第5話 地蔵堂跡の供え物

役場を出ると、朝の光はもう高くなっていたのに、空気はまだ目覚めきっていないような薄さを残していた。
私は鞄の中の封筒を意識しながら、護岸道路を歩き始めた。湖岸に沿って続くその道は、町のどの通りよりも静かだ。車の音も、犬の声も、ここまでは届かない。右手には湖、左手には山の斜面。両方から挟まれるようにして、道だけが細く伸びている。
湖面は平らだった。
いや、平らという言葉では足りない気がする。風は吹いているのに、水面だけがそれを拒んでいるような、不自然な静けさだった。木々の葉が揺れ、私の前髪が乱れるほどの風が通り過ぎても、湖の表面には皺ひとつ立たない。まるで大きな一枚のガラスが、山々の影をそのまま閉じ込めているようだった。
旧三和集落の跡へ近づくにつれ、道の様子が変わっていく。
ガードレールの白い塗装は剥げ落ち、下から浮き出た赤茶けた錆が、まるで血管のように走っている。石垣に絡みついた草は、朝露を含んで重たげに垂れ下がり、触れれば指先まで湿りが移りそうだった。土の匂いが濃くなる。雨上がりでもないのに、どこかで常に何かが濡れているような、そんな匂いだった。
私はこの道を、何度も歩いたことがある気がした。
けれど、それは子供の頃の記憶ではない。この町に戻ってきてから、休みの日にひとりで歩いた記憶だ。目的もなく、ただ湖を見るために。あるいは、見たくないものから目を逸らすために。どちらだったのか、今となっては分からない。
地蔵堂跡は、水位が下がる季節にだけ姿を現す。
今はちょうどその時期だった。石の階段が途中から土に埋もれ、その先に、かつての堂の基礎だけが残っている。屋根も柱も、ダムの底に沈んだときに流されたのか、朽ちたのか、今はもうない。ただ、苔むした四角い台座と、その上に据えられた小さな石の地蔵が、長い年月、ひとりでそこに立ち続けていた。
その地蔵の足元に、供え物があった。
昨日までは、何もなかったはずだ。私はこの場所を、三日前にも一度通りかかっている。そのときは、台座の上には枯れ葉が積もっているだけだった。
小さな白い皿に、塩が盛られていた。湿気を含んで固まりかけているが、濡れてはいない。その横に、折り畳まれた紙片が一枚、皿の縁に挟むようにして置かれている。
手が勝手に伸びた。
紙片を取り上げる前から、分かっていた。これは、私が受け取っている手紙と同じ折り方だ。四つ折りの角が、寸分の狂いもなく重なっている。毎朝、同じ手つきで、同じ時間に、同じ力加減で畳まれた紙だけが持つ、あの几帳面さ。
紙の端は湿っていない。
なのに、指で触れた瞬間、冷たさが皮膚の内側へ沈み込んでくる。まるで、紙そのものが小さな石のように、底の冷たさを抱えたまま運ばれてきたようだった。
私は紙片をそっと開いた。
何も書かれていない。
――はずだった。
裏返して光にかざすと、紙の繊維の奥に、鉛筆で何かを書こうとした圧痕だけが残っているのが見えた。文字にはなっていない。線がいくつか交差し、途中で止まり、またやり直したような跡が重なっている。誰かがここで、言葉を選びながら、結局何も書けないまま筆を止めた。そんな痕跡だった。
その線の中に、一文字だけ、かろうじて形を保っているものがあった。
「澄」。
息が止まった。
役場で見た、塗りつぶされた名前の最後の一画を思い出す。濃い朱色の下から浮き上がっていた、あの長く伸びた線。一二八番、篠原家。消された名前。あれと同じ形に見えた。見えた、というだけで、確信はない。けれど、確信がないからこそ、余計に胸の底に重く残った。
誰が、ここに塩を供えたのだろう。

誰が、この紙に「澄」の一字を書きかけて、やめたのだろう。
私はそれ以上考えることができないまま、紙片を折り直し、ブックカバーの内側に挟んだ。最初に届いた手紙の砂粒と同じ場所に。
地蔵堂跡を離れ、取水塔へ向かう。
湖の水位が下がったこの季節、取水塔の足元には、普段は水に沈んでいるはずの地面が露出していた。濡れた砂が薄く積もり、朝の光を鈍く照り返している。歩くたび、靴底が砂を押しのける音がやけに大きく響いた。
足を止めたのは、砂の上に何かが見えたからだった。
雨の跡ではない。もっと規則的で、もっと迷いのない線だった。誰かが指先で、丁寧に、何度も同じ圧で引いたような曲線。読もうとすると、それが文字の連なりであることが分かってくる。
午前、静か。
水温、低い。
鈴の音、なし。
日付の書き出しも、天気の挨拶もない。ただ、起きたことだけが、起きた順番に並べられている。あの便箋の文章と、まったく同じ呼吸だった。
私はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
振り返れば、私の影が砂の上に長く伸びている。朝の陽射しの角度にしては、不自然なほど長い。影の先端は、取水塔の黒い鉄骨の影と重なり、そのまま湖の方へ、見えないところまで続いているように見えた。
まるで、私自身の一部が、まだ底に繋がったままであるかのように。
――お前は、土間の隅で泣かなかった。
手紙の一文が、耳の奥で蘇る。土間の暗さ、冷たい足裏、濡れた藁の匂い。そして、誰かの手が私の肩に置かれていた感触。あの誰かは、今も、この水の底で、同じ手つきで紙を畳んでいるのだろうか。
鈴の音、なし。
そう書かれているのに、どこかで微かに、金属が触れ合うような音がした気がした。空耳かもしれない。けれど、空耳だと決めつけるには、音の輪郭がはっきりしすぎていた。
帰る途中、護岸の階段で一度だけ振り返った。
取水塔の鉄骨は、朝の青い空を背にして黒く沈んでいる。そこだけが、周囲の穏やかな風景から切り離されたように浮いて見えた。何かがこちらを見ている。そんな気配が、目で確かめるよりも先に、背中の皮膚を通して伝わってきた。
振り返っても、そこには何もない。
鉄骨と、水と、動かない空気があるだけだ。
それでも私は、早足にならずにはいられなかった。護岸道路を町の方へ戻りながら、何度も自分に言い聞かせた。気のせいだ、ただの古い施設だ、鳥か、風か、それとも日差しのいたずらだ、と。
けれど、どれだけ理由をこしらえても、背中の緊張はほどけなかった。
書店の裏口にたどり着いて、ようやく息を吐く。鍵を取り出そうとして、足元に目を落とすと、靴底に赤茶けた砂がこびりついたままだった。乾いているのに、拭っても完全には落ちない湿り気を含んだ砂が。
私はその砂を払わないまま、鍵を回した。
何かを連れて帰ってきてしまった、という感覚だけが、いつまでも指先に残っていた。
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