第10話 白い紙を見せる日

翌日の朝、職員室前の掲示板から、赤い数字が少しだけ浮いて見えた。
進路希望届の提出期限。
昨日までと同じ文字なのに、悠真にはその下に、細いひびが入っているように見えた。誰かが急いで書いたのか、赤いマーカーの線はところどころ濃さが違う。数字の端に、白いチョークの粉が付着していた。
悠真は掲示の前で足を止めた。
鞄の中には、昨夜書き直した進路届が入っている。
第一希望の欄には、大学名ではなく、学びたい分野を書いた。第二希望の欄には、まだ決められない、と書きかけてから消し、「相談のうえ決定」と記した。紙の端には、佐伯先生に見せるための小さなメモが挟まっている。
未定。だが、未定のまま放置したいわけではない。
それだけのことを書くのに、シャープペンの芯を二本折った。
「朝から、掲示板とにらめっこ?」
背後から声がした。
振り向くと、朝霧凪が立っていた。手にはいつもの薄いファイルがあり、髪が窓から入った風にわずかに揺れている。
「にらめっこじゃない。友好的な対話」
「掲示板は返事をしないよ」
「だから俺が一方的に話しかけてる」
「それは対話ではないね」
凪はそう言いながら、掲示板へ目を向けた。悠真の鞄の中までは見ない。聞きもしない。その距離がありがたかった。
「書いた?」
「一応」
「一応、って言えるなら、昨日より進んでる」
「一応でも?」
「一応だから、だと思う」
チャイム前の廊下を、生徒たちが急ぎ足で通り過ぎていく。誰かの靴底が床に引っかかり、乾いた音を立てた。悠真は掲示板から視線を外した。
「遥人、見てない」
「教室にはいたよ」
「話した?」
「おはよう、とは」
「それだけ?」
「それ以上は、まだ」
凪はファイルの角を親指で押さえた。
「まだ、という言葉も便利だね」
「便利だけど、俺の場合はたぶん、先延ばし」
「そう思うなら、今日のどこかで確かめればいい」
「どこかって、今日しかないんだけど」
「なら、今日のどこかで」
凪はそれ以上言わず、教室のほうへ歩き出した。急かしていないのに、悠真の背中には、行くべき場所が一つだけ残されたような感覚があった。
三年二組の教室で、遥人は窓際の席に座っていた。
机の上には、進路届が置かれている。白い紙は二つ折りにされ、教科書の下に半分だけ隠れていた。遥人はシャーペンを持ったまま、何も書かずに窓の外を見ている。
悠真が隣の席へ鞄を置くと、遥人は視線だけを動かした。
「朝から見るなよ」
「見てない。窓を見てた」
「窓の向こうに紙があるのか」
「あるかもしれない」
「ない」
遥人の返事は短かった。けれど、声の硬さは昨日までよりわずかに薄かった。
悠真は自分の席に座った。机の中から進路届を取り出し、遥人の紙と同じように教科書の下へ置く。
「俺も、まだ全部は決まってない」
「知ってる」
「知ってたの?」
「顔に書いてある」
「そんなに?」
「眉間に未定って」
遥人の口元が、ほんの少し動いた。
笑ったのか、呆れただけなのかは分からなかった。それでも、悠真はその変化を見逃さないようにした。いつもなら、ここで「じゃあ遥人は進学で」と軽口を重ねていた。今日は言わなかった。
午前の授業が終わり、昼休みになっても、遥人は進路届を教科書の下から出さなかった。
悠真も急かさなかった。
二人の間には、弁当の蓋を開ける音や、教室の後ろで誰かが椅子を引く音が流れた。沈黙は気まずかったが、昨日までのように、何かを埋めなければ壊れるものには思えなかった。
放課後、遥人の姿は教室から消えていた。
机の中には、使い古した消しゴムだけが残っている。悠真はそれを見て、行き先を考えるまでもなく立ち上がった。
屋上へ続く階段は、夕方の光が届かず薄暗かった。踊り場の窓から、住宅街の屋根が見える。バス通りを走る車の音が、坂の下から遅れて響いた。
扉は、少しだけ開いていた。
風が隙間から入り込み、階段の踊り場に紙の匂いを運んでくる。
悠真が屋上へ出ると、遥人はフェンスのそばに立っていた。
手には、折れ目のついた進路届がある。
「来ると思った」
遥人は、街を見たまま言った。
「来てほしくないなら、鍵かけとけよ」
「今日は、かけなかった」
風が二人の間を抜けた。フェンスが低く鳴り、白いチョークの粉が足元で舞った。
悠真は遥人から少し離れた場所に立った。近づきすぎない。けれど、帰るほど遠くもない。
「凪に言われた」
