第7話 風の中の白い紙

放課後の屋上は、校舎の中とは別の音を持っていた。

教室なら、椅子を引く音や、誰かの笑い声や、廊下を走る足音が途切れずに続いている。けれど屋上では、そうした音の代わりに、錆びかけたフェンスが風を受けて鳴る。細い金属音が、きい、きい、と間を置いて響いていた。

相沢悠真は、階段の途中で足を止めた。

屋上へ続く扉の下から、風が細く吹き込んでいる。扉は閉まっているはずだった。放課後だけ解放される場所とはいえ、誰かが出入りしたあとには、いつもきちんと閉められている。

悠真は、手すりに置いた指を離した。

階段の隅には白い粉が落ちていた。チョークの粉だろう。靴底に踏まれた粉が、段差に沿って細く伸びている。誰かがポケットの中でチョークを折ったのかもしれない。白い筋は、指のようにも、途中で消えた足跡のようにも見えた。

扉の向こうから、紙の擦れる音がした。

悠真は一度、引き返そうとした。

忘れ物を取りに戻っただけだ。教室には自分のシャープペンが一本残っている。それを拾ったら、今日は帰る。屋上へ来る理由などない。誰かがいたとしても、見なかったことにすればいい。

それでも、手は扉の取っ手へ伸びていた。

金属は冷えていた。触れた指先から、冷たさがゆっくり腕へ上がってくる。

扉を押す。

風が、まともに顔へぶつかった。

屋上の床には、白いチョークの粉が薄く散っていた。風に押された粉が、コンクリートの上を細い筋になって走り、フェンスの足元でいくつにも分かれている。夕焼けは空の端にわずかに残っていたが、丘の向こうはもう灰色に沈み始めていた。

フェンスの向こうに、バス通りが見える。

坂を下る車の列。信号が変わるたび、赤い光がいくつも流れていく。その先の住宅街には、窓の明かりがぽつぽつと灯り始めていた。どこかの家から夕飯の匂いが届く。醤油を焦がしたような匂いと、冷えていく土の匂い。帰りたくなくても帰るしかない時間が、街のあちこちで始まっていた。

その風景の手前に、高瀬遥人が立っていた。

フェンスの近くではなく、少し離れた場所だった。いつもなら、錆びた金網へ背を預け、雲の形やバスの行き先をぼんやり眺めている。今日は空を見ていなかった。

視線は足元へ落ちている。

制服のポケットが、右側だけ不自然に膨らんでいた。中で何かを握っているらしく、布地が時折わずかに動く。

悠真は声をかけかけた。

「よう」

喉まで上がった言葉を、飲み込む。

いつものように、何かくだらないことを言えばいい。風が強いから髪型が終わっているとか、屋上に住みついた野良猫を見なかったかとか、今日の体育の授業が長すぎたとか。そうして遥人が呆れた顔をすれば、二人の間にあるものは昨日までの形へ戻る。

だが、今日はそれができなかった。

遥人の肩が、風とは違う動き方をした。こちらに気づいているのかもしれない。気づいていても、振り返らないだけかもしれない。

悠真は一度、階段のほうを見た。

帰るなら今だった。

けれど、階段へ戻るためには、遥人の横を通らなければならない。何も言わずに通り過ぎれば、見なかったことにしたという意味になる。声をかければ、いつもの軽口を期待される。どちらを選んでも、昨日までとは違う。

悠真は屋上の隅にある自動販売機へ向かった。

硬貨を入れ、缶コーヒーを二本買う。落ちてきた缶は、思っていたよりぬるかった。手のひらに伝わる温度は頼りなく、冷たくも熱くもない。気休めにもならない温度だった。

それでも、悠真は二本を持って遥人のそばへ歩いた。

声はかけず、フェンス脇の床に一本ずつ置く。

缶がコンクリートへ触れる音が、風の中で小さく響いた。

遥人の肩が動いた。

「……何」

「コーヒー」

「見れば分かる」

「見ても分からないものを買ってきたら、怖いだろ」

「お前が買ってくるものは、だいたい怖い」

「ひどいな。自販機に失礼だろ」

遥人は、ようやくこちらを見た。

目が合ったのは短い時間だった。すぐに視線が外れる。顎が少し引かれ、右手がポケットの中で何かを押さえ込んだ。

悠真は、床に置いた缶を見た。

「飲まないの?」

「あとで」

「冷めるぞ」

「もう冷めてる」

「俺たちの友情みたいに?」

「そういうの、今はいい」

遥人の声は平らだった。

怒っているようにも聞こえたし、怒る力を使わないようにしているようにも聞こえた。悠真には判別できなかった。分からないものを、分かった顔で決めつけるのはやめようと思ったばかりなのに、遥人の表情を見ていると、身体のほうが先に答えを探してしまう。

