第4話 役場の紙束

翌朝、私は開店前の書店で窓を拭き終えると、封筒を鞄の底へ入れた。

昨夜、郵便受けに届いた二通目の手紙は、まだ開いていない。机の上に置いたまま、何度か手を伸ばしかけ、そのたびに引っ込めた。封筒の表には、昨日と同じ筆跡で私の名前が書かれている。紙は乾いていたが、持つと指の奥が冷えた。封筒の角を撫でると、赤茶けた砂が一粒、鞄の内張りに落ちた。

拾おうとして、やめた。

砂は黒い布の上で、濡れていないのに小さく光っていた。

私は鞄の口を閉じ、店の鍵をかけた。シャッターを下ろす前に、湖の方を見た。朝の三和ダムは空の色をそのまま受けて、鏡のように静まっている。湖面に浮かぶものは何もない。鳥の影も、流木も、風が残す細い皺もなかった。

静かな水は、底に何かを隠しているときほど、平らになる。

そんな考えが、どこからともなく浮かんだ。

役場までは歩いて十分ほどだった。通りにはまだ開いていない食堂や理髪店が並び、軒先の鉢植えには夜露が残っている。坂道を下るにつれて、湖の匂いが濃くなった。水の匂いというより、長く閉じた瓶の蓋を開けたときに立ち上がる、冷えた土と金属の混じった匂いだった。

役場の玄関を入ると、床を磨いた洗剤の匂いがした。外の湿気を押し返すように、暖房が低く唸っている。窓口の奥で、相川修二が書類の束を整えていた。

相川さんは、私を見るとすぐに立ち上がった。三十代半ばの、いつも襟元まできちんとしたシャツを着ている人だ。机の上に置かれた紙の角は、すべて揃っている。ボールペンも、印鑑ケースも、電話の受話器さえ、決められた場所から一寸も動いていないように見えた。

「おはようございます、篠原真琴さん」

「おはようございます。少し、伺いたいことがあって」

「旧三和集落の記録でしょうか」

言われて、足が止まった。

私はまだ何も見せていなかった。鞄の中の封筒を意識して、肩に力が入る。

相川さんは、私の顔ではなく、鞄の口を見ていた。すぐに視線を戻したが、見たことは分かった。

「どうして分かったんですか」

「昨日、郵便局の野田さんが来ました。配達物について、照会がありまして。正式な問い合わせではありませんが、差出人の住所が現行の地番と一致しない場合、確認だけはします」

「では、これが何か知っているんですか」

私は封筒を出し、窓口の上に置いた。

相川さんは触れなかった。表書きと裏書きを順に見てから、机の引き出しを開けた。中から薄い白手袋を取り出し、指にはめる。手袋をするほどのものなのかと思ったが、訊かなかった。

「知っている、という言い方は正確ではありません」

「正確でなくていいので、何を知っているのか教えてください」

自分の声が思ったより静かだった。怒っているようには聞こえなかったが、相川さんは一度だけ目を伏せた。

「旧三和集落は、三和ダムの建設に伴って移転しました。地番はその時点で廃止されています。下組六番地という表記が現在の郵便物に使われる理由はありません」

「理由がないのに、届いているんです」

「そうですね」

「しかも、私の幼い頃のことを知っている」

相川さんは封筒の角を、白手袋の指先でそっと押さえた。触れた瞬間、手袋の布がわずかに沈む。まるで紙の内側に水が溜まっているようだった。

「中身を拝見しても?」

私はうなずいた。

便箋を取り出すと、相川さんはまず折り目を見た。文字ではなく、折り方を見ていた。四つ折りの紙を開き、折り線に沿って指を滑らせる。そこから日付、水温、湖面の状態を読み、最後に「お前は、土間の隅で泣かなかった」という一文へ目を移した。

そのときだけ、相川さんの眉間に細い皺が寄った。

「これを、誰かに見せましたか」

「祖母に」

「篠原タエさんに?」

「はい」

「何とおっしゃっていましたか」

「知らなくていいことがある、と」

相川さんは便箋を机の中央へ戻した。紙の端が少しだけずれていたので、すぐに直す。その仕草が妙に苛立たしく見えた。

「それは、篠原さんらしい返答です」

「祖母を知っているんですか」

「役場に勤めていれば、旧集落の方を何人か知ることになります。移転の記録を扱っていますから」

「私の家族のことも?」

「記録にある範囲では」

「では、記録にない範囲は?」

問いかけると、相川さんは返事をしなかった。

窓口の横を、年配の男性が通り過ぎた。観光案内所でもらったらしいパンフレットを手にしている。表紙には、湖面から突き出た取水塔と、青空を映すダムの写真が載っていた。男性は受付の女性に、「昔の村が見える時期はいつかね」と訊ねている。女性は笑いながら、水位が下がれば旧道の一部が見えることがあると答えていた。

その会話が、薄い壁を隔てた向こうから聞こえてくる。

昔の村。

見える時期。

観光案内の言葉は、どれも乾いていた。そこに暮らしていた人の食事や喧嘩や、夜中に泣いた子どもの声は含まれていない。水面に現れるものだけが、過去として許されているようだった。

