第8話 怖さの名を書きつける

放課後の進路指導室は、屋上とは逆の場所にあった。
屋上では風が物を運び、言葉の端までどこかへさらっていく。けれど、この部屋には風がなかった。窓は閉じられ、薄いカーテンも動かない。古い書類の匂いと、冷めかけたコーヒーの匂いが、狭い室内に留まっていた。
相沢悠真は、扉の前で一度だけ息を吐いた。
高瀬遥人が提出した相談予約票を見たとき、悠真は自分も一緒に行くと言った。何を相談するのか、その場で考えるつもりだった。けれど、放課後になって遥人が部活へ向かう生徒の流れに紛れてしまうと、結局、悠真だけが進路指導室の前に立っていた。
来てもいい、と遥人は言った。
来てほしい、ではなかった。
その違いが、階段を上がる足を重くしていた。
扉を軽く叩くと、中から佐伯先生の声がした。
「どうぞ」
机の上には、何冊もの進路資料が積まれていた。端が擦れたファイルや、付箋の色が褪せた冊子が、種類ごとに揃えられている。佐伯先生は黒いボールペンを指で回しながら、悠真を見た。
「高瀬は?」
「部活です。たぶん、あとで来ます」
「そうか」
先生はそれ以上、遥人のことを聞かなかった。
悠真が椅子へ座ると、背中に硬い感触が伝わった。屋上の床なら、足を崩してフェンスに寄りかかることもできる。ここでは、姿勢まで書類の一部にされるようだった。
「相沢は、今日は何を相談しに来た?」
「ええと」
返事をする前に、悠真は一拍だけ笑った。
「進路について、前向きに検討するための、前向きな相談を」
佐伯先生は笑わなかった。怒りもしなかった。ただ、ボールペンを机の上へ置いた。
「前向きという言葉を、今日は使わなくていい」
悠真の口元に残っていた笑いが、ゆっくり消えた。
「じゃあ、後ろ向きな相談で」
「それも要らない」
「厳しいなあ」
「厳しくはない。言葉を増やすと、考えたような気分になることがある」
佐伯先生は机の端に置かれていたメモ用紙を一枚取り、悠真の前へ滑らせた。白い紙だった。進路届より小さいのに、目に入った瞬間、喉の奥が乾いた。
「何を怖がっているか、書いてみろ」
「何をって、進路を決めるのが怖いんですけど」
「それでは大きすぎる」
「じゃあ、決めたあとに後悔するのが怖い」
「それも大きい」
「先生、注文が多くないですか」
「紙が小さいからな」
悠真はメモ用紙を見た。
佐伯先生は、すぐに答えを求めなかった。視線を紙へ落とし、黒いボールペンの先を指で一度撫でる。部屋の壁時計が、秒針を刻んでいた。カチ、カチ、と音がするたび、空白だけが広がっていく。
「書けないなら、書けないと書いてもいい」
「それ、何でもありじゃないですか」
「進路の書類ではないからな」
「先生、そういう逃げ道を用意してくれるんですね」
「逃げ道ではない。入口だ」
その言葉に、悠真は笑いかけた。
だが、今度は笑いが出なかった。
シャープペンを取り出す。芯を出す音が、部屋の中でやけに大きく響いた。紙の上へ先端を置く。書けばいいだけなのに、手首が固まった。
怖い。
その二文字を書こうとして、やめた。
あまりにも簡単で、あまりにも嘘に近い気がした。怖いのは進路そのものではない。進学も就職も、紙の上ではただの選択肢だ。怖いのは、そのどちらかを選んだ瞬間、自分が別の人間として見られることだった。
大学へ行くと言えば、家の金を考えていない息子になる。働くと言えば、何も望まない人間になる。未定と言えば、何も考えていない人間になる。
どの欄にも、自分の顔ではないものが貼りついていた。
悠真は、紙の端を指で押さえた。
屋上で見た遥人の横顔が浮かんだ。白い進路届を握りつぶしながら、それでも捨てなかった手。声を硬くして、家の金や親の疲れを語った姿。置いていかれることが怖い、と言いかけて、最後まで言えなかった目。
次に、家の食卓が浮かんだ。
美津子が皿を並べる音。誠が帰宅して、手を洗う水音。進路の話を向けられる前から、家の空気が少しずつ固まっていく時間。
悠真は、紙に一行書いた。
――母さんを困らせるのが怖い。
書いた文字を見て、すぐに線を引いた。違う。困らせることだけではない。心配させることでも、期待を裏切ることでもない。
さらに書く。
――父さんみたいに、何も選べないまま働くのが怖い。
そこまで書いて、手が止まった。
