあとに道が付け替えられたのかもしれないって」

「それなら、地図を直せばいい」

「そうですよね。だから私は、新しい地図に道を書き足そうとしました」

みどりはポケットから、折り畳んだ紙を出した。赤い線で、何度も道が引かれている。けれど、そのどの線も途中で消えていた。

「書いても、次の日には消えてるんです。鉛筆でもボールペンでも。紙が破れたわけじゃない。線だけがなくなって、そこには最初から何もなかったみたいになる」

「みどりさんは、何度行ったの」

「四回です」

「四回も?」

「配達ですから」

彼女はまた、仕事という言葉に逃げ込もうとした。

「一回目は、道に迷っただけだと思いました。二回目は、地図の読み間違い。三回目に、同じ塀と同じ古い表札の前へ戻されて、さすがにおかしいと思った。四回目は、戻る前に、曲がり角の向こうを見ました」

「何があったの」

みどりは缶コーヒーの蓋を指でなぞった。

「家がありました」

「地図にない家?」

「地図には、家があるはずなんです。でも、その家の表札は読めなかった。古い木の板に、何か書いてあったけど、濡れてにじんでいて。郵便受けが、玄関の横にあった。手紙を入れようとしたら、中から誰かが蓋を押さえたんです」

パン屋から、トレイを重ねる音が聞こえた。

「誰か、いたの?」

「分かりません。指は見えなかった。でも、蓋の向こうに重みがあった。押し返すと、向こうも押し返してきた。しばらく、郵便受けを挟んで引っ張り合ってたんです」

「手紙を入れたの?」

「入れられませんでした。手紙が、向こうへ引かれたから」

「それは、普通の郵便?」

「普通じゃないです」

みどりの声が低くなった。

「引かれたのは、私が持っていた手紙じゃありません。鞄の中の、真琴さん宛ての手紙でした。まだ取り出してもいないのに、封筒が鞄の中で動いたんです。底へ滑るみたいに。私は怖くなって、鞄を抱えて走りました。そしたら、気づいたときには、同じ塀の前に戻っていた」

「その手紙は?」

「配達しました。真琴さんの家に」

私は、鞄の中の封筒へ手を当てた。

紙は乾いている。

それなのに、指の腹の奥で、誰かが反対側から触れているような気がした。

「どうして、私に話すの」

訊くと、みどりはしばらく黙った。パン屋の窓に、二人の姿が映っている。私の肩のあたりは白く、みどりの影は細く黒い。けれど、足元の影だけが、湖の方へ長く伸びていた。

「真琴さんなら、変なことを変なまま聞いてくれるからです」

「それは、褒めてる?」

「たぶん。普通の人は、変なことを聞くとすぐ理由を探すでしょう。風、古い建物、疲れ、見間違い。真琴さんも理由を探すけど、その前に、変だったことを消さない」

「消したくないだけ」

「私もです」

みどりは地図を畳み始めた。折り目を合わせる指が、手紙の差出人と同じように几帳面だった。角を揃え、余分な空気を押し出し、何度も折り目を撫でる。

「私は配達員だから、届けることしかできません。どこから来たかも、誰が書いたかも、分からない。でも、届いたものを勝手に捨てることはできない。手紙が怖いからって、届かなかったことにはできないんです」

「それは、誰かを救うため?」

「分かりません」

みどりは地図を胸に抱えた。

「救えるなら、救いたいです。でも、届かないままにすることの方が、もっと怖い。誰かが待っているのに、こちらの都合で配達を終わらせるのは、たぶん、手紙を殺すことだから」

その言い方が、妙に差出人の文面に似ていた。

人が消えても、暮らしは消えたことにしない。

手紙にはそう書かれていない。けれど、毎日の天気や水温や、誰がどこで泣いたかを記録し続けることは、そこに暮らしがあったと証明することに近かった。

「みどりさんは、私にどうしてほしいの」

「どうもしなくていいです」

「でも、ここまで話した」

「聞いてほしかっただけかもしれません」

みどりは苦笑した。

「私が見たものを、誰か一人くらいには、見たものとして置いておきたかった。信じなくてもいいです。怖がってもいい。だけど、最初からなかったことにしないでほしい」

「私も、そう思ってる」

口にした瞬間、胸の奥にあった硬いものが、ほんの少しだけほどけた。

手紙が怖い。祖母の沈黙も、役場の欠番も、湖の底にあるはずのない道も怖い。それでも、怖いからといって、見なかったことにしたくない。私の記憶から消されたものを、今度は自分の手で消すことだけはしたくなかった。

