第2話 みどりの配達経路

店を閉める支度をしていると、ガラス戸の向こうに自転車が止まる音がした。振り返るまでもなく、誰だか分かった。一日のうち、あの独特な、急ブレーキと溜め息が混ざったような音を立てるのはみどりだけだ。

「真琴さん、今日もう上がりですか」

戸を開けて顔を出した彼女は、配達鞄を斜めにかけたままだった。もう夕方の便は終わっているはずなのに、まだ肩から外していない。それが気になったが、口には出さなかった。

「ちょうど今、シャッター下ろすところ」

「じゃあ、ちょっとだけ付き合ってもらえません? あそこの自販機で奢りますから」

みどりが指さしたのは、町外れの小さなパン屋だった。もう焼き上がりの時間は過ぎていて、ガラスケースの中にはクロワッサンが数個残っているだけだ。店先の自販機の明かりだけが、薄闇の中でやけに白く浮かんでいる。

缶コーヒーのボタンを押すと、取り出し口から落ちてくる音が、普段より大きく響いた気がした。みどりは二本とも自分で受け取り、一本を私に差し出す。

「甘いやつでいいですよね。真琴さん、ブラックとか似合わなさそうだし」

「失礼ね」

「褒めてるんですよ。甘いものが似合う人って、貴重です」

そう言いながら、みどりは自分の分の缶を両手で包むように持った。プルタブを開ける音がして、湯気の出ない冷たい湯気のようなものが、夜の空気に溶けていく。

しばらくは他愛のない話だった。局の上司が新しい自転車を導入したがらないこと、隣町のパン屋が先に季節限定のあんバターを出したこと。みどりの声は軽く、笑いを含んでいた。けれど、話題が尽きた瞬間の沈黙が、いつもより長かった。

「そういえば」

みどりが唐突に切り出す。

「郵便受けの蓋が、勝手に震えることってあります?」

「震える?」

「下から突き上げられてるみたいに、カタカタって。風のせいかなと思ったんですけど、その日、無風だったんですよね。しかも、鳴ったのはずっと真琴さんの家の方からで」

缶コーヒーを口に運びかけた手が止まった。みどりは私の反応を見て、慌てたように笑う。

「あ、変な話してすみません。気にしないでください。局員あるあるですよ、古い家回ってると、たまにギシギシ鳴るところあるし」

「それだけじゃないでしょう」

静かに言うと、みどりは一瞬だけ息を詰めた。缶を持ったまま、視線を地面に落とす。靴先が、アスファルトの表面をこする。小さな音が、二人の間に落ちた。

「……封筒を郵便受けから抜いた直後に、家の奥から水音がしたことがあって」

ようやく、声が低くなって出てきた。

「誰かが台所で蛇口を開けっ放しにしてるみたいな音です。でも、その家、一人暮らしのおばあさんなんですよ。玄関先まで出てきて受け取ってくれたのに、その間、ずっと奥で水の音が続いてて。おばあさんは何も気にしてない様子で、私だけが変な顔してたと思います」

「その家、うちみたいに古い家?」

「はい。旧家の名残があるところだけです。新しく建てた家には、そういうこと、一度もありません。配達先、全部で三十軒くらい回ってますけど、おかしいのは決まって同じ顔ぶれ」

みどりは缶を両手で包み直し、冷たさを確かめるように指を動かした。手袋はもう外していて、指先が夜気にさらされている。

「同じ宛先の家だけだったの」

ようやく、彼女はそれだけを言った。

「ほかの家は何もないのに、そこだけ郵便受けが鳴る。家の中の方から、戸板を爪でなぞるみたいな音もした」

爪でなぞる、という言葉が、耳の奥に残った。土間の記憶が、また胸の底で疼く。誰かが戸の向こうで何かを引っかいている。あの夢の中の感触と、どこかで繋がっている気がした。

私は、聞き返す代わりに、昼間封を切った手紙の話をした。四つ折りの折り目が寸分違わず重なっていたこと、封筒の底に残っていた赤茶けた砂の粒のこと。説明すればするほど、自分の声が他人のもののように聞こえた。

みどりは聞きながら、少しだけ安堵したような顔になった。怖がっているのが自分だけではないと分かったからだろうか。それとも、誰かに話せたこと自体が、彼女にとって小さな救いだったのかもしれない。

「それ、聞いて少し安心しました」

「安心?」

「私だけがおかしいのかと思ってたので」

みどりはポケットから小さな手帳を取り出した。表紙の角が擦り切れ、紐で留める形式の古い配達地図だ。開いたページには、町の通りが細かく書き込まれ、ところどころに赤いペンで丸がついている。消えかけた線が、何本も重なって見えた。

「これ、誰にも見せたことないんですけど」

言いながら、彼女は地図の一点を指でなぞった。護岸道路から少し外れた場所、旧三和集落の跡に近いあたりだった。

「ここ、地図では曲がり角があることになってるんです。でも、何度行っても、曲がり角がない。まっすぐ行くと、同じ塀と同じ表札の前に戻ってくる」

「道に迷っただけじゃなくて?」

「最初はそう思いました。でも三回も四回も同じことが起きたら、さすがに迷ったとは言えないです。配達の仕事、長くやってると、体が勝手に道を覚えるんですよ。それが、覚えているはずの場所で裏切られる感じ」

みどりは地図を閉じ、もう一度ポケットにしまった。缶コーヒーはすでに空になっていたが、彼女はそれを捨てずに両手で握り続けている。

「地図にない道がある」

それだけを、彼女は言った。説明ではなかった。説明できないから、事実だけを置いていくという言い方だった。差出人の手紙の文面と、似たものを感じた。感情を言わず、起きたことだけを並べる。あの几帳面な筆致と、みどりの短い報告は、どこかで同じ場所に根を張っているように思えた。

「みどりさんは、それでも配達続けるの」

訊くと、彼女は少し困ったように笑った。

「仕事ですから。それに」

言葉を切り、空き缶を軽く振る。中で何かが転がる音がした。

「見なかったことにしたら、たぶん私、次にもっと変なものを見ても、見なかったことにし続けると思うんです。それは、なんか嫌です」

自転車にまたがり、鞄を掛け直しながら、みどりは一度だけ振り返った。街灯の光が、彼女の横顔の半分だけを照らしている。

「怖いけど、見なかったことにはしたくないんだよね」

声は明るく聞こえた。いつもの軽口と同じ調子で。けれど、背を向けて漕ぎ出した自転車の、その背中だけが、やけに硬く強張っていた。

私は空になった缶を両手に持ったまま、しばらくその場に立っていた。護岸道路の向こうに湖面が見える。風のない夜なのに、水面はかすかに揺れていた。誰かが底から、こちらを見上げているような気がした。

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