第3話 祖母の湯呑み

祖母のタエの家へ向かう道は、新三和町の中でもいちばん古い通りを抜けていく。

舗装はされているが、両側の家々は昔ながらの瓦屋根が多く、夕暮れ時になると屋根の稜線だけが黒々と空に切り取られる。店を閉めたあと、鞄の中の封筒を確かめながら、私はその道をゆっくり歩いた。封筒はまだ鞄の内側に重さを残している。紙一枚のはずなのに、持ち運ぶたびに、底の方へ引かれるような気配がある。

タエの家の門をくぐると、庭先の柿の木がまだ青い実をつけたまま、夕風に小さく揺れていた。祖母は移転のとき、新しい分譲地ではなく、わざわざこの古い通りの端に家を建て直した。「筋の通った場所でなければ、家は家にならない」というのが、彼女の口癖だった。筋が何を指すのか、私は長いあいだ訊ねることができずにいた。

玄関の引き戸を開けると、味噌汁の匂いがまだ土間にこもっていた。夕食の支度を終えたあとの、くたびれた湯気の匂い。それに混じって、乾かした布巾の湿った残り香が漂っている。祖母の家の匂いは、いつも同じだった。何十年も同じ洗剤を使い、同じ場所に布巾を干し続けているからだろう。けれど、その匂いを嗅ぐたび、私は自分でも説明のつかない懐かしさに包まれる。懐かしいのに、思い出せるものが何もない。そのちぐはぐさが、いつも胸の奥で小さく軋んだ。

「ばあちゃん」

声をかけると、台所の方から「上がんな」とだけ返ってきた。味気ない返事だが、それが祖母なりの迎え方だということを、私はもう二十数年かけて覚えている。

台所に入ると、タエは梅干しの樽を前にしゃがみ込んでいた。古い陶器の樽の縁に手をかけ、赤く染まった梅の実を一つずつ、竹ざるへ移している。指先は年齢のわりに力強く、迷いがない。何十年も繰り返してきた作業特有の、無駄のない動きだった。

「手伝おうか」

「いい。あんたは座ってな」

にべもない返事に、私は卓袱台の前に腰を下ろした。卓の上には使い込まれた急須と、揃いの湯呑みが二つ、伏せて置かれている。祖母はいつも、誰か来る前から二つ用意している。たとえ来客の予定がなくても。それが癖なのか、誰かを待ち続けている名残なのか、私には分からなかった。

鞄から封筒を取り出す。

「これ、また来たの」

言いながら、私はそれを卓の上に置いた。

タエの手が止まった。

梅の実を摘んだ指先が、宙で止まったまま動かない。彼女はゆっくりと顔を上げ、封筒を見た。視線は表書きの私の名前を一度なぞり、それから裏の差出人の欄へ移る。

旧三和集落・下組六番地。

その文字を読んだ瞬間、祖母の喉がかすかに動いた。何かを飲み込むような、小さな動き。彼女は梅干しの樽から手を離し、布巾で指を拭った。一枚一枚、丁寧に、まるで時間を稼ぐように。

そして、立ち上がって、台の上にあった湯呑みを手に取った。

かちり、と硬い音がした。

いつもより、少し強い音だった。湯呑みの底が、木の台に当たる音。ただそれだけのことなのに、その瞬間、部屋の中の空気が変わったのを、私ははっきりと感じた。味噌汁の匂いも、布巾の匂いも、急にどこか遠くへ退いていくような感覚だった。代わりに、鼻の奥にかすかな土の匂いが差し込んでくる。湿った、赤茶けた土の匂い。

タエは封筒を手に取り、裏返した。

筆跡を見ている。

彼女の目が細くなる。老眼のせいではない。何かを確かめるような、記憶の奥にある何かと照らし合わせるような目だった。唇がかすかに動いた。何か言葉を発しようとして、喉の途中で止まったような、不完全な動き。

私は黙って待った。

急かせば、祖母は言葉をすべて飲み込んでしまう。長年の付き合いで、それだけは分かっていた。相手が言い切れない言葉を、こちらが先回りして埋めてしまうと、会話はそこで終わる。沈黙の形のまま、何も進まなくなる。だから私は、ただ祖母の指の動きだけを見つめていた。