「旧移転台帳を見せてください」

私が言うと、相川さんはすぐに断らなかった。

「閲覧には申請が必要です」

「申請します」

「個人情報が含まれます」

「私の家の記録です」

「篠原さんご本人の記録だけとは限りません」

「私の家に、誰がいたのかを知りたいんです」

声を荒らげたつもりはなかった。それでも最後の言葉だけ、窓口のガラスに跳ね返った気がした。

相川さんは、しばらく私を見ていた。いつもなら視線を逸らす人なのに、そのときは逸らさなかった。ただ、その目の奥にあるものを、私は読み取れなかった。疲れ、警戒、そして、ほんの少しの諦め。

「篠原さん」

「はい」

「記録は、起きたことをそのまま残しているとは限りません」

「役場の人が、そんなことを言っていいんですか」

「言ってはいけないでしょうね」

彼はそう言ってから、机の端に置いてあった朱色のボールペンを、罫線と平行になるように置き直した。

「ですが、記録に残す人間もまた、生活の中にいます。急いでいたり、命令されていたり、誰かを守ろうとしていたりする。そういう事情は、書類の欄には入りません」

「では、書類は嘘をつくんですか」

「嘘をつくのは人です。書類は、人がついた嘘を、正しい形で保存してしまう」

その言葉のあと、役場の暖房が一度、大きく唸った。窓の外では、湖面が光を返している。明るいのに、冷たかった。

相川さんは席を立ち、奥の書庫へ向かった。戻ってきたときには、灰色のファイルを抱えていた。表紙には「旧三和地区移転関係」と、黒い活字で印刷されている。角は擦れていたが、背表紙は何度も補修されていた。

ファイルを開く前に、彼は四隅を揃えた。

「閲覧できるのは、この写しだけです。原本は保存庫にあります」

「写しなら、書き換えられているかもしれませんね」

相川さんの指が止まった。

「その可能性を考えたことはありますか」

「考えないようにしていました」

正直な答えだった。

「でも、考えないことと、知らないことは違います」

彼は何も言わず、台帳の写しを開いた。

世帯番号が並んでいる。旧字体の混じった人名、住所、移転先、移転完了日。数字の列は整いすぎていて、目で追っていると眠気に似たものが広がった。けれど、途中で番号がひとつ飛んでいることに気づいた。

一二七の次が、一二九になっている。

「一二八がありません」

「はい」

「欠番ですか」

「そう見えます」

「何の世帯だったんですか」

「記載がありません」

「記載がないから、分からない?」

「分からないのではなく、確認できない、と言うべきです」

「同じことではありませんか」

「違います。分からないという言葉は、存在しなかった可能性まで含んでしまう」

相川さんは、欠けた番号の前後を指で押さえた。隣の一二七番には、旧三和集落・下組五番地。一二九番には、下組七番地とある。

その間に、下組六番地がある。

胸の奥で、何かがかすかに鳴った。

「ここが」

私は指で番号の空白をなぞった。

「手紙の住所です」

「はい」

「では、この欠番は、下組六番地の世帯ですか」

相川さんはすぐに答えなかった。

「地番の順番だけなら、そう考えるのが自然です」

「世帯名は?」

「書かれていません」

「なぜですか」

「転記の際に、抜けたのかもしれません」

「一二八番だけ?」

「そういうこともあります」

「名前だけが消えて、番号だけが残ることも?」

台帳の紙が、私の指先でかすかに震えた。紙は乾いていた。なのに、冷たい水へ指を入れたときのように、感覚が薄くなっていく。

相川さんは私の手元を見た。

「そこから先は、私の判断でお答えできません」

「判断ではなく、見たことを教えてください」

「見たこと?」

「相川さんは、この欠番を一度は見つけたんでしょう。だから、こんなふうにページの端を押さえている」

言うと、彼は自分の指を見た。

確かに、欠番の欄を隠すように押さえていた。無意識だったのだろう。相川さんは手を引き、代わりにファイルの端を整えた。

「役場の人間は、記録を扱うときに感想を持ってはいけないんです」

「感想を訊いているんじゃありません」

「では、何を?」

「そこに誰がいたのかを」

相川さんは目を伏せた。白手袋を外し、指先を机の下で握るようにしてから、ゆっくり息を吐いた。

「篠原さん。名前を知れば、戻れなくなることがあります」

「もう戻れません」

自分で言ってから、その言葉の重さに驚いた。

「手紙を受け取った朝から、私はもう、何も知らなかった頃の自分には戻れないんです。祖母が黙ったことも、母が水を出して話を終わらせたことも、全部、ただの家族の癖だと思っていました。でも違う。私が覚えていないことを、みんなが覚えている。私だけが、そこから外されている」