「何を」
「大丈夫って言わないほうがいいって」
遥人が初めてこちらを見た。
「余計なことを」
「俺もそう思った。でも、たぶん合ってる」
「お前にしては珍しく、他人の言葉を信じるな」
「俺だって、たまには信じる」
「たまにかよ」
遥人の声に、かすかな笑いが混じった。すぐに消えたが、昨日までの硬さとは違った。
悠真はポケットから進路届を出した。
「俺、相談のうえ決定って書いた」
遥人の視線が紙へ落ちる。
「逃げじゃん」
「そうかも。でも、逃げたままにしないって書いた」
「都合のいい書き方だな」
「お前にだけは言われたくない」
「俺はまだ白紙だ」
「知ってる」
遥人は進路届を握り直した。紙が小さく鳴る。
「見せたら、何か言うだろ」
「言うかもしれない」
「何を」
「分からない」
「それじゃ、見せる意味ないだろ」
「意味があるかどうかを決めるのは、お前じゃないのか」
言ったあと、悠真は喉の奥が乾くのを感じた。いつものように笑って済ませるには、声が少し震えていた。
遥人は紙を見つめたまま、黙っている。
「俺は、お前の進路を決められない」
悠真は続けた。
「進学しろとも、働けとも言えない。大丈夫とも言えない。でも、見せられた紙を見て、勝手に分かったつもりになることはしない。分からないところは、分からないって言う」
「それで、何が変わる」
「すぐには変わらない」
「じゃあ」
「でも、何も言わないまま、お前が一人で握りつぶすのを見てるよりはいい」
風が強くなった。
遥人の指の間から、進路届の端がわずかに覗いている。白い紙には、何度も折り直した跡があった。そこだけが夕焼けを反射して、目に痛かった。
「家では、親父が就職しろって言う」
遥人が言った。
「母さんは、進学してもいいって言う。ただし、金は出せない。親父は、出せないから就職しろって言う。母さんは、出せないけど後悔するなって言う。二人とも、俺に選べって言うくせに、選んだあとの責任まで先に置いてくる」
悠真は口を挟まなかった。
「俺は、機械をいじるのは嫌いじゃない。工場で働くのも、たぶんできる。でも、できるから選ぶのか、他にないから選ぶのか、自分でも分からない。進学したらしたで、家に金を出させる。就職したらしたで、諦めたみたいになる。どっちを選んでも、誰かの言葉が残る」
遥人は一度、息を吸った。
「それに、お前が先にどこかへ行くのも嫌だ」
声の最後だけ、硬さが崩れた。
悠真はフェンスの向こうを見た。坂道を下るバスが、夕暮れの住宅街をゆっくり曲がっていく。
「俺も、置いていかれるのが怖い」
遥人が顔を上げた。
「お前に?」
「お前がいなくなることに」
「いなくならないだろ」
「そういうの、今は言わないほうがいいんだろ」
「……そうだな」
「だから、怖いって言う」
夕方のチャイムが鳴り始めた。
校舎の窓が一斉に橙色へ染まる。音は屋上まで届き、二人の間にある空白を細かく震わせた。
遥人は、進路届を悠真へ差し出した。
「読めよ」
紙が風に揺れた。
悠真はすぐには手を伸ばさなかった。白い指が、紙の端を押さえている。その指先の震えを、遥人自身が隠そうとしていないことに気づいた。
悠真は、ゆっくりと紙を受け取った。
空欄の多い進路届だった。
けれど、完全な白紙ではなかった。希望欄の隅に、消しきれなかった文字が残っている。
機械工学。
その二文字は、誰かに決められた答えのようには見えなかった。折れ目の奥で、何度も書き直され、それでも消えずに残った跡だった。
「これ、いつ書いた」
「昨日」
「なんで消した」
「消したんじゃない。決めきれなくて、薄くなっただけだ」
遥人は、フェンスを指で二度叩いた。
「明日、佐伯先生に相談する。就職か進学かを決めるためじゃなくて、選び方を聞くために」
悠真は紙を返した。
「それ、先生に怒られるぞ。先生は答えをくれないから」
「知ってる」
遥人は進路届を受け取り、今度は握りつぶさなかった。
「だから、行く」
チャイムが止んだ。
屋上には、風の音だけが残った。悠真は隣へ並ぶ。遥人も、少しだけ立つ位置をずらした。
フェンスの錆びた隙間から、白いチョークの粉がひとつ、風にさらわれていった。
紙の空白はまだ埋まっていない。
それでも二人は、空白を隠さずに持って、屋上の扉へ向かった。
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