第4話 赤字の掲示の前で

昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴っても、三年二組の廊下から人の流れは途切れなかった。
弁当箱を抱えた生徒が教室へ戻り、購買の袋をぶら下げた男子が階段を駆け上がる。窓の外では、運動部の掛け声が校庭の端から端へ飛び交っていた。風の強い日だった。廊下の窓は閉まっているのに、どこかの隙間から入り込んだ風が、掲示物の角をぱたぱたと揺らしている。
職員室前の掲示欄に、新しい紙が貼られていた。
白い紙の中央に、黒い大きな文字で「進路希望提出期限」とある。その下の日付だけが赤い太字で囲まれていた。赤いマジックは何度も重ねられたらしく、紙の繊維がところどころ毛羽立っている。文字というより、誰かが時間の進む方向へ無理やり線を引いたように見えた。
悠真は、廊下の端からその紙を見つけた。
見つけたというより、紙の前を通り過ぎるつもりだった足が、勝手に速度を落とした。
前を歩いていた女子二人も、掲示を見上げていた。片方が「明日だって」と言い、もう片方が「知ってる」と答える。知っているなら、なぜ立ち止まるのか。悠真はそう思ったが、自分も同じ場所で足を止めていた。
赤い日付が、目の奥へ入り込んでくる。
明日。
その二文字だけで、口の中が乾いた。
「相沢、そこ通るなら止まらないでよ」
後ろから男子の声がした。
「いや、俺が止めてるんじゃなくて、期限のほうが俺を止めてるんだよ」
悠真は振り返り、口角を上げた。
「ほら、提出物には人を立ち止まらせる力があるから。将来を決める紙ともなると、なおさら」
「急に評論家みたいになるなよ」
「俺は昔から、紙に対して真摯だから」
「昨日、進路届を机の奥に突っ込んでたじゃん」
「それは保管。大切なものほど、見えないところにしまうだろ」
男子が笑い、悠真も笑った。
笑い声は、廊下のざわめきに混じってすぐに薄くなった。悠真はその消え方を確かめるように、もう一度掲示を見た。赤い線は変わらずそこにあった。笑いで薄まるのは、周囲の空気だけだった。
掲示の脇には、進路希望調査の提出について書かれた小さな紙も貼られている。未定の場合も必ず記入すること。白紙は受理しないこと。提出後の変更については担任または進路指導担当へ相談すること。
どの文も、正しい。
正しい文は、逃げ道を塞ぐのがうまい。
悠真は制服のポケットへ手を入れた。中で、安いシャープペンの軸に触れる。指先で回そうとして、途中でやめた。進路の話になると、何かをいじる癖がある。机の縁でも、紙の角でも、小銭でもいい。指が動いているあいだは、自分が止まっていることを忘れられる。
そのとき、廊下の向こうに遥人の姿が見えた。
教室へ戻る人の流れから少し外れ、掲示欄の前へ歩いてくる。昼食を終えたばかりなのか、制服の袖口にごく小さな米粒がついていた。いつもなら悠真がそれを見つけて、「新しい校章?」とからかうところだった。
だが、声をかける前に、遥人は掲示の前で足を止めた。
その止まり方が、悠真には気になった。
掲示を見上げるでもなく、ただ正面に立っている。顎がわずかに引かれ、視線は赤い日付の下へ落ちていた。制服のポケットに入れた右手が、かすかに動く。ポケットの布越しにも分かるほど、指先が同じ場所を何度も折っていた。
紙だろうか。
悠真は、昨日の屋上を思い出した。
風の中で、遥人が握りしめていた進路届。白い紙の中央に走っていた、深い皺。握った指の関節だけが白くなっていたこと。お前には、まだ言えない、と硬い声で言ったこと。
昨日のことなのに、時間が一日分進んだだけで、あの紙はさらに遠いものになっていた。
「そんなに睨んでも、紙は逃げねえぞ」
悠真は言った。
遥人の肩がほんの少し動いた。振り向くまでに、一拍あった。
「逃げたら困るだろ」
「困るの? 追いかけるの、面倒じゃん」
「提出物が逃げたら、先生が追いかける」
「じゃあ先生に任せればいい。大人なんだし」
「それは、いろいろ違う」
遥人はそう言ったが、笑わなかった。
声は普通だった。普通にしようとしている声だった。悠真には、それが分かった。遥人は本当に平気なとき、もっと雑に返す。くだらない冗談なら、くだらないまま受け取る。今の返事には、余計な角がなかった。角を削りすぎて、触れると指に刺さりそうだった。