父は、何も選べなかったのだろうか。本人に聞いたことはない。ただ、工場の油の匂いが残った作業着と、帰宅してもすぐには椅子へ座らない背中を見て、悠真が勝手にそう思っていただけだ。
悠真はその文を消した。
消しゴムをかけた紙は、白く戻らなかった。細い黒い跡が残り、表面が毛羽立つ。
「消す必要はない」
佐伯先生が言った。
「でも、間違ってるので」
「間違っているかどうかは、今決めなくていい」
「先生は、何でも今決めなくていいって言いますね」
「何でもではない。提出期限は決まっている」
悠真は、思わず先生を見た。
佐伯先生は視線を受け止めたあと、少しだけ外した。
「期限があるものと、考えがまとまる時間は、別だ」
「でも、学校は同じ日にしろって言ってきます」
「学校は書類を集める必要がある。君の中身まで締め切れるわけではない」
悠真は、紙の上に残った文字を見た。
怖いことを書き出せば、怖さが小さくなると思っていた。けれど、実際には逆だった。輪郭が見えるほど、それは逃げられない形になった。何になれないことが怖いのではない。何も選べないまま、誰かを失うことが怖い。
そのことに気づいた途端、指先が細かく震えた。
「先生」
「うん」
「自分で決めたいって思うのは、わがままですか」
佐伯先生はすぐに答えなかった。
机の上の書類を一度揃え、黒いボールペンをその上へ置く。それから、悠真の目を見た。
「自分で決めたいと思うことと、自分だけで決められると思うことは違う」
悠真は黙っていた。
「家の事情もある。金のこともある。成績も、期限も、無視はできない。ただ、それらを考慮することと、自分の気持ちを最初から無かったことにすることは別だ。相沢が今すぐ進学先を決められなくても、何を怖がっているかを知ることはできる」
「知ったら、決められるんですか」
「知らないまま決めるよりは、少しだけ自分の選択に近づく」
答えは、悠真が期待したほど明るくなかった。だからこそ、信じられる気がした。
佐伯先生は、メモ用紙を指先で軽く叩いた。
「もう一つだけ書いてみろ」
「何を」
「失いたくないもの」
悠真はシャープペンを握った。

屋上の風が思い出される。錆びたフェンスの音。ぬるい缶コーヒーの甘さ。隣に立った遥人の肩。何も言わない時間を、逃げずに共有したこと。
悠真は、ゆっくり書いた。
――遥人との時間。
その文字を見たとき、胸の奥が少し痛んだ。幼い願いに見えた。進路と友情を一緒に考えるなんて、現実を知らない人間の言葉かもしれない。
それでも、消さなかった。
佐伯先生はメモを覗き込まなかった。悠真が紙を伏せると、先生は一度だけ頷いた。
「今日は、それでいい」
「進路の話、全然進んでないですよ」
「そうかもしれない」
「先生まで、たぶんとか、そうかもしれないとか使うんですね」
「使う。分からないことを、分かったふりはしない」
その言葉が、悠真の中に残った。
進路指導室を出ると、廊下はもう暗くなり始めていた。窓の外では、丘の住宅街に灯りが増えている。職員室前の掲示欄を通りかかると、赤字の提出期限が目に入った。
昨日までは、ただの記号だった。
今日は、紙の向こうに、書けない自分の指先が見えた。赤い数字の下を、生徒たちの靴音が小さく跳ねていく。誰もが帰りを急いでいるのに、悠真だけが掲示の前で足を遅くした。
メモ用紙をポケットへ入れる。
紙の角が、シャープペンの軸に当たった。
家に帰ると、美津子はいつもより皿をきれいに並べていた。焼き魚、味噌汁、煮物。食卓の中央には、冷蔵庫から出したばかりの麦茶が置かれている。料理の匂いは温かいのに、部屋の空気は冷えていた。
父の誠は、まだ帰っていなかった。
「今日は遅かったね」
美津子が言った。
「進路指導室」
悠真は靴を脱ぎながら答えた。
母の手が、湯のみの位置を少し直した。
「先生と話したの?」
「うん」
「何か決まった?」
「まだ」
その返事のあとに、沈黙が落ちた。
美津子はすぐに怒らなかった。代わりに、箸を並べ直した。箸の先が食卓へ触れる音が、一本ずつ、やけに明瞭に聞こえた。
「まだ、って言っても、提出は明日でしょう」
「知ってる」
「白紙で出すわけにはいかないんだから、手堅く考えたほうがいいよ。家から通えるところとか、卒業してから困らないところとか。夢がないなら、なおさら」
「夢がないって決めたわけじゃない」
