第6話 図書室の一言

放課後の図書室には、独特の静けさがある。
教室の喧騒や、廊下を行き交う足音とは違う、紙とインクと埃が混じり合った匂いが、空気そのものを重くしていた。長机の並んだ閲覧スペースには、受験勉強をする三年生がまばらに座り、参考書のページをめくる乾いた音だけが規則的に響いている。
悠真は、進路資料のコーナーへ向かっていた。
理由は単純で、はっきりしたものではなかった。遥人と別れたあと、まっすぐ帰る気になれなかった。家に帰れば、母がいつもの調子で何かを聞いてくる。父が帰ってくれば、無言の重さが食卓に降りてくる。進路届の空欄は、机の中にまだ入ったままだった。だから、埋める気もないくせに、埋めるための材料を探すふりをして、図書室へ来た。
棚には大学案内や専門学校のパンフレットが、色とりどりの背表紙を並べている。悠真はそのどれにも手を伸ばさなかった。指先が棚の端をなぞり、表紙の角をかすめただけで、また離れた。
窓際の机に、朝霧凪がいた。
気づいたのは偶然だった。彼女は進路資料のファイルを前に置き、風でめくれた紙の角を、指先でそっと押さえていた。動作は小さく、音を立てない。髪が夕方の光を受けて、輪郭のあたりだけ淡く透けている。
凪は、クラスの中で目立つほうではなかった。声を荒げるところを見たこともないし、誰かと大げさに笑い合う姿も見たことがない。けれど、進路の話になると、彼女の名前はいつも落ち着いた場所にあった。推薦でほぼ決まっている、と誰かが言っていた。その言い方には、羨望でも皮肉でもない、ただの事実としての響きがあった。
悠真は、その横を通り過ぎようとした。
通り過ぎるだけのつもりだった。だが、足が自然に止まった。
「進路の紙、もう見たか」
声に出してから、自分でも軽すぎると思った。いつもの調子だった。誰に対しても、同じ温度で投げられる言葉。遥人にかけたときは硬く跳ね返されたが、凪ならどう返すのか、確かめたい気持ちが半分あったのかもしれない。
凪は顔を上げすぎなかった。視線だけを、紙面から悠真の肩のあたりへ動かす。
「見たよ」
その返事は短かった。だが、そのあとに続いた言葉が、悠真の予想していたものとは違った。
「早く決めることと、自分で引き受けることは、たぶん別だよ」
声の大きさは変わらない。抑揚もほとんどない。なのに、その一文だけが、図書室の静けさの中で妙にはっきりと耳に残った。
悠真は、いつものように笑おうとした。口角を上げかけた。だが、言葉が続かなかった。喉の奥で、何かが引っかかって止まる。笑いの形だけが顔に残り、中身が追いついてこない。
「……それ、どういう意味?」
やっとそれだけ言った。
凪は、ファイルの端をもう一度そろえた。指先の動きは、さっきと同じくらい静かだった。
「決めるのが早い人は、よく褒められる。覚悟があるとか、ちゃんとしてるとか。でも、早く決めたからって、それを自分で引き受けたことにはならない場合がある」
「……お前は、早く決めたほうだろ」
「うん。推薦の話が出たとき、先に嬉しさより先に考えたのは、これは自分で選んだって、あとで言えるかってことだった」
言いながら、凪はページの端に挟んだクリップを外し、別のページへ留め直した。無駄のない手つきだった。
「言えなかったら?」
悠真は聞いた。
「言えなかったら、早く決めたことが、ただ流されただけになる。親が勧めたから、先生がそう言ったから、周りがそうしてるから。理由はいくらでもあるけど、その理由の中に自分がいないと、決めた意味がなくなる」
窓の外で、校庭の風が強く吹いた。ガラスがかすかに鳴る。凪はその音に目を向けなかった。続きがあるのを、悠真は感じた。
「中学のとき、仲良かった子がいた」
凪は、紙面に視線を落としたまま続けた。
「その子、周りがみんな決めていく中で、自分だけ決まらないのが怖くて、よく考えないまま一つを選んだ。周りに合わせて、安心したかったんだと思う。でも、入ってからずっと、ここは自分の場所じゃない気がするって言ってた。最後は、途中で苦しそうに崩れていった」
「……今は?」
