第1話 湿っていない封筒

新三和町の書店は、開店前だけ別の町みたいに静かだった。
通りに面したガラス戸を拭くと、向こう側の景色が少しずつ明るくなる。山の斜面に沿って並ぶ家々、役場の白い壁、その向こうに三和ダムの湖面。朝の湖は、空を映しているというより、空の薄皮を貼りつけているように見えた。風がない。鳥も鳴かない。水面のどこにも、朝が始まった印がなかった。
私は雑巾を絞り、もう一度ガラス戸の下端を拭いた。水滴が筋になって残っている。拭き取ったはずなのに、筋の一部だけが青黒く滲んでいた。雑巾の匂いを嗅ぐと、洗剤の奥に、古い土のような臭いが混じっている。
気のせいだと思い、雑巾を流し台へ戻した。
棚の角を指でそろえる。文庫本の背表紙が一冊だけ前へ出ていたので押し込み、児童書の棚に落ちた紙片を拾う。レジ脇の鉛筆削りが目に入った。幼い頃から使っている小さな金属製のものだ。側面の塗装が剥げ、底に細かな傷がいくつもついている。
私はそれを、意味もなく二度回した。
そのとき、店の外で自転車のブレーキが鳴った。
「おはようございます。朝から働き者ですねえ。私なんか、まだ半分寝てます」
野田みどりが、郵便局の配達鞄を肩にかけたまま立っていた。二十四歳の彼女は、いつもなら店に入るなり、近所の誰それが朝から夫婦喧嘩をしていたとか、駅前の猫がまた自転車の籠で寝ていたとか、町の小さな話をひとつ置いていく。
けれど、その朝は笑い方が少し遅れた。
みどりは鞄の留め具に手をかけ、閉じたままの指先を見た。郵便配達用の薄い手袋をしている。その指が、何かを確かめるように親指と人差し指を擦っていた。
「おはよう。今日は早いね」
「真琴さんに届け物があって。あ、別に借金の督促とかじゃないですからね。私、そういう怖いのは配達したくないんで」
軽口を言いながら、みどりは鞄の中から一通の封筒を取り出した。
白い封筒だった。新しい紙ではない。少し黄ばんでいるが、汚れてはいない。表には私の名前と住所が書かれていた。
篠原真琴。
番地まで、間違いなく。
裏返すと、差出人の欄には、ただこう記されていた。
旧三和集落・下組六番地。
その地名を見た瞬間、胸の奥で何かが小さく沈んだ。
旧三和集落。三和ダムの建設で水底に消えた村。町の観光案内所には、ダムができる前の古い写真が飾られている。茅葺き屋根の家、川沿いの道、夏祭りの提灯。写真の下には「湖底に眠る、かつての暮らし」と書かれていた。
私はその村で生まれたことになっている。
けれど、何を見て育ったのかは、ほとんど覚えていなかった。
「これ、普通の郵便?」
封筒を受け取りながら訊いた。
「普通かどうかは、私にも分かりません」
「配達員がそれを言っていいの」
「だって、局の仕分け棚に最初から入ってたんです。消印もないし、料金別納の印もないし、差出人の住所は湖の底だし。配達しない理由なら、いくらでもあったんですよ」
「それでも届けたのね」
「宛名が合ってたから」
みどりはあっさり言った。
「私、宛先を間違えるのが一番嫌いなんです。名前が合っていて、番地も合っているなら、届けるしかないでしょう。中身が手紙なのか、請求書なのか、誰かの悪ふざけなのかは、受け取る人が決めることです」
彼女の声は明るかったが、最後の言葉だけ少し硬かった。
封筒を手のひらに載せる。
乾いている。
表面はさらさらしていて、紙の毛羽立ちもほとんどない。なのに、指先の奥へ冷えた湿り気が落ちた。水に触れたわけではないのに、爪の生え際から手首へ、じわじわと冷たさが上がってくる。
私は封筒を持ち替えた。
「冷たい」
「ですよね」
みどりはすぐに答えた。
「私も最初、冷蔵庫の横にでも置いてあったのかと思いました。でも仕分け棚は暖房の近くです。ほかの郵便は普通にぬるいくらいだったのに、これだけ、魚を入れた発泡スチロールみたいな冷たさで」
「魚?」
「すみません、たとえが悪かった。今のなしで」
