第1話 赤字の掲示

紙が一枚、教室の中央を滑ってきた。

誰かが机の端を指で弾いたのだろう。白い紙は、窓際の列から二つ、三つと机を渡り、途中で消しゴムのかすに引っかかって止まった。拾い上げた男子が、紙の上部を見て、すぐに隣へ回す。

相沢悠真の前に来たときには、紙の角が少し折れていた。

そこには、進路希望提出期限、とある。文字は印刷された黒だったが、その下の日付だけが赤いマジックで太く囲まれていた。誰かが職員室前の掲示を剥がしてきたらしい。赤い線は何度もなぞられ、紙の繊維まで潰していた。

「はい、来ました。三年生の皆さんを現実に引き戻す一枚」

悠真は、紙を持ち上げたまま声を張った。

「提出期限、明日。つまり今日の夜までは、まだ誰も負けてない」

前の席の女子が吹き出し、斜め後ろから「何に負けるんだよ」と声が飛んだ。別の誰かが「お前はもう未定に負けてる」と言う。教室のあちこちで笑いが起きた。

笑いは、短い間だけ空気を軽くした。

その隙に、悠真は紙を机へ伏せた。赤い数字が見えなくなるように、教科書を上へ置く。指先が机の縁を探り、木の表面に残った細かな傷をなぞっていた。

いつからだろう。進路の話になると、先に身体が知るようになった。肩が固くなり、喉の奥が乾き、指が何かを触っていないと落ち着かなくなる。頭ではまだ笑えると思っているのに、手のほうが先に逃げ道を探している。

「相沢、推薦じゃないんだっけ?」

隣の列から、男子が振り向いた。悪意のない声だった。だからこそ、悠真はいつものように口角を上げた。

「俺? 推薦されるほどの何かがないからね。人間性とか、将来性とか」

「自分で言うなよ」

「将来性はある。たぶん。たぶんって言ってる時点で、だいぶある」

また笑いが起きた。今度はさっきより少し大きい。悠真も笑った。笑いながら、机の中に押し込んだ進路希望調査の紙を思い出した。

そこには、鉛筆で書いた跡がいくつも残っている。

大学名を書いて、消した。職業欄に「未定」と書いて、消した。家から通える範囲、と書いたあと、その言葉が誰のためのものなのか分からなくなって、紙ごと裏返した。

結局、提出した紙には、空欄の横に小さく「未定」と記した。文字が情けなく見えたので、提出する直前にその周りを黒く塗りつぶした。塗りつぶしたことで、かえって未定という言葉が浮き上がった。

教室の前方では、担任が黒板に何かを書いている。チョークが乾いた音を立て、白い粉が細く落ちていく。窓の外は、丘の向こうへ日が傾き始めていた。校庭の端にある鉄棒の影が長く伸び、フェンスの向こうの住宅街には、もう夕飯の支度を始めた家の匂いが流れているように見えた。

見えるはずのない匂いを、悠真は勝手に想像した。味噌汁の湯気。焼けた魚。洗剤の残る台所。家へ帰れば、母親はきっと今日も何かを聞く。まだ決めていないの、と。あるいは、どうするつもりなの、と。

聞き方は変わっても、最後に残る言葉は同じだった。

で、どうするの。

悠真は教科書の下から赤字の紙を引き出し、もう一度眺めた。期限の日付は、ただの数字に見えなかった。誰かが急いで書いた赤い線の内側で、時間だけがすでに先へ進んでいる。

そのとき、廊下側の席で椅子を引く音がした。

高瀬遥人だった。

遥人は立ち上がり、教室の後ろに貼られた進路関係の資料へ歩いていった。普段なら、途中で誰かの机を蹴るふりをしたり、悠真の肩を叩いてくだらないことを言ったりする。今日は何もしなかった。

資料の前に立ったまま、遥人は赤字の紙を見ている。

悠真からは、その横顔が見えた。顎が少し引かれている。制服のポケットに入れた右手が、時折わずかに動いていた。紙か、シャーペンか、それとも小銭でも握っているのか。遠くてはっきりしない。ただ、指先だけが忙しなく何かを折っているように見えた。

「そんなに睨んでも、紙は逃げねえぞ」

悠真は声をかけた。

軽く言ったつもりだった。教室に残った笑いの余韻へ、いつもの調子で言葉を足しただけだった。

遥人は振り返った。ほんの一瞬、こちらを見る。目が合った。

その目の奥に、笑う準備がないことを悠真は見てしまった。

遥人は短く息を吐き、口元だけを動かした。

「逃げたら困るだろ」

「困るの? 追いかけるの面倒じゃん」

「提出物が逃げたら、俺じゃなくて先生が追いかける」

「じゃあ先生に任せよう。大人なんだし」

「それは、いろいろ違う」

返事は普通だった。けれど、その普通さが不自然だった。言葉の一つひとつが整いすぎている。ふざけているのに、声の温度が上がってこない。

遥人は資料から目を離し、ポケットの中の手をさらに深く押し込んだ。

「お前、出したのか」

「何を?」

「進路のやつ」

「ああ。出した出した。もちろん」

悠真は一拍だけ笑った。

「俺の進路は、壮大なスケールで未定」

遥人は笑わなかった。

教室の中では、担任が黒板を消し始めていた。部活へ向かう生徒たちが、椅子を引き、鞄を持ち上げ、友達同士で声を掛け合っている。誰かが窓を閉めると、外の風が一度だけガラスを叩いた。