「何折ってんの?」
悠真は、遥人のポケットへ視線を落とした。
「何も」
「何も折る手つきじゃないだろ、それ」
「見間違い」
「俺の観察力を甘く見るなよ。人の変なところを見つけるために、三年間鍛えてきたんだから」
「それ、特技として履歴書に書けるのか」
「書ける。『場の空気を読んで、余計な一言を挟めます』」
「不採用だな」
「即答やめろ」
悠真は笑った。遥人も、口元だけをわずかに動かした。
けれど、その笑いはすぐにほどけた。
廊下を通った女子生徒が、掲示を見ながら友達に話しかける。
「推薦の書類、今日出すんだって」
「もう決めたの?」
「だいたいね。お母さんがそのほうが安心するって」
声は遠ざかっていった。
遥人は、その背中を見なかった。赤い日付からも目を逸らさず、ポケットの中で何かを折り続けている。
悠真は、昨日ならここで別の話を出していたと思う。今日の体育の授業が長すぎるとか、購買の焼きそばパンが小さくなったとか、先生の字がいつもより下手だったとか。何でもよかった。話題を横へずらすだけなら、いくらでもできる。
だが、昨日、遥人に言われた言葉が残っていた。
何でも軽く言えるところ。
あれは、たぶん今も終わっていない。
「遥人」
「何」
「昨日のこと、怒ってる?」
聞いてから、早かったと思った。
遥人は返事をしなかった。廊下の窓から差し込んだ光が、掲示欄のガラスに反射して、彼の頬を白くした。しばらくして、ポケットから右手を出す。指先には、折れ目のついた小さな紙片が挟まっていた。
「怒ってない」
「そっか」
「怒ってないけど、腹は立ってる」
「やっぱ怒ってるじゃん」
「お前にじゃない」
「じゃあ、誰に?」
遥人は紙片を親指で押さえた。小さな紙がさらに折れ、四角く硬くなる。
「分からない」
「分からないのに腹立つこと、あるよな」
「お前、そういうときだけ分かった顔する」
声の温度が少し下がった。
悠真は、その変化に気づいた。遥人の本気の話は、感情が強くなるほど逆に平らになる。怒鳴らない。声を荒げない。言葉を整え、きれいに並べて、相手がどこにも触れられないようにする。
「分かった顔はしてない」
「してる」
「してないって」
「してるよ。お前はいつもそうだろ。相手が何か言う前に、分かったような顔で笑う。大丈夫そうにして、たぶんこういうことだろって、自分の中で勝手に話を終わらせる」
「終わらせてない」
「終わらせてる」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
声が少しだけ大きくなった。
通り過ぎる生徒が、二人をちらりと見た。悠真は反射的に笑いかけそうになったが、口元を動かす前に止めた。笑ってしまえば、ここで話していることまで冗談になる。
遥人は、赤い掲示の前で紙片を握ったまま続けた。
「何もするなとは言ってない。けど、分からないものを分かったことにして、軽くまとめるなって言ってる。進路の話は、笑って済ませられるほど軽くない。家の金も、親の顔も、これから何年働くかも、全部こっちに乗ってくる。なのに学校は明日までに書けって言う。未定でもいいって言うけど、未定と書いたら、未定のまま見られる。決めてない人間として扱われる。そういうのが嫌なんだよ」
悠真は、返す言葉を探した。
掲示欄のガラスに、二人の姿が薄く映っている。赤い日付の下で、悠真の顔は自分が思っていたより幼く見えた。笑っていない顔を、彼はあまり知らなかった。
「でも、未定なんだろ」
やっと言った。
「俺も、お前も」
「だから何だよ」
「いや……未定なら、未定って書けばいいじゃん。嘘を書いたって、あとで困るだろ」
「それは分かってる」
「じゃあ――」
「分かってるから困ってるんだよ」
遥人の声が、今度は低く落ちた。
「書けばいいっていうのは、簡単だ。紙の空欄に未定って書く。それで形式上は終わる。でも、俺が嫌なのは紙が埋まらないことじゃない。埋めた文字を見た誰かが、俺のことを勝手に判断することだ。考えてない、遅い、覚悟がない。そうやって数字や欄だけで決められるのが嫌なんだ」
そこまで言うと、遥人は視線を逸らした。