みどりは笑おうとしたが、口元に手をやった。手袋の指先が唇に触れる。
「それに、重さも少し変なんです。紙一枚のはずなのに、持つと底へ引かれる感じがするというか。ほら、真琴さん、落とさないでくださいね。水たまりに落としたら、たぶん濡れると思うので」
「濡れると思うって、濡れていないのに?」
「そういうところを聞かれると困るんです」
みどりはそこで黙った。
店の外を、始発のバスが通り過ぎた。濡れた道路をタイヤが擦る音が、店内の奥まで細く入り込んできた。みどりは一度だけ湖の方を見た。ガラス越しの水面は、朝の光を抱えたまま動いていない。
「ねえ、みどりさん」
「はい」
「この差出人、知ってる?」
「知ってるというか……」
彼女は封筒の角を親指で撫でた。配達前にいつもやる癖なのだろう。角を揃えるように、何度も。
「昔の地番ですよね。私、配達地図を見る仕事だから、古い地名も一応覚えてます。下組六番地は、今の地図にはありません。ダムができる前の地図なら載っていますけど」
「どこにあったの」
「湖のいちばん深いところではないです。旧道を下って、地蔵堂を越えたあたり。今の取水塔から見ると、たぶん……」
みどりは口を閉じた。
「たぶん?」
「すみません。朝から変な話をして。今日はパン屋に寄るので、真琴さんもあとで来ます? 新しいあんバターが出てるんですよ。甘いものを食べると、だいたいの嫌なことは一回忘れられます」
「忘れられないこともあるよ」
私がそう言うと、みどりは笑わなかった。
「そうですね」
短い返事のあと、彼女は配達鞄を持ち直した。
「でも、忘れられないなら、せめて自分で覚えておきたいです。誰かに勝手に忘れたことにされるのは、嫌だから」
その言葉の意味を訊く前に、みどりは店を出た。自転車にまたがり、ペダルを踏む。角を曲がる前に一度だけ振り返ったが、何かを言うことはなかった。

私は封筒をレジの引き出しにしまった。
いつもなら、届いた郵便物はすぐに開く。請求書でも、出版社からの案内でも、後回しにすると気持ちが悪い。けれど、その封筒だけは開けられなかった。
開ければ、何かがこちらへ入ってくる気がした。
店を開ける時間になり、シャッターを上げた。通りに人の声が戻り、近くの食堂から味噌汁の匂いが流れてくる。常連の老人が新聞を買い、学校帰りの子どもが漫画の新刊を立ち読みし、店の中には紙と埃と暖房の乾いた匂いが満ちていった。
日常は、きちんと始まった。
それなのに、レジの引き出しの中にある封筒だけが、始まる前の場所に残っていた。
昼近く、客足が途切れた。
私は引き出しを開け、封筒を取り出した。紙は相変わらず乾いている。けれど、持った指の腹が冷えた。封筒の表面に鼻を近づけると、紙の匂いに混じって、赤土のような臭いがした。
封を切る。
中には便箋が一枚、きっちり四つ折りにされて入っていた。折り目は三度とも同じ幅で、折り返した角がぴたりと重なっている。私は本を扱う仕事をしているから、紙の折り方には目が利く。これは手慣れた人の折り方だった。毎日、同じことを繰り返している人の手つき。
便箋の一行目には、日付が書かれていた。
令和六年六月十二日。晴れ。水温十三度。
続けて、こうあった。
午前五時四十分、湖面は平ら。濁りなし。岸から三十六メートルの位置に、銀色の魚影が四つ。西側の屋根の上に水草が溜まっている。昨夜、下組五番地の戸が二度鳴った。住人は出なかった。
文章は記録そのものだった。
感想も、挨拶もない。誰かを慰めるための言葉もない。ただ、その場所で起きたことが、起きた順番に並べられている。
私は便箋を持ったまま、窓の外を見た。
湖面は平らだった。
旧三和集落の家々が、あの底にある。屋根も、道も、井戸も、村の人たちが使っていた茶碗や鍋も。そう考えると、景色の見え方が変わる。水面はただの水ではなく、巨大な蓋のように思えた。
便箋の最後には、別の筆圧で一行だけ書かれていた。
