第9話 凪の声、あるいは急がない地面

翌日の図書室は静かだった。

昼休みを過ぎたばかりだというのに、窓際の席には放課後のような薄い光が落ちている。校庭では体育の授業が続いているらしく、遠くで笛が鳴り、誰かの掛け声が風に押されて届いた。図書室の中では、ページをめくる音と、古い時計の針が進む音だけが残っている。

悠真は、進路資料の棚の前で立ち止まった。

大学案内、専門学校のパンフレット、就職情報の冊子。背表紙には、それぞれ違う色と文字が並んでいた。どれも未来へ続く道を示しているように見えるのに、悠真の目には、どの道にも自分の足跡がない。

手を伸ばしては、引っ込める。

紙を開けば何かが決まってしまう気がした。決まるというより、決めていない自分が、紙の上で露出する気がした。

窓際の席に、朝霧凪がいた。

彼女は進路資料のファイルを机の上に置き、風でめくれたページの角を指先で押さえている。強く押さえているわけではない。紙が飛ばない程度の力だけを、必要な場所に置いている。その手つきが、悠真には妙に印象に残った。

凪の隣には、薄い色の缶飲料があった。まだ開けていないらしく、缶の表面には細かな水滴がついている。彼女はそれを急いで飲もうとせず、机の端にきちんと置いていた。

悠真は、通り過ぎるつもりだった。

けれど、足は止まった。

「進路の紙、もう見たか」

声をかけてから、自分でも軽すぎると思った。

凪は顔を上げすぎず、視線だけを紙面から悠真の肩のあたりへ動かした。

「見たよ」

「さすが。俺なんか、見た瞬間に目を逸らした」

「見たから逸らしたんじゃない?」

「それ、見たうちに入る?」

「入ると思う」

凪はそう言って、めくれたページの角を押さえ直した。図書室の窓が風を受け、かすかに鳴る。彼女は音のほうを見なかった。

「早く決めることと、自分で引き受けることは、たぶん別だよ」

声は小さかった。

それなのに、その一文だけが、周囲の音を押しのけて悠真の耳へ届いた。

いつものように笑おうとした。口角を上げかける。だが、笑いは形になる前に喉の奥で止まった。

「……それ、どういう意味?」

凪はすぐには答えなかった。

机の上に散っていた付箋を、色ごとに揃えていく。黄色、青、白。角をきっちり合わせ、ファイルの内側へ戻す。急かされている人間が見れば、そんなことをしている場合ではないと思うかもしれない。けれど凪は、急がないことそのものを、ひとつの姿勢として持っているように見えた。

「決めるのが早い人は、よく褒められるから」

「覚悟があるとか、ちゃんとしてるとか?」

「うん。でも、早く決めたことと、自分で選んだことは、同じじゃない場合がある」

「凪は、推薦でほとんど決まってるんだろ」

「そうだね」

「じゃあ、早く決めた側じゃん」

「そう。でも、決めたあとも迷ったよ」

凪は缶飲料へ手を伸ばした。プルタブを開ける音が、静かな室内で小さく響く。ひと口飲んでから、彼女は缶を机へ戻した。

「推薦の話をもらったとき、最初に考えたのは、受かるかどうかじゃなかった」

「何を考えたの?」

「あとで、自分で選んだと言えるかどうか」

悠真は、棚の背表紙へ視線を移した。

「言えなかったら?」

「そのときは、早く決めたことが、ただ流されただけになる。親が勧めたから。先生が向いていると言ったから。周りもそこを受けるから。理由はいくらでもあるけど、その中に自分がいなかったら、たぶん、決めたあとで苦しくなる」

「でも、理由って、全部自分だけで作るものじゃないだろ」

「うん」

「家の金とか、成績とか、通える距離とか。そういうのを考えたら、自分の気持ちだけで決められない」

「そうだね」

「じゃあ、自分で選ぶって、どういうことなんだよ」

凪は、少しだけ窓の外を見た。

校庭の白線が風に揺れる草の向こうに見えた。走っている生徒たちの姿は小さく、誰が何を考えているのかまでは分からない。ただ、一人が遅れ、別の一人が振り返り、先に行きかけた足を少し緩めたことだけが、悠真には見えた。