「部活、終わったの?」

「終わった」

「タオル、教室に落ちてた」

「そう」

「取りに来ないと、明日からタオルなしで汗を拭くことになる」

「別のがある」

「じゃあ、これは?」

「置いといて」

悠真は、遥人の足元へ目をやった。

その言い方なら、いつもと変わらない。けれど、声の奥に余白がなかった。冗談を投げ込む隙間も、拾い直す隙間もない。言葉がきれいに閉じている。

風が強く吹いた。

遥人の制服の裾が揺れ、ポケットの中の紙が擦れる音がした。

悠真は、缶コーヒーを手に取った。プルタブを開けると、甘い匂いが風に薄められる。ひと口飲んだ。ぬるさと苦みが舌の上に残った。

「進路届?」

聞いた途端、遥人の手が止まった。

「何が」

「ポケットの中」

「小銭」

「小銭をそんなに丁寧に折るやつ、初めて見た」

遥人は短く笑った。

笑ったというより、息を漏らしただけだった。

「紙じゃない」

「そっか」

悠真はそれ以上追わなかった。

風が、二人の間を抜けていく。白い粉が舞い上がり、夕焼けの残りを一瞬だけ曇らせる。粉の一粒が、悠真の手の甲へ落ちた。指で払おうとして、やめる。爪の脇に入り込んだ粉は、細い白い傷のように残った。

「昨日のことさ」

悠真が言うと、遥人の視線が缶コーヒーへ落ちた。

「昨日の、何」

「いや……」

いつもの癖で、口角が先に動いた。

「屋上って、思ったより景色よくないなって」

「今さら?」

「もっと下のほうに、いい場所あるじゃん。駅前の立体駐車場とか」

「勝手に行けよ」

「一人で行くと、警備員に怒られるだろ」

「屋上も怒られる」

「こっちは学校の施設だから、まだ正当性がある」

「放課後だけ解放されてる場所に、放課後ずっといるのは正当なのか」

「細かいな」

「お前が雑なんだよ」

ほんの一瞬、遥人の声に昔の響きが戻った。

悠真は笑いそうになった。笑えば、少しは楽になるかもしれない。遥人も、いつものように呆れた顔をするかもしれない。

だが、遥人はすぐにポケットから白い紙を取り出した。

進路届だった。

何度も折り返された紙は、開かれているのにまっすぐにならない。中央には深い皺が走り、端は指で押し潰されたように波打っている。紙の白さだけが、夕暮れの屋上で妙に鮮明だった。

悠真は、紙から目を離せなかった。

遥人はそれを見せるつもりだったのか、隠すつもりだったのか、悠真には分からない。ただ、指先がまた紙の端へ触れた。

「握ると、そんなになるんだな」

「紙だから」

「紙でも限度あるだろ」

「限度を決めるのは誰だよ」

返事が硬かった。

悠真は缶を握った。手のひらが汗ばんでいる。ぬるい金属が、汗でわずかに滑った。

「進学か就職か」

「その二つだけなら、こんなに困ってない」

遥人は紙を見たまま言った。

「進学が正しいとか、就職が正しいとか、そういう話なら、成績とか金とか、通勤時間とかで比べればいい。どっちが現実的かも、たぶん出る。親が言ってるのも、そういうことだと思う。家から近い仕事がある。給料が分かる。すぐ働ける。俺が家に金を入れられる。全部、間違ってない」

「でも、嫌なんだ」

「嫌だと言ったら、何も考えてないみたいになる」

遥人は、ようやく顔を上げた。

「家のことを考えたら、就職するのが普通なんだと思う。親父は、俺に無理をさせたいわけじゃない。仕事がきついことも、生活に金がかかることも知ってるから、変な夢を見るなと言ってるだけだ。母親は、もっと手堅く考えろって言う。たぶん、二人とも俺を心配してる」

