第3話 まだ言えない

悠真は、隣に立ったまま動かなかった。
屋上の床に散った白いチョークの粉が、風に押されて細い筋をつくっている。筋は遥人の靴先を避けるように伸び、錆びたフェンスの足元で途切れた。
帰ろうと思えば、帰れた。
夕方のチャイムが鳴った。校舎のどこかで、教師が戸締まりを始める音もした。屋上は放課後だけ解放されている。長く残れば、見回りの先生に注意されるかもしれない。そういう理由はいくつも浮かんだ。
けれど、どれもここを離れる理由にはならなかった。
「なに、景色見に来たの?」
悠真は、できるだけ普段の声を出した。
「だったらもっといい場所あるだろ。下のほうに。展望台とか、駅前の立体駐車場とか」
遥人は笑わなかった。
返事の前に、顎を少し引いた。目は悠真ではなく、フェンスの向こうを見ている。バス通りを走る車の列。その向こうに並ぶ住宅の屋根。窓に灯りがつき始めた家々。
遥人の右手で、紙の端が折れた。
「……お前には、まだ言えない」
声は低く、平らだった。
冷たいというより、冷たくしているように聞こえた。感情がこぼれないよう、言葉を一枚ずつ板にして並べている。悠真には、遥人がそういう話し方をする時、内側で何かが崩れかけていることが分かっていた。
分かっているつもりだった。
そのつもりが、今はひどく頼りない。
「俺にだけ?」
口から出てから、聞き方を間違えたと思った。
遥人は紙を見下ろしたまま、少しだけ眉を動かした。
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、誰にも言えない?」
「それも違う」
「違うのに、俺には言えないんだ」
言葉が思ったより早く続いた。悠真は喉の奥で一度、言葉を飲み込んだ。いつもなら、ここで笑いに変える。今のは確認だから、とか、別に傷ついてないけど、とか。そう言えば、遥人も面倒そうに返してくれるはずだった。
だが、遥人は黙っていた。
風がフェンスを鳴らした。金属の薄い音が、遠くの道路へ吸い込まれていく。
「……悪い」
しばらくして、遥人が言った。
「何が?」
「言い方」
「別に。俺も聞き方悪かったし」
「そういうところ」
「どこだよ」
「すぐに自分のほうを悪くするところ」
悠真は遥人を見た。
遥人は、まだ目を合わせなかった。進路届の皺を親指でなぞっている。白い紙に浮いた線は細く、深く、何度も同じ場所を折った跡だった。
「お前、そうやって俺の言ったことを軽くするだろ」
「軽くしたほうが楽じゃん」
「誰が」
「みんな」
「みんなって誰だよ」
遥人の声が、初めて少しだけ揺れた。
「俺か。お前か。それとも、ここにいる誰かか。屋上にいるのは俺たち二人だけだろ」
悠真は返せなかった。
風に冷えた頬が、急に熱を持ったように感じた。自分の指先を見ると、白いチョークの粉が一粒だけ残っている。さっき扉を押したときについたものだろう。爪の脇に入り込み、洗わなければ取れそうにない。
「……遥人」
「何」
「俺、別に軽くしたいわけじゃない」
「でも、そうなる」
「癖なんだよ」
「知ってる」
「場が重くなると、何か言わないといけない気がするんだよ。黙ってると、相手がもっと苦しくなるような気がして。だから、くだらないこと言って、笑えるなら笑ってもらって、それで少しでも楽になればいいと思ってる」
悠真はそこまで言って、言葉を止めた。
遥人が初めてこちらを見た。
視線が合ったのは、ほんの数秒だった。けれど、その短さの中に、責める気持ちと困惑と、うまく名づけられない疲れが混じっていた。
「笑えないときもある」
「うん」
「笑いたくないときもある」
「うん」
「なのに、お前は笑わせようとする」
「……うん」
認めるしかなかった。
悠真が笑いを差し出すたび、遥人は受け取ってくれていた。受け取れないときも、受け取ったふりをしていた。そのふりに気づかないふりをして、悠真はさらに別の冗談を重ねてきた。
それが二人の間で、いつの間にか決まりごとになっていた。
遥人は紙を握り直した。皺の寄った進路届が、乾いた音を立てる。
「俺、家で進路の話をした」
その声は、また硬くなった。
「昨日?」
「その前。何日か前」
「うん」
「親父は、就職したほうがいいって言った。近くの工場で募集がある。知り合いを通せるかもしれないって。母親は、どっちでもいいみたいに言ったけど、どっちでもいいわけじゃない。たぶん、就職してくれたほうが安心する」