お前は、土間の隅で泣かなかった。
息が止まった。
土間。
暗い場所だった。足元が冷たかった。濡れた藁の匂いがした。誰かの声が、戸の向こうから聞こえていた。
そこまで思い浮かんだところで、記憶は急に途切れた。
私は椅子から立ち上がり、背後の棚に手をついた。古い文庫本の背が肩に触れる。指に力を込めると、紙の表面がざらついた。呼吸を整えようとしたが、肺の奥まで土の匂いが入り込んでくる。
土間の隅で泣かなかった。
誰が、そんなことを知っているのだろう。
私は幼い頃、旧集落で何かを見たのかもしれない。けれど、家族に訊いても、祖母はいつも「小さい頃のことなんて、覚えていなくていい」と言った。父は「昔の村はもうない」とだけ答えた。母は、その話になると流し台の水を出した。水音で会話を終わらせるように。
私は記憶がないことを、ずっと自分の性質だと思っていた。忘れっぽいのだと。あるいは、思い出すほど大切なことがなかったのだと。
そう考えていれば、誰も責めずに済んだ。
けれど便箋の一行は、私の中にある空白を、空白のままでは置いてくれなかった。
便箋を裏返す。
何も書かれていない。
封筒の底には、赤茶けた砂粒が三つ残っていた。私はそれを指先に集めた。一粒目は細かく、二粒目は小さな石のように硬い。三粒目を爪で押すと、かすかに崩れた。
乾ききらない土の匂いがした。
その匂いを嗅いだ瞬間、記憶の奥で誰かが言った。
――真琴は、井戸に近づくな。
声は祖母に似ていた。
けれど、祖母の声ではなかった。
私は砂粒を捨てられず、古い革のブックカバーの内側に挟んだ。便箋は折り目を合わせ、封筒に戻す。何度も、何度も折り目を確かめた。開いたときより、閉じたときのほうが不安だった。手紙はもう読み終えたはずなのに、文面が紙の上から消えず、頭の内側に残っている。
夕方、店を閉める頃には、湖の上に薄い霧が出ていた。
シャッターを下ろし、鍵を二度回す。いつもの習慣だった。帰り道、私は何度も振り返った。書店の看板も、街灯も、役場の時計も、いつも通りそこにある。誰かが立っているわけではない。
それでも、背後から紙を折る音がした気がした。
家に戻ると、玄関の郵便受けを確認した。何も入っていない。鍵をかけ、窓を見て、もう一度鍵を確かめる。寝る前にはいつもすることなのに、その夜は確認のたびに、家の外へ音が増えていくようだった。
台所で湯を沸かし、ほうじ茶を淹れた。
湯気の向こうに、幼い頃の土間が浮かんだ。
暗い。冷たい。誰かが私の肩に手を置いている。泣いていない。泣けない。足元の向こうに、丸い黒い穴がある。穴の底から、水が滴る音がしている。
私は湯呑みを置いた。
そのとき、玄関の郵便受けが鳴った。
金属の蓋が、内側から一度だけ持ち上がったような音だった。
立ち上がることができなかった。
しばらくして、もう一度鳴った。
今度は、紙が差し込まれる音がした。
私は玄関まで歩き、扉を開けた。
外には誰もいない。夜の空気は冷たく、湖の方から湿った匂いが流れている。郵便受けを覗くと、白い封筒が一通、入っていた。
差出人は同じだった。
旧三和集落・下組六番地。
宛名には、私の名前が書かれている。
私は封筒を取り出し、すぐには開かなかった。指先に伝わる冷たさを確かめる。乾いている。濡れていない。なのに、手のひらの奥へ水が染みてくる。
封筒を捨てることはできた。
燃やすことも、破ることもできた。
けれど私は、便箋の折り目を思い出していた。四つ折りの紙を、誰かが毎朝、同じ場所で、同じ手つきで畳んでいる。そこには水があり、土があり、誰かの暮らしがある。忘れられたのではなく、忘れられたことにされている暮らしが。
私は封筒を机の上に置いた。
翌朝、店へ行く時間を確認する。
そして、次の手紙が届く時間を待つために、灯りを消した。
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