声は落ち着いていた。落ち着いているように整えられていた。

「心配されると、反論しにくい。怒られてるなら怒り返せる。でも、心配だと言われたら、こっちは何も言えない。俺が迷ってるせいで、家の中まで不安定になるみたいに感じる。だから、分かったって言う。考えるって言う。けど、本当は何も決まってない」

遥人の親指が、紙の皺をなぞった。

「決めたくないわけじゃない。決められないまま、誰かに決められるのが嫌なんだ」

悠真は、風の向こうにある街を見た。

バスが一台、坂を下っている。車内の明かりが窓に並び、乗客の顔を一瞬ずつ照らしては消す。どこへ向かうバスなのか、悠真には分からない。帰りたい場所へ向かう人もいるだろうし、帰りたくない場所へ運ばれている人もいる。外から見れば、その違いは同じ赤いテールランプの中へ溶けてしまう。

「お前は、何を選びたいの」

悠真は聞いた。

聞いてから、問い詰める形になったことに気づいた。

遥人はすぐに答えなかった。紙を二つに折り、折り目を指で強く押さえる。

「分からない」

「進学も、就職も?」

「どっちも、嫌いじゃない」

「嫌いじゃない?」

「機械を触るのは嫌いじゃない。工場の仕事が全部嫌なわけでもない。大学へ行くのも、行ってみたい気持ちはある。でも、何を勉強したいかは決まってない。行ったあとで何になるかも分からない。だから、進学したいと言い切ると嘘になる」

「就職したいと言っても?」

「たぶん、同じだ」

遥人は顔を上げ、悠真を見た。

「お前は、何でも軽く言えるよな」

昨日と同じ言葉だった。

悠真の喉が、急に狭くなった。

いつものように笑えばいい。冗談だろ、と返せばいい。けれど、遥人の手の中の紙が、その言葉を許さなかった。

「軽く言ってるだけで、軽いわけじゃない」

「そういう言い方ができるところが、俺には分からない」

「分からないって?」

「俺は、怖いって言ったら、怖いままになるから言えない。迷ってるって言ったら、迷ってる人間として見られるから言えない。お前は笑って、未定だって言う。自分でそう言ってるのに、傷ついてないみたいに見える」

「傷ついてるよ」

口にした瞬間、悠真自身が驚いた。

遥人も黙った。

風に冷えた頬が熱を持っていく。悠真は視線をフェンスの足元へ落とした。白いチョークの粉が、細い線になって残っている。

「俺だって、怖い。何になりたいか分からないことも、何も選べないまま時間だけ過ぎることも。母さんが手堅くしろって言うのも、父さんが何も言わずに疲れて帰ってくるのも、全部分かってる。分かってるから、何も言えない」

声が、自分のものではないように聞こえた。

「何か言ったら、家の生活に俺の迷いを乗せることになる気がする。大学に行きたいって言って、金の話をされたら、行きたいと思ったこと自体がわがままになる。働くって言ったら、今度は何でそれを選んだのか説明しなきゃいけない。だから、未定って書いて、笑って、まだ決めてないだけだって言ってる」

悠真は一度、息を飲み込んだ。

「でも、本当は未定のままいたいわけじゃない。お前が先に決めて、俺だけが取り残されるのが怖いんだよ」

遥人の指が止まった。

「進学でも就職でも、どっちでもいい。お前が自分の行く場所を決めて、そこにいる人たちと新しい話をして、俺が今までみたいにくだらないことを言っても、もう笑ってくれなくなるのが怖い。俺は、何も決められない自分を見られるのが嫌で、ずっとお前の前でも笑ってた」

言葉を出すたび、口の中が乾いていった。

「だから、お前が困ってるときも、同じ場所にいるふりをした。俺も未定だから、お前だけが遅れてるわけじゃないって思わせたかった。でも違う。俺のほうが、お前に置いていかれるのが怖くて、先に進むなって思ってた」