「未定って、書いたのか」

遥人の声が、さっきより低くなった。

悠真は机の縁をなぞっていた指を止めた。

「まあ、そんな感じ。ほら、俺って可能性を一つに絞らない主義だから」

「そういう言い方、できるのすごいな」

「何が?」

「何でも軽く言えるところ」

声は大きくなかった。だから、近くにいた数人には聞こえなかったかもしれない。だが悠真には、教室のどんな物音よりはっきり届いた。

いつもの遥人なら、こんな言い方をしない。言い過ぎたと思えば、すぐに別の冗談を重ねる。けれど今日は、言葉を引き戻さなかった。

「軽く言ってるだけで、軽いわけじゃないけど」

悠真は笑いかけた。口角だけが上がり、頬がついてこなかった。

「そういうの、あるだろ。重いものを重いまま持つと腕が疲れるから、いったん投げてみるみたいな」

「投げたら拾うの、誰だよ」

「そこは未来の俺が」

「未来の俺って、便利な言葉だな」

遥人は資料の紙を見たまま言った。

「今の俺が何もしなくても、未来の俺が何とかするってことにできる」

悠真の喉が詰まった。

返す言葉は、いくつか浮かんだ。未来の俺だって同じ俺だとか、そんなに真面目に考えるなとか、別に今日決めなくても人生は終わらないとか。どれも言えた。言えば場は戻る。遥人も、いつものように鼻で笑ってくれるかもしれない。

だが、どの言葉も今は薄すぎた。

「……遥人は、出すの?」

やっとそれだけ言った。

遥人は答えなかった。ポケットから手を出し、資料の端を指で二度叩いた。机やフェンスを叩くときの癖と同じだった。苛立っているのか、崩れそうなのか、悠真には分からない。

やがて遥人は、紙の掲示へ目を向けた。

「出すつもりではある」

「つもり」

「つもりは、つもりだろ」

「なんか、言葉のわりに前へ進んでないな」

「お前に言われたくない」

その返しに、ほんの少しだけ昔の響きが戻った。

悠真も笑いそうになった。けれど、笑うには遥人の顔が静かすぎた。頬はこわばり、指の関節が白くなっている。

「俺はいいんだよ。未定だから」

「未定なら、何でも許されるのか」

「許されるっていうか、まだ決めてないだけだろ」

「同じに聞こえる」

遥人はそこで言葉を切った。視線が悠真の肩のあたりへ外れる。悠真には、その仕草が自分とよく似ているように見えた。考え込むと相手の目を見られず、別の場所へ視線を逃がしてしまう。違うのは、悠真が笑って逃げるのに対して、遥人は言葉を硬くして立ち止まることだった。

担任が教卓の前で手を叩いた。

「進路希望の用紙、明日の朝一番に集める。未定の場合も、未定と書いて出すこと。白紙のままは受け取らないからな」

その説明に、何人かがあからさまにため息をついた。

悠真は遥人を見た。遥人は掲示から目を離さなかった。赤い線に囲まれた期限が、夕方の光を受けて、傷口のように見えた。

「なあ」

悠真が呼びかけると、遥人はすぐには振り返らなかった。

「今日、屋上行く?」

言ってから、誘い方を間違えたと思った。いつもなら、部活が終わったあとに自然と向かう場所だった。風が強い日には缶コーヒーを買い、フェンスに寄りかかって、バス通りを眺めながらくだらない話をした。どちらから誘うでもなく、気がつけばそこにいた。

今、その場所を口にすることは、昨日までとは違う意味を持ってしまう。

遥人はようやく振り向いた。口元を少しだけ歪める。

「景色見て、進路が決まるならな」

「決まらない?」

「たぶん」

「じゃあ、決まらないことを確認しに行こうぜ」

悠真は自分でも、ひどい誘い文句だと思った。

遥人は目を伏せた。ポケットの中で、何かが紙のように擦れる音がした。

「……今日は、分からない」

拒絶ではなかった。けれど、約束でもなかった。

悠真はそれ以上、聞かなかった。聞けば、今度こそ軽口が間に合わなくなる気がした。

教室の窓から差し込む光が、机の列を斜めに切っていた。黒板の端に残った白い粉が、赤い期限の数字よりも鮮明に浮かび上がっている。誰かが床に落とした消しゴムのかすを靴先で蹴り、かすは机の脚の下へ転がっていった。

やがて、放課後のチャイムが鳴った。

音は校舎いっぱいに広がり、教室に残っていた生徒たちの動きを一斉に促した。鞄のファスナーが閉まり、椅子が引かれ、廊下へ出ていく足音が重なる。

悠真は机の中から自分の進路希望調査の紙を取り出した。折り目のついた白い紙。その中央には、消しゴムで何度も擦った跡がある。紙は薄く毛羽立ち、指で触れるとざらついた。

遥人はまだ、掲示の前に立っていた。

その背中を見ながら、悠真は紙を鞄の底へしまった。見えないところへ押し込んだつもりだったが、赤い日付だけは目の裏に残った。

明日。

その言葉は、教室を出てからも、丘を下るまで消えなかった。

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