遥人はそこで一度、言葉を切った。
「俺も、家のことを考えたら、それが一番まともだと思う。大学へ行く金がないわけじゃない。でも、余裕があるわけでもない。俺が四年行けば、その間に家にかかる金は増える。親父は何も言わないけど、仕事から帰ってくると腕が重そうで、飯を食べるより先に手を洗って、しばらく立ったまま動かないことがある」
悠真は黙って聞いていた。
「だから、就職が嫌だって言ったら、わがままみたいになる。家のことを何も考えてないみたいになる。でも、就職したいかって聞かれたら、分からない。分からないのに、決めろって言われる。決めないなら、こっちで決めるって言われる」
遥人の指が紙の端を押し潰す。
「俺が何をしたいかを聞かれる前に、何が現実的かだけ話が進むんだよ。成績とか、給料とか、通勤時間とか。全部必要なことなのは分かる。分かるから、反論できない」
風が、遥人の前髪を横へ流した。
「でも、反論できないまま決まったら、あとで誰かのせいにすると思う。親のせいにするかもしれない。家のせいにするかもしれない。自分で決めたって言えないまま働いて、嫌になったときに、あのとき決めたのは自分じゃないって思うかもしれない」
遥人は、紙を見た。
「それが嫌なんだ」
悠真はフェンスの向こうへ目を移した。
バスが一台、坂を下っていく。車内の灯りが窓に並び、乗客の顔を一瞬ずつ照らしては消した。帰りたい場所へ向かう人間もいれば、帰りたくない場所へ運ばれている人間もいる。外から見れば、その違いは分からない。
「進学したいの?」
悠真は尋ねた。
遥人はすぐに答えなかった。顎を引き、視線を道路へ落とす。
「分からない」
「そっか」
「分からないけど、就職で決められるのは嫌だ」
「うん」
「そういう言い方をすると、進学したいみたいに聞こえるだろ」
「聞こえるかもしれない」
「でも、大学に行って何をするかも決まってない。勉強したいことがあるわけでもない。機械を触るのは嫌いじゃないし、工場の仕事が全部嫌なわけでもない。だったら、就職してもいいのかもしれない。でも、いいのかもしれないで決めたら、たぶん駄目なんだよ」
遥人は、そこで初めて悠真のほうを正面から見た。
「お前は、そういうの怖くないのか」
質問の形をしていたが、答えを求めている声ではなかった。むしろ、同じ場所に立っている人間を探しているように聞こえた。
悠真は笑いそうになった。
いつものように、怖くないふりをするために。
口角がわずかに上がりかけた。だが、遥人の手の中にある紙が見えた。何度も折られ、握られ、それでも捨てられていない紙。決められないことを恥じながら、それでも決めたふりをしない紙。
「怖いよ」
声にすると、思ったより小さかった。
遥人の眉が動く。
「何が」
「全部」
「全部って」
「何になればいいのか分からないこと。決めたあとで違ったって気づくこと。家の金とか、親の顔とか、そういうのを考えると、好きなことだけ言ってられないこと。あと……」
悠真はそこで息を吸った。
胸の奥が狭くなり、喉の奥に乾いたものが張りついた。言葉を出すたびに、身体の内側に押し込めていたものが、少しずつ擦れていく。
「お前が先にどこかへ行くこと」
遥人は黙った。
「進学でも就職でも、どっちでもいい。お前がちゃんと決めて、俺だけが未定のまま残るのが怖い。お前が別の場所で新しい友達を作って、俺が今までみたいにくだらないことを言っても、もう笑ってくれなくなるのが怖い」
「……それ、進路の話じゃないだろ」
「分かってる」
「俺がどこへ行っても、連絡くらいする」
「そういうことじゃない」
悠真は、自分でも分かっていた。
「俺は、お前に置いていかれるのが嫌なんだよ。だから、何でも軽く言って、お前が困ってるときも同じ場所にいるふりをしてた。俺も未定だから、お前だけが遅れてるわけじゃないって思わせたかったのかもしれない。でも、本当は俺のほうが怖くて、お前が決めるのを見たくなかっただけだ」
言い切ると、屋上が急に広くなった。
音が遠のき、風だけが近くなる。頬を撫でた風が冷たく、汗ばんだ手のひらから体温を奪っていった。
遥人は進路届を見下ろしたまま、何も言わなかった。
悠真は、言い過ぎたと思った。笑ってごまかすための言葉を探したが、もう見つからなかった。ここまで言ってしまうと、冗談はただの逃げ道になる。
やがて遥人が、紙を二つに折った。
「俺も、お前に置いていかれると思ってた」