屋上の空気が、急に広がった。

風の音だけが近くなり、校舎の向こうの生徒たちの声が遠ざかる。缶コーヒーの甘い匂いが、冷たい風の中でかすかに残っていた。

遥人は、進路届を見下ろしたまま黙っていた。

悠真は、言いすぎたと思った。

謝ろうとして、やめた。謝れば、また自分の側へ話を戻してしまう。遥人が何かを言うまで、待つしかなかった。

やがて、遥人が紙を折った。

今度は握りつぶさなかった。折れ目を指の腹で押さえ、形を整えるようにして、膝の上へ置いた。

「俺も、お前に置いていかれると思ってた」

声は低かったが、さっきほど硬くなかった。

「お前は、どこへ行っても誰かと話せる。俺みたいに、言葉を選びすぎて何も言えなくなることもない。だから、俺が決められないでいる間に、お前は先に行くと思ってた」

「俺だって、何も決めてない」

「知ってる。でも、お前は決めてないことを笑える」

「笑ってるだけだよ」

「それが怖いんだよ」

遥人は、紙の白い面を見た。

「お前が笑ってると、俺だけが深刻になってるみたいに見える。俺だけが遅れて、俺だけが面倒なことを考えてるみたいになる。だから、言えなかった。話したら、お前はたぶん大丈夫って言う。まだ時間があるって言う。俺たちは変わらないって言う」

「言うと思う」

「でも、それを信じたくなる。信じて、あとで変わったら、今よりきつい。だから、先に距離を置いたほうがいいと思った」

「それで、何も言わなかった?」

「何も言わないほうが、まだ自分でいられると思った」

遥人はそこで言葉を止めた。

風が二人の前髪を同じ方向へ煽る。悠真はその風に目を細めた。遥人の頬も冷えているのか、少し赤くなっている。

「でも、何も言わないと、隣にいるやつまでいなくなるんだな」

遥人の声は、ほとんど独り言に近かった。

悠真は返事をしなかった。

返せる言葉がなかった。大丈夫とも、離れないとも言えなかった。言えば、遥人が恐れているものを、軽い約束で覆ってしまう気がした。

夕方のチャイムが鳴った。

音は校舎の壁に反響し、屋上へ届くころには少し薄まっていた。それでも、放課後の終わりを告げるには十分だった。

遥人は進路届を見た。

「明日、佐伯先生に話す」

「進路のこと?」

「決めたふりをするんじゃなくて、決めるために何が必要か聞く。親にも、もう一回話す。たぶん、また揉める」

「うん」

「お前にも、もう少し早く言う」

「今でいいだろ」

「今は、まだ全部言えてない」

悠真は、遥人の顔を見た。

何が言えていないのかを聞こうとして、やめた。沈黙の中に残っているものを、自分の想像で埋めるのは違う。遥人が自分の言葉で話せるまで、待つしかない。

「じゃあ、今日はここまでだな」

「たぶん」

「また、たぶん」

「便利だから」

悠真は笑った。

今度の笑いは、場を軽くするためではなかった。笑わなければならないと思ったわけでもない。ただ、呼吸が少しだけ通ったことに気づき、そのまま息が漏れた。

二人は屋上を出た。

扉を閉める前、悠真は床の白い粉を振り返った。風に散らされ、細い筋はもう形を失いかけている。それでも、フェンスの足元にはいくつか残っていた。白い指のような跡が、誰かがここに立っていたことを、消えずに示している。

階段を下りる途中で、遥人が足を止めた。

「悠真」

「ん?」

「明日、進路指導室に行くとき……一緒に来てもいい」

頼み慣れていない人間の声だった。

悠真はすぐに返事をしなかった。いつもの癖で、口角だけが少し上がる。けれど、その笑いを途中で引っ込めた。

「いいよ」

それだけ言った。

遥人は頷いた。制服のポケットへ手を入れたが、今度は紙を折る音がしなかった。

校舎の外へ出ると、夕方の空気はさらに冷えていた。遠くで部活動を終えた生徒たちの声がする。丘を下る道路では、バスの赤いテールランプがゆっくり流れていた。

悠真は遥人の隣を歩いた。

遥人が何を選ぶのかは、まだ分からない。悠真自身が何を選ぶのかも分からない。明日の朝、二人の進路届にきれいな文字が並ぶ保証もない。

それでも、さっきまでとは違っていた。

言えないことが残ったままでも、隣に立つことはできる。答えを渡せなくても、相手の沈黙を勝手に終わらせずにいられる。

悠真は鞄の中の進路希望調査の紙に触れた。

折れ目のついた白い紙。その空欄は、まだ消えていない。

直そうとして、指を止めた。

紙は折れたままだった。けれど、握りつぶさずに持って歩くことはできた。

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