みどりは私を見た。目の下に薄い疲れがある。軽口で隠しているだけで、眠れていないのだろう。

「真琴さん」

「なに」

「次に手紙が来たら、内容を教えてください」

「みどりさんは読まないのに?」

「読まなくても、届いたことは知りたいです。配達したものが、そのあとどうなったかくらいは」

「怖くないの」

「怖いです」

彼女は缶コーヒーを飲み干した。

「でも、見なかったことにはしたくないんだよね」

軽い声だった。いつものみどりの調子に戻っている。けれど、その言葉のあと、彼女は笑わなかった。

パン屋の扉が開き、焼き立てのパンの匂いが強く流れてきた。店員が店先の看板を直している。傾いた看板を、何度も押し上げているのに、手を離すと同じ角度へ戻ってしまう。

みどりはそれを見て、鼻歌を歌いかけた。けれど、途中でやめた。

私は鞄の中の封筒を取り出した。みどりに渡すつもりはなかった。ただ、手紙の角を確かめたかった。

封筒は、昨日より冷たかった。

みどりの表情から、軽さが消えた。

「今日の朝の分?」

「うん」

「まだ開けてないんですよね」

「ここで開けようかと思ってる」

「パン屋の前で?」

「明るいから」

「明るい場所なら大丈夫、ってわけじゃないですよ」

「分かってる」

私は封筒の表面を撫でた。宛名の文字は、古い帳面を写したように正確だった。篠原真琴。番地まで、一画も揺れていない。

裏返す。

旧三和集落・下組六番地。

その文字の下に、見覚えのない水滴が一つ付いていた。丸い跡なのに、紙は濡れていない。指で触れると、赤茶けた砂がひと粒だけ落ちた。

みどりが息を止める。

私は砂を拾わなかった。

遠くの湖から、かすかな金属音が聞こえた。鈴にも、郵便受けの蓋が震える音にも似ていた。

みどりは反射的に一歩、湖と反対の方へ退いた。けれど、逃げ出しはしなかった。私の手元を見たまま、両手を強く握っている。

「開ける?」

「……真琴さんが決めてください」

「みどりさんは、いつもそうやって、最後は受け取る側に返すんだね」

「配達員ですから。届けたあとのことは、受け取った人が決めることです」

彼女の言葉は、最初の朝に聞いたものと同じだった。

けれど今は、その意味が少し違って聞こえた。責任を放り出しているのではない。決める権利を、相手から奪わないために、手を離しているのだ。

私は封筒を鞄へ戻した。

「今日は、まだ開けない」

「はい」

「でも、捨てない」

「それなら、十分です」

みどりはようやく笑った。笑顔というより、張りつめていた糸が少し緩んだ顔だった。

私たちはパン屋の前で別れた。みどりは自転車にまたがり、配達鞄を背負い直す。ペダルを踏み出す前に、一度だけ振り返った。

「真琴さん」

「なに?」

「次に旧道へ行くなら、一人で行かないでください」

「みどりさんも来てくれるの」

彼女は答えず、片足で地面を蹴った。

「配達のついでなら」

そう言って走り出した自転車の後ろ姿は、朝の光の中ですぐに小さくなった。

私はその場に残り、パン屋の窓へ映る自分を見た。顔色が悪い。けれど、目だけは妙に醒めていた。

湖は見えない。建物の向こうに隠れている。

それでも、底から届いたものが、町のどこを通って私の手に渡ったのか、少しだけ分かった気がした。郵便局の棚。古い家の郵便受け。地図にない曲がり角。誰かの手袋の内側に残る砂。

届くということは、ただ場所を移ることではない。

受け取った人の中に、置かれることだった。

私は封筒の角を指で撫でた。冷たさは、もう手紙の外側だけにあるのではなかった。指先から掌へ、掌から胸の奥へ、ゆっくりと沈んでいる。

パン屋の奥で、焼き立てのパンが棚へ並べられていく音がした。町は朝の仕事を始めていた。

私は書店へ戻るため、湖とは反対の坂道を歩き出した。

けれど、歩けば歩くほど、背中の方から水音が近づいてくる気がした。振り返るたび、そこには乾いた道路と、傾いた看板と、遠ざかるみどりの自転車しかない。

それでも、音だけは消えなかった。

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