相川さんは黙っていた。

「私は、誰かを責めたいわけじゃありません。ただ、私の中にある空白が、誰かの都合で作られたものなら、知らないまま生きることを善意とは呼べないと思うんです。守られたのかもしれない。けれど守られた結果、私は自分の記憶を自分のものとして持てなくなった。そんな守り方を、いつまでもありがたいと思っていなければならないんですか」

声は震えなかった。そのことが、かえって怖かった。

相川さんはしばらく台帳を見つめていた。やがて、ファイルの後ろに挟まっていた一枚の薄い紙を抜き出した。公式の様式ではない。横罫の入った複写紙で、端が黄ばんでいる。

「これは、閲覧対象ではありません」

「では、見せないでください」

「ですが、私がここでしまってしまえば、また同じことになります」

彼は紙を机の上へ置いた。

そこには、移転前の世帯名簿を写したらしい文字が並んでいた。達筆ではない。急いで書き写したような、細く硬い字だった。

一二八番。

その横に、名前がひとつだけ残っている。

篠原家。

私は息を吸った。

自分の家の名前が、現在の台帳とは別の場所にある。家族の人数欄には、四と書かれていた。けれど現在の戸籍上、私の家族は三人だった。祖母、父、母。私を含めれば四人になるはずなのに、ここでは別の数え方がされているようだった。

名前の欄は、途中から濃い朱色で塗りつぶされている。

完全に消したのではない。薄く重ねたため、下の文字の一部が浮いていた。

最初の文字は、篠原の「篠」に見えた。

その下に、もう一人分の名前があった。

読めない。

けれど、最後の一画だけが妙に長く伸びている。私はその筆跡を見たことがある気がした。手紙の文字とは違う。もっと幼く、丸みを帯びた字だった。

「この紙は、どこから?」

「保存庫の整理中に、綴じられていない状態で見つけました」

「いつですか」

「私がここへ来て二年目の冬です」

「そのとき、誰かに報告を?」

「しました」

「どうなりました」

相川さんは、紙を私の方へ押し出しかけて、途中で止めた。

「古い控えの誤記だと言われました。正本にないものは、記録として扱えない、と」

「相川さんは納得したんですか」

「納得する必要がなかったんです。役場の仕事は、納得できるかどうかで書類を残すものではありませんから」

「でも、納得していない」

「納得していないから、まだ持っています」

それは告白というより、紙の置き場所を確認するような言い方だった。

私は塗りつぶされた名前を見つめた。目を凝らすと、朱色の下に、細い線が浮かんでくる。二文字目は「澄」に似ていた。あるいは、ただの汚れかもしれない。

そのとき、役場のどこかで水滴が落ちた。

ぽたり。

音は一度だけだった。

書庫の方を見る。窓は閉まっている。天井にも染みはない。けれど、台帳の紙の上に、小さな丸い跡ができていた。

私は指で触れた。

濡れてはいなかった。

それでも、指先の皮膚だけが冷えた。

相川さんは跡を見て、顔色を変えた。すぐに別の紙を重ね、私の視線から隠す。

「今日は、ここまでにしてください」

「この水滴は何ですか」

「結露でしょう」

「窓は閉まっています」

「役場は古い建物ですから」

「相川さん」

「篠原さん」

初めて、彼の声に硬さが混じった。

「あなたが知りたいことを、私は止められません。ただ、知る順番は選んでください。記録は、見つけた順に並んでいるわけではないんです。後から触れたものが、先にあったものの形を変えることもあります」

「それは、記憶のことですか」

「記憶だけではありません」

彼は台帳を閉じた。紙と紙が重なる音が、乾いた部屋に長く残った。

「人は、失ったものを取り戻すとき、失った理由まで一緒に取り戻せるとは限りません」

相川さんは複写紙を茶封筒に戻した。封をする前に、私の名前を書こうとして、やめた。その代わり、封筒の角を二度、指で揃えた。

「必要なら、また来てください」

「この紙を見せてくれたことは、記録に残りますか」

彼は顔を上げた。

「残しません」

「なぜ」

「残せば、誰かが消します。消されるくらいなら、今は私が持っていた方がいい」

「それは、守っているんですか。それとも隠しているんですか」

相川さんは答えなかった。

役場を出ると、朝の光はすでに高くなっていた。湖面はまだ平らで、青い空をそのまま返している。風が吹いているのに、水だけが動いていない。

私は歩きながら、台帳にあった数字を何度も反芻した。

一二七。一二八。一二九。

その間に、下組六番地がある。

鞄の中の封筒を指で確かめる。冷たさは消えていなかった。封筒の中には、まだ開いていない手紙が一通ある。その紙の向こうで、誰かが今日の天気や水温を記録している。

そして、私の家から呼ばれなかった名前を、毎朝、忘れずに書いている。

役場の角を曲がると、湖の方からかすかな音が聞こえた。

鈴のようにも、郵便受けの蓋が震える音のようにも聞こえた。

振り返ったが、役場の窓はすべて閉まっていた。水面には何も浮かんでいない。

私は鞄の底に落ちた砂粒を、拾わずにそのままにした。

乾いた紙の中に、まだ水の底が残っていた。

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