その言葉は、意外なほど静かだった。
「お前は誰とでも話せるし、どこへ行っても適当に馴染むだろ。だから、俺が何も決められずにいる間に、お前は先に行くと思ってた。俺が就職して、お前が大学へ行って、しばらくは連絡しても、そのうち面倒になって終わる。そうなる前に、こっちから距離を置いたほうがましだと思った」
「だから、言わなかったのか」
「言ったら、引き留められると思った」
「俺が?」
「お前なら、たぶん何か言うだろ。大丈夫とか、まだ時間あるとか、俺たちは変わらないとか」
「言うと思う」
「でも、それを言われたら、信じたくなる。信じて、結局変わったら、今よりきつい」
遥人は一度、目を閉じた。
「だから言えなかった。お前に頼ったら、俺は自分で決められなくなる。お前がそばにいると、決めなくてもいい気がしてしまう。俺が立ち止まっている間、ずっと隣にいてくれる気がして、それに甘えるのが嫌だった」
「……もう甘えてるじゃん」
「そうだな」
遥人は、ほんの少しだけ笑った。
その笑いは、いつもの軽口のときより不器用だった。それでも、さっきまでの硬い声よりは近かった。
夕方のチャイムが鳴った。
今度は屋上まで、はっきり届いた。校舎の壁に反響し、二人の間で一度膨らんでから、丘の向こうへ消えていく。
帰る時間だった。
遥人は進路届を見た。紙の中央には深い皺がある。悠真は、それをまっすぐに戻せるとは思わなかった。どれだけ伸ばしても、折れた場所は残る。けれど、残ったままでも紙として使うことはできるのかもしれない。
「それ、どうするの」
悠真が聞いた。
遥人はすぐに答えなかった。紙の端を、今度は握りつぶさずに指で押さえる。
「今日は、書かない」
「明日提出だぞ」
「分かってる」
「また怒られる」
「それも分かってる」
「じゃあ、どうするんだよ」
遥人は、フェンスの向こうのバス通りを見た。
「明日、先生に話す。進学か就職かを決めたふりをするんじゃなくて、決めるために何が必要か聞く。家にも、もう一回話す。たぶん、また揉める」
「うん」
「お前にも……もう少し早く言う」
「今でいいだろ」
「今は、まだ全部言えてない」
悠真は遥人を見た。
けれど、問い返さなかった。何が言えていないのかを、無理に聞き出したくはなかった。沈黙の中に残っているものを、勝手に自分の想像で埋めるのは違う気がした。
「じゃあ、今日はここまで?」
「たぶん」
「また、たぶん」
「便利だからな」
遥人の声に、わずかに昔の調子が戻った。
悠真は笑った。今度は、場を軽くするためではなかった。笑ってしまった自分を隠すためでもなかった。息が少しだけ通ったことに気づいた、その反応だった。
二人は屋上を出た。
扉を閉める前、悠真は床の白い粉を振り返った。風に散らされ、形を失いかけている。それでも、いくつかはフェンスの足元に残っていた。白い指のような跡が、誰かがここに立っていたことを、まだ消さずにいる。
階段を下りる途中で、遥人が足を止めた。
「悠真」
「ん?」
「明日、進路指導室に行くとき」
「うん」
「……一緒に来てもいい」
誘い方は、遥人らしくなかった。頼みごとに慣れていない人間の声だった。
悠真はすぐに返事をしなかった。代わりに、一拍だけ笑った。いつもの癖が出たことに気づいて、今度は笑いを引っ込める。
「いいよ」
それだけ言った。
遥人は頷いた。視線を外し、制服のポケットへ手を入れる。その手の中で、進路届を折る音はもうしなかった。
校舎の外へ出ると、夕方の空気が少し冷えていた。校庭の向こうから、部活動を終えた生徒たちの声が聞こえる。丘を下る道には、帰宅する自転車が途切れずに流れていた。
悠真は遥人の隣を歩いた。
まだ、遥人が何を選ぶのかは分からない。悠真自身が何を選ぶのかも、分からない。明日の朝、二人が進路届をきれいに埋められる保証もなかった。
それでも、さっきまでとは違っていた。
言えないことが残ったままでも、隣に立つことはできる。答えを渡せなくても、相手の沈黙を勝手に終わらせずにいられる。帰り道のバスが坂を下り、赤いテールランプが薄暗い街の中へ吸い込まれていく。
悠真は鞄の底に入れた自分の進路希望調査の紙を思った。
折れ目のついた白い紙。その空欄は、まだ消えていない。
けれど今は、空白を見ないふりをするために笑う気にはなれなかった。
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