タエは封筒を卓の上に戻した。

そして湯呑みを両手で包むように持ち直し、まだ注がれてもいない空の茶碗の底を、じっと見つめた。何もないはずのそこに、何かが映っているかのように。

障子の向こうでは、夕闇が濃くなっていくのが分かった。縁側のガラス越しに見える庭の柿の木が、輪郭だけを残して影に沈んでいく。タエは立ち上がり、障子に手をかけた。

がらり、と音を立てて、障子が半分だけ閉まる。

外の暗さが、部屋の中に流れ込むのを堰き止めるように。

「ばあちゃん」

私は声をかけた。

「これ、知ってる筆跡なの」

タエは答えなかった。

代わりに、台所の方へ戻り、鉄瓶を火にかけた。しばらくして湯気が立ちはじめると、急須に新しい茶葉を入れ、丁寧に湯を注いだ。その一連の動作は、いつもと変わらないはずなのに、今日はどこか儀式めいて見えた。まるで、何かをやり過ごすために、手を動かし続けているような。

湯呑みに注がれた茶を、タエは卓の上の私の前に置いた。

湯気が立ち上る。

けれどその湯気さえ、どこか冷えて見えた。白く揺れる湯気の向こうに、祖母の顔が霞む。深く刻まれた皺、落ち窪んだ目元、固く結ばれた口元。長年、何かを黙ってきた人間の顔だった。

「これ、知ってるの」

もう一度、今度ははっきりと訊いた。

タエは湯呑みを持ったまま、ゆっくりと私の方を見た。その目には、怒りでも、驚きでもない、もっと複雑な色が浮かんでいた。痛みに近いものだったと、あとになって思う。古い傷口に、不意に指が触れたときのような。

「……真琴」

ようやく、祖母が口を開いた。低く、掠れた声だった。

「お前は、知らなくていいことがある」

「でも」

「知らなくていいことが、ある」

同じ言葉を、祖母はもう一度繰り返した。今度は、自分に言い聞かせるような響きだった。それ以上は何も続かなかった。タエは湯�ぃみを置き、梅干しの樽の方へ戻っていく。背を向けたまま、「もう遅い。泊まっていくか」とだけ訊いてきた。いつもの、話を切り上げるときの言い方だった。

私は「帰る」と答えた。

タエは振り返らなかった。

玄関を出るとき、土間の暗がりに、使い込まれた草履が二足、きちんと揃えて置かれているのが目に入った。一足は祖母のもの。もう一足は、ずいぶん小さい。子供用の、古い草履だった。私のものにしては小さすぎる。けれど、見覚えがあるような気がして、しばらくそこから目を離せなかった。

「それ、誰の」

訊こうとしたとき、タエの声が台所から飛んできた。

「戸締まり、ちゃんとしてから帰りな」

それだけだった。

草履について、もう一度訊ねる機会は失われた。私は引き戸を閉め、暗くなった通りへ出た。

夜の空気は湿っていた。柿の木の葉が、風もないのにかすかに揺れている。振り返ると、タエの家の窓にだけ、灯りがついたままだった。障子越しの光が、庭の暗がりに四角く切り取られている。その光の中に、祖母の影が一瞬動いたように見えたが、気のせいかもしれなかった。

帰り道、私は何度も、あの瞬間の祖母の顔を思い返した。

差出人の名を見たときの、あの一拍の沈黙。

湯呑みを台に置いた、あの硬い音。

障子を閉める、あの手つき。

どれも、説明されないままだった。けれど、説明されなかったことそのものが、何かを語っていた。祖母は、あの差出人の正体を知っている。少なくとも、知らないふりをすることにさえ、失敗するほどには。

護岸道路に出ると、湖が見えた。

夜の湖面は、街灯の光をわずかに受けて、黒々と凪いでいた。風のない夜だった。水面はどこまでも静かで、その静けさが、かえって不穏だった。何かが、その下でじっと息を潜めているような。

私は鞄の中の封筒に、もう一度手を触れた。

乾いている。けれど、指先の奥には、あの冷たさがまだ残っていた。帰ったら、この手紙をどうするべきか、まだ決められずにいた。捨てることも、しまい込むこともできる。けれど、祖母のあの顔を見てしまった以上、もう知らなかったことにはできない気がした。

土間の隅の小さな草履が、頭の中から離れなかった。

誰のものかも分からないまま、それは確かに、かつてそこにあった誰かの足の形をしていた。

← 横にスクロールして読み進められます