「全部を自分の思い通りにすることではないと思う」

凪は窓の外を見たまま言った。

「家の事情も、成績も、期限も、なくならない。誰かの意見を聞かないで選ぶことが、自分で選ぶことでもない。でも、誰かの事情を考えた結果だとしても、その選択を自分の言葉で説明できるかどうかは、別に考えていいと思う」

「説明できなかったら?」

「まだ途中なんじゃないかな」

その言葉に、悠真の指が制服のポケットの中で動いた。シャープペンの軸を探り、指先で何度も回す。

「途中って、便利だな」

「便利?」

「何を決めてなくても、まだ途中って言えば許される感じがする」

「許される必要があるの?」

「あるだろ。学校は未定でも出せって言うけど、未定って書いた紙を見たら、考えてない人間みたいに扱われる」

凪は黙って聞いていた。

「遥人も、そういうのを嫌がってる。数字とか欄だけで見られるのが嫌だって。進学か就職か、どっちが現実的かで決められるのは仕方ない。でも、それだけで決められたら、自分が空っぽになるって」

「高瀬くんが、そう言ったの?」

「全部じゃない。たぶん、俺がそう聞いた」

「じゃあ、まだ高瀬くんの言葉ではない部分もあるんだね」

悠真は凪を見た。

「それ、細かいな」

「細かくないよ。誰かの言葉を、自分が分かった形に直してしまうと、その人がまだ言えていないものまで、勝手に終わらせることがあるから」

図書室の時計が、短く時を告げた。

悠真は、昨日の屋上を思い出した。遥人の声が硬くなるたび、自分はその奥にあるものを分かったつもりで拾おうとしていた。家族に決められるのが怖い。置いていかれるのが怖い。どれも間違いではない。けれど、それを一つの答えにまとめてしまえば、遥人が次に言葉を出す場所を奪うことになる。

「凪は、迷ってる人がいたら、待てるんだな」

悠真が言うと、凪は缶の表面についた水滴を指でなぞった。

「待てるというより、待つしかないことがあると思ってる」

「それでも、先に決めた人間は先に進めるじゃん。待ってる間に、置いていくこともできる」

「できるね」

「怖くないの?」

凪は少しだけ間を置いた。

「怖いよ」

その答えが意外で、悠真は顔を上げた。

「凪も?」

「私が決めたからって、相手も同じ速度で決められるわけじゃない。私が先へ行くことで、誰かが置いていかれたように感じることもある。そういう可能性を考えたら、怖くないわけじゃないよ」

「じゃあ、どうするの」

「置いていかないと約束することはできない」

凪は視線を机の端へ落とした。

「人は、それぞれ別の場所へ行くから。でも、置いていくかもしれないと思うことと、置いていかないようにすることは、両立できると思う。相手の答えを急かさないこと。自分の答えを、相手より上に置かないこと。簡単ではないけど」

「簡単じゃないどころか、面倒だろ」

「そうだね」

「それでもやるの?」

「面倒だから、やらない理由にはならないから」

短い言葉だった。

けれど、凪はそれを言い終えると、ファイルの折れた角を丁寧に整えた。力を入れすぎず、紙の形を完全に戻そうともせず、ただこれ以上傷まないように押さえている。

悠真は、その手つきを見ていた。

「中学のとき、友達が進路を急いで決めたって話、前に聞いたことある」

「誰から?」

「いや、さっきの話」

「ああ」

「その子のこと、今も気にしてる?」

凪はすぐに答えなかった。

窓の外で、風が校庭の砂を少しだけ巻き上げた。細かな砂が地面を走り、白線の上で途切れる。

「気にしてると思う」

「会ってないのに?」

「会ってないから、かもしれない。あのとき、私は何も言わなかった。言えなかった。早く決めたほうがいいのか、待ったほうがいいのか、自分でも分からなかったから」

凪の声は落ち着いていたが、いつもよりわずかに低かった。

「だから、今でも、あの子に何か言えるならと思う。あの選択が間違いだったと決めつけることもできないし、あの子が弱かったと考えることもできない。ただ、苦しくなったときに、苦しいと言える場所があればよかった。決めたあとでも、変えられないわけじゃないと知っていればよかった」