「分からない。あのとき、もう少し待ってって、わたしが言えばよかったのかもしれない。でも、わたしにもその資格があったのか、今でもよく分からない」

凪の声は、そこで初めてわずかに揺れた。感情を大きく見せる揺れ方ではなかった。むしろ、揺れを押さえ込もうとする分だけ、言葉の端が硬くなった。
悠真は、何かを言おうとした。大丈夫だったよとか、お前のせいじゃないとか。けれど、そのどれもが、昨日遥人に拒まれた言葉と同じ形をしていることに気づいた。分かった顔で、相手の重さを軽くしようとする言葉。
だから、黙っていた。
凪は、悠真の沈黙を気にしなかった。むしろ、それでよかったというように、小さく息を吐いた。
「迷うのが遅いんじゃなくて、急かされるほうが雑になることもある」
借りたままの大学案内冊子を閉じながら、凪は机の端を見たまま付け加えた。
「期限は、決める速さを測るためにあるんじゃないと思う。ただ、締め切らないと、学校の事務が回らないだけ。でも、その紙を見た人は、締め切りが来た瞬間に、まるで心の準備まで測られたみたいに感じる。わたしは、それが少し違う気がしてる」
悠真は、机の端に置かれた進路資料のファイルを見た。表紙には、几帳面な字で日付と項目が書き込まれている。凪の字は、迷いなく整っていた。だが、その整い方の裏に、今聞いたばかりの沈黙があるのだと思うと、整った字そのものが、何かを抱えたまま進む人間の筆跡に見えた。
「お前は、迷わなかったのか」
悠真はもう一度聞いた。
凪は、少しだけ間を置いた。彼女のいつもの癖だった。
「迷った。今も、少し迷ってる。本当にこれでいいのかって、ふとした瞬間に思う。でも、迷ってることと、決めてないことは別だから」
その言い方は、悠真にはまだ呑み込みきれなかった。迷いながら決める、ということが、実感として分からない。決めるというのは、迷いを終わらせることだと、どこかで思い込んでいた。
「分かるようで、分からない」
正直に言うと、凪はわずかに口元を緩めた。笑ったというより、頷きに近い表情だった。
「分からなくていいよ。わたしも、全部分かって言ってるわけじゃないから」
図書室の窓から、夕方の風が入り込んできた。紙の匂いに混じって、校庭の土の匂いがかすかに届く。凪は、めくれかけたページの端を、また指先で押さえた。
悠真は、その場で返事をし損ねた。
何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。いつもなら、ここで何かしらの軽口を挟んで、空気を自分の知っている形に戻しているはずだった。だが今は、戻すための言葉が見つからなかった。
窓の外で、部活動の声が遠く響いている。誰かが走り、誰かが笑い、誰かが叫んでいる。その音は、図書室の中までは届かず、ガラス一枚隔てた向こうの出来事のように聞こえた。
凪は、ファイルを閉じた。
「相沢くんは、まだ決めてないんでしょ」
問い詰める響きではなかった。ただ、確認するような声だった。
「……うん」
「それでいいと思う。今は」
たったそれだけだった。悠真が身構えていた続きの言葉は来なかった。だからいつまでにとか、でも早めにとか、誰もが口にする注釈が、凪の言葉にはついていなかった。
悠真は、何か礼を言うべきか迷った。だが、何に対して礼を言うのか、自分でもはっきりしなかった。
凪は鞄を持ち上げ、椅子を静かに戻した。
「借りてた本、返しとく」
それだけ言って、彼女はカウンターのほうへ歩いていった。後ろ姿は、来たときと同じくらい静かだった。
悠真はしばらく、窓際の机に残った椅子の跡を見ていた。
紙の匂いと、夕方の風。言葉の余白を埋めていたのは、そのどちらでもなく、凪が置いていった短い沈黙だった。屋上で遥人が握りしめていた紙の白さが、不意に目の裏によみがえる。決めることと、引き受けること。その二つの違いを、悠真はまだ、自分の言葉で説明できなかった。
それでも、進路資料の棚から離れる足取りは、来たときより少しだけ重くなっていた。重さの正体は、怖さに似ていたが、嫌な感触ではなかった。
← 横にスクロールして読み進められます
