第2話 校舎裏の風

放課後のチャイムが鳴ってから、しばらく経っていた。

教室の窓は半分ほど閉められ、夕方の光だけが、斜めになった机の列を薄く照らしている。廊下からは運動部の掛け声が遠く聞こえた。階段を駆け下りる足音、誰かが笑う声、体育館の扉が乱暴に閉まる音。そのどれもが、校舎の外へ流れ出していく気配を持っていた。

悠真は一度昇降口まで下りかけてから、足を止めた。

机の中に、シャープペンを一本置き忘れた気がした。

気がした、という程度のことだった。なくても困らない。家には替えが何本もあるし、明日の朝に取りに来てもいい。それでも、彼は階段を引き返した。帰る理由を探しているとき、人はたいてい、どうでもいい忘れ物を見つける。

三年二組の教室には、もう誰もいなかった。

開け放された後ろの扉から、廊下の風が入り込んでいる。窓の隙間を抜けた風が、黒板の下に置かれたプリントを一枚だけ持ち上げた。紙は宙でひらりと裏返り、床へ落ちた。表には、模試の日程が印刷されている。赤い丸がいくつもつき、余白には誰かの細い字で「要確認」と書かれていた。

悠真はそれを拾い上げ、教卓の端へ置いた。

自分の机の中を探すと、シャープペンはすぐに見つかった。引き出しの奥で、消しゴムのかすと一緒になっている。ついでに机の脇へ目をやると、床に丸められた紺色のタオルが落ちていた。

遥人の部活用タオルだった。

何度も洗われた布地は色が抜け、端の縫い目が少しほつれている。遥人は物をなくすような男ではない。使ったものは机の横に掛けるか、鞄へ突っ込む。床へ落ちたままにするのは、よほど急いでいたときだけだ。

悠真はタオルを拾い上げた。

布地には、乾ききらない汗と、校庭の土の匂いが残っていた。指先に触れた湿り気はわずかだったが、それが妙に生々しく感じられた。遥人がさっきまでここにいたという証拠のようであり、もうここにはいないという証拠のようでもあった。

「……忘れ物、多くねえ?」

誰もいない教室へ言ってから、悠真は自分で笑った。

笑い声はすぐに消えた。

いつもなら、タオルを持って遥人を探しに行く。部室か、体育館裏か、自販機の前。見つけたら「お前の脱皮した皮、落ちてたぞ」とでも言えばいい。遥人はたぶん、くだらないと言いながらタオルを奪い返す。

けれど今日は、簡単にそうできなかった。

教室を出て廊下へ向かうと、窓の隙間から入った風が、首筋を撫でていった。冷たいほどではない。ただ、汗の引いた肌には、体温を奪うには十分な風だった。

悠真はタオルを鞄へ入れず、手に持ったまま歩き出した。

廊下には人影がほとんどなかった。掲示板の前を通ると、昼間見た赤い数字が目に入った。進路希望提出期限。その文字の周囲には、何人もの指が触れた跡があるのか、紙の端が少し黒ずんでいる。

悠真は足を速めた。

赤い数字から離れれば、何かが軽くなる気がした。だが、階段を下りるつもりだった足は、校舎裏へ続く渡り廊下のほうへ向かっていた。

遥人がどこにいるのか、確かなことは何も分からない。

それでも、屋上かもしれないと思った。

二人でそこへ行くようになったのは、二年の秋だった。昼休みに教室で騒ぎすぎて、担任に追い出されたのがきっかけだった。屋上は放課後だけ解放されていたが、鍵は職員室で借りることになっていて、誰もわざわざ行こうとはしなかった。

その、誰もわざわざ行かない場所がよかった。

授業の話も、成績の話も、家の話も、屋上へ出ると少し遠くなった。風の音が大きく、言葉が飛ばされるからだった。聞き取れないふりもできたし、言わないまま空を見ていることもできた。

悠真は校舎裏へ回った。

校舎の北側は、日が当たらないせいか、昼間でも空気が薄暗い。壁際に置かれた古い自転車のタイヤには泥がこびりつき、排水溝の近くには、誰かが掃き集めた枯れ葉が細く溜まっている。

頭上で、風が鳴った。

最初は樹木の枝が擦れる音かと思った。だが、音はもう一度、少し高いところから響いた。建物の隙間を通り抜ける風が、細い管の中で膨らんでいるような音だった。

屋上へ続く階段の上に、扉がある。

扉は閉まっているはずだった。

悠真は階段を上った。コンクリートの段差に、白いチョークの粉が点々と落ちている。誰かが授業で使ったチョークを持ち出し、ポケットの中で折ったのかもしれない。粉は靴底に踏まれて細く伸び、階段の端に白い指のような跡を残していた。

扉の前まで来ると、隙間から風が吹き出してきた。

錆びた蝶番が、きい、と鳴る。

扉は数センチだけ開いている。

その向こうに誰かいると、悠真には分かった。

人の気配というほどはっきりしたものではない。風の音に混じって、布が擦れるような音がしただけだった。それでも、遥人だと思った。根拠はなかったが、遥人以外の誰かであってほしくないとも思った。

手にしていたタオルを、悠真は握り直した。

もし遥人が一人でいたいのなら、入らないほうがいい。昨日、教室で見た横顔が浮かんだ。赤い掲示を見つめる目。何でも軽く言えるところ、と吐き出した声。あの言葉は、もう冗談の形へ戻せない場所に落ちている。

それでも、扉の前から離れることができなかった。

帰るなら、今すぐ帰ればいい。タオルだけを部室へ置いて、何も見なかったことにすればいい。明日の朝になれば、遥人はいつもの顔で机に座っているかもしれない。悠真もいつものように、くだらないことを言えるかもしれない。