悠真は、遥人の進路届を思い出した。

握りつぶされても、捨てられてはいなかった。皺が残ったままでも、まだ手の中にあった。

「変えてもいいのかな」

悠真の口から、考えるより先に言葉が出た。

凪は顔を上げた。目が合いそうになり、すぐに少し外れる。

「何を?」

「進路。いったん未定って出して、あとで変えるとか」

「制度のことなら、先生に聞いたほうがいいと思う」

「そういう意味じゃなくて」

「分かってる」

凪は、机の上のファイルを閉じた。

「変えてもいいと思う。変えないほうがいい場合もあると思う。でも、変えたことを失敗と呼ばなくていい。最初の選択が嘘だったということでもない。選んだあとで見えるものが変わったなら、選び直すことも、そのときの自分が引き受けることだから」

悠真は、返事をしなかった。

胸の奥に固まっていたものが、少しだけ場所を変えた。消えたわけではない。相変わらず、遥人が先へ行くことは怖い。家の食卓へ戻ることも、空欄の進路届を見ることも怖い。

ただ、怖いまま考えてもいいのだと、わずかに思えた。

「俺、未定って書くのが恥ずかしいんだと思う」

悠真は言った。

「何になりたいか分からないからじゃなくて、分からないままの自分を見られるのが嫌なんだ。周りはもう決めてるように見えるし、凪も決めてる。遥人だって、就職か進学かで悩んでるけど、俺よりずっと現実を見てる。俺だけ、笑って逃げてるみたいで」

「笑って逃げることも、逃げ続けなければ、悪いことではないよ」

「でも、逃げ続けたら?」

「そのときは、自分で気づく必要がある」

「厳しいな」

「相沢くんが、自分に甘すぎるだけかもしれない」

「俺、甘い?」

「自分のことを笑って済ませるのは、甘やかしているようで、けっこう厳しいから」

悠真は眉を寄せた。

「どっちだよ」

「自分の怖さを見ないで済む代わりに、誰にも助けを求められない。そういう意味では、厳しい」

その言葉は、昨日の佐伯先生の問いと似ていた。何を怖がっているかを書いてみろ。答えを与えず、逃げ道も塞がず、ただ自分の足元を見せる問い。

悠真は、机の上に置かれた凪のファイルへ視線を落とした。

「凪は、もう決めてるのに、どうしてそんなに急がせないんだよ」

凪は少し考えてから、缶飲料を両手で包んだ。

「決めたことが、偉いと思っていないから」

「でも、決めないと始まらないだろ」

「始まるものもある。でも、決めた人が、決めていない人より前にいるとは限らないよ」

「前にいると思われる」

「そう見えるだけかもしれない」

「それでも、置いていかれる側はそう思う」

「うん」

凪は否定しなかった。

「だから、置いていかれると思っている人に、そんなことないと言うのは簡単だけど、たぶん足りない。変わることはあるし、離れることもある。大事なのは、変わる可能性を消して安心させることじゃなくて、変わっても相手の言葉を覚えていることだと思う」

悠真の指が、ポケットの中で止まった。

遥人が言った声が、耳の奥によみがえる。

言ったら、引き留められると思った。

大丈夫とか、まだ時間があるとか、俺たちは変わらないとか。悠真なら、きっとそう言っていた。けれど、それを言わなかった。言えなかったというより、言わないことを選んだ。

今なら、その理由が少し分かる。

関係が変わらないと約束するより、変わるかもしれない関係の中で、相手の言葉を忘れないほうが誠実なこともある。

「……俺、遥人に大丈夫って言わないほうがいいのかな」

悠真は聞いた。

凪は窓の外へ視線を向けたまま、すぐには答えなかった。

「言ってはいけないわけじゃないよ」

「でも、言われたら腹が立つって」

「高瀬くんが?」

「うん」

「なら、今は言わないほうがいいかもしれないね」

「冷たいな」

「そう?」

「普通、友達なら大丈夫って言うだろ」

「大丈夫じゃない人に大丈夫と言うのは、友達らしい場合もある。でも、大丈夫じゃないと言っている人の言葉を聞かずに大丈夫と言うなら、それは自分が安心したいだけかもしれない」