口に出してから、悠真は驚いた。
美津子も、手を止めた。
「じゃあ、何があるの」
責める声ではなかった。だから余計に答えにくかった。
悠真は、ポケットの上からメモ用紙を押さえた。
「分からない」
「また、それ?」
「分からないけど、何も考えてないわけじゃない」
「お母さんは、何も考えてないなんて言ってないでしょう」
「言ってないけど、そういう顔をする」
美津子の視線が、食卓の上へ落ちた。
「どんな顔よ」
「困ってる顔。早く決めてほしい顔。俺が何か変なことを言ったら、家の生活まで変わるみたいな顔」
言葉が止まらなくなった。
「手堅くしろって言われると、手堅くできない俺が悪いみたいに聞こえる。父さんが黙ってると、余計に、何も言えなくなる。進学したいって言っても、何を勉強したいのって聞かれたら答えられない。働くって言っても、本当にそれでいいのか分からない。だから未定って書いてる。未定のままいたいんじゃなくて、嘘を書きたくないだけだ」
美津子は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙は、いつものように悠真を追い詰めるものではなかった。何かを言う前に、言葉を探している沈黙だった。
玄関の鍵が回った。
誠が帰ってきた。作業着には工場の油の匂いが残っている。父は台所へ寄り、手を洗った。水が流れ、止まる。いつもなら、そのまま食卓につくところだった。
今日は、少しだけ立ち止まった。
「聞こえた」
短い声だった。
悠真の背中が固くなる。
「父さんは、どう思う」
誠はすぐに答えなかった。濡れた手をタオルで拭き、腕時計を外して机の端へ置く。テレビでは、誰かが笑っている。家庭の外から借りてきた明るさが、食卓の上で場違いに流れていた。
「決めるのは、お前だ」
それだけ言って、誠は椅子へ座った。
悠真は、拍子抜けした。もっと現実的な話をされると思っていた。給料や学費や、働くことの厳しさを聞かされると思っていた。
誠は続けた。
「ただ、決めたあとも、生活は続く。そこは忘れるな」
「分かってる」
「分かってないから、言ってる」
父の声は低かったが、責める響きではなかった。
「俺も、若いときは選べなかった。選べなかったから働いた。それを後悔してるわけじゃない。だが、選ばなかったことを、選んだことにして生きるのは、長く続かない」
悠真は、父の手を見た。指の節が太く、爪の脇に黒い汚れが残っている。生活を回すために使われた手だった。
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「知らん」
誠はテレビのほうを見たまま言った。
「知らんが、分からないなら、分からないまま考えろ。人に決めさせて、あとで文句を言うな。自分で決めて、あとで迷うのは構わん」
美津子が、湯のみを一つ悠真の前へ置いた。
「急がせたいわけじゃないの」
その声は小さかった。
「ただ、何も言わずに黙っているから、こっちは余計に不安になる。あなたが何を考えているのか分からないと、家計のことでも、学校のことでも、勝手に悪いほうへ考えてしまうのよ」
悠真は、湯気の消えかけた湯のみを見た。
家族は、彼の答えを奪おうとしているわけではなかった。ただ、沈黙の中で勝手に不安を育てていた。悠真も同じだった。遥人が何も言わないから、勝手に置いていかれる未来を想像していた。
分からないものを、分かったふりで埋めていた。
「今日、先生に書けって言われた」
悠真はポケットからメモ用紙を出した。折れた紙を開くと、何度も消した跡の上に、二行だけ残っている。
怖いこと。
失いたくないもの。
美津子も誠も、紙を覗き込まなかった。
悠真は、そのことに少しだけ救われた。
夕食の席に、また沈黙が戻った。けれど、昨日までとは違った。誰も答えを急かさず、誰も代わりに紙を埋めなかった。
窓の外で、丘を下る車の音がした。
悠真はメモ用紙を折り、今度は鞄の底へ押し込まなかった。進路届の上へ重ねて、机の端に置いた。
白い紙の空白は、まだ残っている。
それでも、その空白のそばに、自分の怖さを書いた紙がある。
それだけで、明日へ向かう足元に、細い線が一本引かれたように感じた。
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