「……まあ、俺が勝手にそう思ってるだけかもしれないけど」
最後だけ、声がかすかに揺れた。
悠真は、その揺れを聞き逃さなかった。けれど、指摘はしなかった。遥人が自分で言った言葉を、自分で引き受けようとしている。そこへ手を伸ばして、分かるよとか、気にするなとか言えば、また何かを奪う気がした。
「俺は、遥人が考えてないとは思ってない」
悠真は言った。
「覚悟がないとも思ってない。むしろ、考えすぎて止まってるように見える」
「それ、慰めてる?」
「違う。褒めてもない」
「褒めてないのかよ」
「考えすぎるのも、たぶん才能だから」
「使い道のない才能だな」
「そういう才能が、あとで役に立つこともあるって。例えば、壊れた機械の音を聞いて、どこが悪いか分かるとか」
「俺を機械扱いするな」
「いや、機械はいいぞ。故障箇所が見つかれば直せる」
「人間は?」
「……見つけても、直せないことがある」
言ったあとで、悠真自身が驚いた。
遥人は紙片から目を上げた。
廊下のざわめきが、二人のいる場所だけ少し遠くなった。予鈴の余韻も、階段を上がってくる足音も、掲示欄のガラスに反射する光も、すべてが薄い膜の向こうへ退いたように感じられた。
「それ、今の俺のこと?」
「違う。……違わないかもしれないけど」
「どっちだよ」
「俺にも分からない」
「お前が言うな」
遥人は短く笑った。
その笑いはすぐ消えたが、さっきまでの硬さとは違った。笑えないのに笑ったのではなく、言葉の端に触れて、仕方なく息が漏れたような笑いだった。
始業のチャイムが鳴った。
教室へ戻るよう促す音が、廊下の天井から落ちてくる。生徒たちが一斉に動き出し、二人の横を次々に通り過ぎた。掲示の前にできていた小さな空白が、人の流れに押されて消えていく。
遥人はポケットへ手を戻した。
「行くぞ」
「うん」
「次、現代文だろ」
「眠くなるやつ」
「お前は何でも眠くなる」
「将来の話だけは目が冴える」
「それなら授業中に進路届を書け」
「先生に怒られるだろ」
「未定なら、怒られる前に寝るな」
歩き出した遥人の背中を、悠真は追った。
教室までの短い廊下が、いつもより長く感じられた。掲示欄から離れても、赤い日付は視界の端に残り続けている。階段の踊り場では、窓から入った風がプリントを一枚、床から浮かせた。紙は手すりに当たり、裏返り、白い面を見せたまま足元へ落ちる。
悠真は拾おうとした。
だが、先に遥人がしゃがみ込んだ。拾い上げた紙を、折れないように両手で持つ。いつもなら紙の端を折る指が、今日は何も傷つけずに紙の角をそろえていた。
そこには、進路相談の予約表が印刷されていた。
名前を書く欄は、まだ空いている。
遥人は一瞬それを見たあと、掲示板の脇にある提出箱へ入れた。悠真には、その動作が何を意味するのか分からなかった。相談を申し込むためなのか、誰かが落とした紙を戻しただけなのか。聞けば答えてくれるかもしれない。聞かなくても、たぶん今は困らない。
遥人は立ち上がった。
「何」
「いや」
悠真は、いつものように笑いかけた。けれど、途中で笑いを引っ込めた。
「今の、折らなかったなと思って」
「何を」
「紙」
遥人は掲示欄の赤字へ目を戻した。
「折る必要がなかったから」
「そっか」
「進路届は、折るけど」
「そこは折るんだ」
「まだ、持ってるから」
それだけ言って、遥人は教室へ向かった。
悠真はその背中を見ながら、すぐには歩き出せなかった。
赤い掲示の前に残された空気が、足首に絡みついているようだった。期限は変わらない。提出欄も、空白のままだ。遥人が何を選ぶのかも、自分が何を選ぶのかも、まだ分からない。
それでも、分からないことを分からないまま置いておくには、明日という日は近すぎた。
教室の中から、教師が出席を取り始める声が聞こえる。
悠真はようやく足を動かした。
掲示欄のガラスに、赤い文字と、通り過ぎる自分の姿が重なっている。笑っていない顔だった。その顔を見ないふりはできたが、今日はそのままにしておいた。
背後で、風が掲示物の角を一度だけ持ち上げた。
赤い線の内側で、明日の日付が揺れた。
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