悠真は、図書室の入口を振り返った。

誰もいない。廊下の向こうから、足音が一つ近づき、また遠ざかっていく。校舎の外では、風が強くなっていた。窓ガラスが細かく震え、机の上の付箋の端がわずかに浮く。

「俺、何を言えばいいんだろう」

「言わなくてもいいと思う」

「またそれか」

「でも、隣にいることはできるでしょう」

凪はそう言って、進路資料を鞄へしまった。

「話したい人は、相手が何か正しいことを言ってくれるから話すとは限らない。言っても逃げない人だと思うから、話すことがある」

悠真は凪を見た。

凪の横顔には、決めた人間の余裕というより、決めたあとも迷う人間の静けさがあった。彼女は自分の進路を持っている。けれど、それを誰かの答えとして差し出そうとはしない。

その距離感が、悠真にはありがたかった。

「凪は、明日もここにいる?」

「図書室に?」

「いや、俺がまた何か分からなくなったとき」

言ってから、急に恥ずかしくなった。頼ることに慣れていないのは、遥人だけではなかった。

凪は缶を鞄へしまい、ファスナーを閉じた。

「たぶん」

「便利な言葉だな」

「責任を逃れるために使ってるわけじゃないよ」

「分かってる」

「なら、使ってもいいでしょう」

「うん」

悠真は、少しだけ笑った。

今度の笑いは、逃げるためのものではなかった。分からないままでも、相手の言葉を受け取ったという印のようなものだった。

図書室を出る前、凪は机の端に置いたクリップを拾った。窓から入る風で、閉じたはずのファイルが少し開いている。凪は何度も押さえつけるのではなく、ファイルを一度開き、紙の位置を整えてから閉じた。

「相沢くん」

「ん?」

「未定と書くなら、未定のまま出してもいいと思う。ただ、未定という文字だけを置くと、周りが勝手に意味をつけるから」

「じゃあ、どうすればいい?」

「相談したい、と書く」

悠真は、凪の言葉を頭の中で繰り返した。

未定。

相談したい。

どちらも決定ではない。けれど、後者には、自分がそこにいる。何も考えていないのではなく、考えるために誰かの前へ紙を出す。その違いは小さく見えて、悠真には大きかった。

「それ、進路届に書いていいのかな」

「佐伯先生なら、たぶん読んでくれる」

「凪、先生のこともたぶんで済ませるんだな」

「佐伯先生も、分からないことを分かったふりはしないから」

凪は椅子を戻した。

図書室の窓の外で、風が校庭を横切っていく。砂が舞い、白線を一瞬だけ隠し、すぐに散った。地面は何もなかったように見えたが、悠真には、その下に細かなざらつきが残っているのが分かる気がした。

急がない地面。

すぐに答えを返さず、足を置いた重さだけを受け止める地面。

悠真は、進路資料の棚へ戻った。

さっきまで触れられなかった冊子を一冊、手に取る。表紙には、通学圏内の専門学校と大学の情報が並んでいた。何かを決めるためではない。ただ、どんな道があるのかを見るために。

紙を開く。

そこに書かれた数字や学校名が、すぐに自分の未来へ変わるわけではない。それでも、目を逸らさずに見ることはできた。

凪は先に図書室を出た。扉の前で一度だけ振り返ったが、何も言わなかった。悠真も、呼び止めなかった。

沈黙は、別れの合図ではなかった。

机の上に残った進路資料の角を、悠真は指で押さえた。風にめくれないよう、必要な分だけ力を込める。

屋上では、今ごろ遥人がまた紙を折っているかもしれない。あるいは、折らずに持っているかもしれない。どちらなのか、悠真には分からなかった。

けれど、分からないままでも、明日、進路指導室へ行くことはできる。

「大丈夫」と言わずに、隣に立つこともできる。

悠真は冊子のページをめくった。

窓の外で、夕方の風が校庭を走る。図書室の窓ガラスが、かすかに鳴った。その音は、屋上のフェンスが立てる金属音とは違っていた。閉じた場所の中で、それでも外の空気が存在していることを知らせる音だった。

進路届の空欄は、まだ埋まっていない。

それでも、その空白を恥じて隠すのではなく、誰かに見せて相談するという道がある。

悠真は、ページの端を折らなかった。

折れた紙を持ったままでも、人は少しずつ歩ける。急がない地面を探しながら、隣に立つ相手の歩幅を確かめながら。

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