けれど、その「かもしれない」は、赤い期限の数字よりも信用できなかった。

悠真は扉へ手を伸ばした。

金属の取っ手は、夕方の空気を吸って冷えていた。触れた指先から、冷たさが腕へ細く上ってくる。

扉を押す。

風がいっそう強くなった。

屋上の床には、白い粉が薄く散っていた。風に押された粉が、コンクリートの上を細い筋になって走っている。フェンスの向こうには、丘を下る道路が見えた。バスが一台、赤いテールランプを灯しながら、住宅街の坂をゆっくり下っていく。

夕焼けは、思っていたより薄かった。

空の端には橙色が残っているものの、雲の下はもう灰色に近い。遠くの家々では窓に明かりがつき始め、どこかの家から夕飯の匂いが流れてきた。醤油を焦がしたような匂いと、洗濯物が冷えていく匂い。帰る場所がある人間だけが知っている時間が、街のあちこちで始まっていた。

屋上の隅に、遥人がいた。

フェンスから少し離れた場所で、背中をこちらへ向けて立っている。制服の上着は着たままだった。右手には、白い紙が握られている。

進路届だった。

紙は、何度も握りつぶされたあとで開かれたらしい。中央には深い皺が寄り、端は歪んでいる。白い紙なのに、まっすぐだった頃の形がもう思い出せない。

悠真は、声をかけなかった。

遥人は、こちらに気づいていないように見えた。だが、肩のあたりがわずかに動いた。風に煽られたのか、呼吸をしたのか、悠真には判別できない。

手の中のタオルが重くなった。

ここでいつものように声をかければ、何かが壊れるかもしれない。何も言わなければ、すでに壊れかけているものを見過ごすことになるかもしれない。

悠真は一歩だけ進んだ。

靴底が、白いチョークの粉を擦った。

その音で、遥人が振り返った。

二人の目が合う。

遥人の顔には、怒りも驚きもなかった。笑う準備をしていない顔だった。教室で見たものと同じで、けれど、ここではそれを覆うものが何もない。

悠真は、手にしていたタオルを持ち上げた。

「忘れてた」

声が、思ったより軽くなった。

遥人はタオルを見た。次に、悠真の顔を見た。紙を握る指だけが、さらに白くなる。

「……置いといて」

「部活、終わったの?」

「終わった」

「そっか」

「うん」

会話はそこで切れた。

風が二人の間を通り抜けた。タオルの端が揺れ、遥人の手の中の進路届がかすかに鳴る。

悠真はタオルをフェンスの近くへ置いた。遥人のすぐそばではなく、手を伸ばせば届く程度の場所にした。

「昨日のさ」

言いかけて、悠真は止まった。

遥人の視線が、紙へ落ちる。

「昨日の、何」

「いや」

喉の奥で言葉が一度つかえた。

「風、強いなって」

遥人は短く笑った。

笑ったというより、息が口から漏れただけに近かった。

「それ、言いに来たのか」

「まあ。屋上の風の評論家として」

「評論家なら、もう少しまともなこと言え」

「風が強い日は、髪型が崩れる。以上」

「小学生か」

ほんの一瞬だけ、いつもの遥人の声が戻った。

悠真は、その一瞬にしがみつきそうになった。だが、遥人の手の中にある紙を見てしまう。冗談で覆えるほど、その紙は軽くなかった。

「進路届ってさ」

悠真はフェンスの向こうを見たまま言った。

「握ると、そんなに皺になるんだな」

「紙だからな」

「いや、紙でも限度あるだろ。これ、もう一回洗濯したみたいになってる」

「洗濯はしてない」

「そこじゃない」

遥人は返事をしなかった。右手の親指で、紙の端を押し潰している。悠真はそれを見ながら、何かを聞くべきだと思った。

進学か、就職か。

家で何があったのか。

昨日、なぜ屋上へ来たのか。

どれも口にできなかった。

問いは相手へ向けるものに見えて、実際には自分の足元にも突きつけられている。自分なら答えられるのかと考えると、喉がまた乾いた。

遥人が先に口を開いた。

「お前、何しに来た」

「忘れ物届けに」

「タオルを?」

「お前の大事な部活用タオルを」

「大事じゃない」

「じゃあ捨てる?」

「それは困る」

「大事じゃん」

「そういう意味じゃない」

遥人はようやく、少しだけ顔を上げた。だが、笑いは続かなかった。

「……お前は、そうやって何でも別の話にするよな」

風が、フェンスを細く鳴らした。

悠真は返せなかった。

「別に責めてるわけじゃない」

遥人は言った。

「責めてるみたいに聞こえるけど」

「そう聞こえるなら、責めてるのかもしれない。俺も、よく分からない」

「分からないなら、言うなよ」

「分からないから言ってるんだろ」

その声だけが、少し強かった。

遥人は握っていた紙を見下ろした。紙の皺が夕方の光を拾い、白い線になって浮かび上がっている。

「お前には、まだ言えない」

その言葉は、教室で聞いたものより低かった。

悠真は、笑おうとした。けれど、口角は動かなかった。

「そっか」

それだけ言うと、風が二人の間を抜けた。

屋上の隅で、白いチョークの粉が舞い上がる。細かな粉はすぐに地面へ落ちたが、ひと粒だけ、悠真の指の甲に残った。

遥人は進路届を握ったまま、街のほうを見ている。

帰りたくないのに、帰るしかない街の風景が、二人の前に広がっていた。夕方のチャイムが、校舎のどこかで鳴り始める。音は風に削られ、屋上へ届くころには、言葉にならないほど薄くなっていた。

悠真は、隣に立ったまま動かなかった。

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校舎裏の風 - 未提出の屋上 - 誰でも作家life