第9話 祠守りの鍵

母に言われたことが、夜のあいだずっと耳に残っていた。

――数珠の玉を、何回弾いたか、数えてきて。

意味のわからない言葉だった。けれど、意味がわからないまま放置しておくと、私の中で別の形に整えられてしまう気がした。祖母の声や、鏡の中の口元や、戸籍の空白のように。

私は手帳を開き、昨夜の欄の下に書いた。

――母は、寺尾さんの数珠の玉を数えてこいと言った。

書き終えたところで、右手が止まった。

「寺尾さん」の「寺」の字が、祖母の古い買い物メモにある字と同じだった。払いの角度も、最後の縦線の長さも、見比べなくてもわかるほど似ている。

私はペンを置き、指先で自分の腹を押した。爪の先が皮膚へ食い込む。痛みがある。痛みは、記憶よりは扱いやすい。そこにあると確認できるし、力を抜けば薄れていく。

朝食のあいだ、母は何も訊かなかった。

味噌汁を温め、椀を並べ、飯の量を揃える。昨日までなら、その手際を見ているだけで落ち着いたはずだった。けれど今朝は、母が私の顔を一度も見ないことのほうが気になった。

「何回だったの」

私が訊くと、母は箸を置いた。

「何が」

「数珠。寺尾さんが弾いた玉」

母は、しばらく湯気の向こうを見ていた。

「数えたの?」

「まだ行ってない」

「じゃあ、行ってから訊けばいいでしょう」

「訊くんじゃない。数えるんでしょう」

母の指が、椀の縁を撫でた。

「灯里。ひささんが何をするかは、ひささんが決めることよ」

「お母さんが言ったんでしょう」

「言っただけ。行くかどうかは、あんたが決める」

「決めていいなら、どうして昨日は行くなと言ったの」

母は顔を上げた。目の下の影が、朝の白い光の中で濃く見えた。

「行ってほしくなかったから」

「でも、行った」

「そうね」

「怒らないの」

「怒っている暇がないのよ」

母は立ち上がり、空になった椀を重ねた。重ねた椀の底が触れ合い、乾いた音を立てる。

「おばあちゃんが死んでから、家の中のものが少しずつ元の位置へ戻ろうとしている。朝顔台も、写真も、あの紙も。全部、誰かの手で動かされたものなのに、最後には決まった場所へ戻される。私はそれを何年も見てきた。だから、あんたまで同じ場所へ戻されるのが嫌なの」

「元の場所って、どこ」

「家の中よ」

「私の元の場所は東京」

母は椀を流しへ運び、水を出した。水音が、言葉の続きを覆い隠す。

「そう言えるうちに、帰りなさい」

「帰る前に、知りたい」

「知れば、帰れなくなるかもしれない」

「昨日も聞いた」

「何度でも言うわ」

「それでも行く」

母の肩がわずかに下がった。諦めたのか、覚悟を決めたのか、私には判別できなかった。

「なら、数えてきて」

「何を」

「ひささんが数珠を弾く回数。ひとつずつ、口に出さずに数えるの。途中で音が変わっても、匂いがしても、顔を見ても、数えるのをやめないで」

「それに何の意味があるの」

母は蛇口を閉めた。

「昔、おばあちゃんに教えられたの。祠へ行くなら、玉の数を忘れるなって。数を忘れたら、自分の名前を忘れるから」

その言葉を聞いたとき、口の中が急に乾いた。

母は振り返らなかった。流し台の中で椀を一枚ずつ洗い、布巾で拭き、棚へ戻していく。いつもと同じ動作なのに、その一つひとつが、何かの儀式のように見えた。

私は手帳を鞄へ入れた。東京から持ってきた安い手鏡も、その隣へ押し込む。朝顔台の鏡を見る勇気はなかったが、自分の顔を確認する道具を、もう何も持たずに外へ出ることもできなかった。

玄関を出ると、雨は上がっていた。

濡れた石垣から土の匂いが立ち、杉の葉の先に残った水滴が、日差しを受けて白く光っている。集落は昼前だというのに静まり返っていた。どこかで草刈り機の音がしたが、山に吸い込まれるように消えた。

坂道を上る。

足元の小石を一つずつ避け、道端に散った椿の葉を踏まないように歩いた。昨日までは、そんなものを気にしなかった。けれど、祖母が何かを捨てず、何かを元の場所へ戻し続けていた姿を思い出すと、散らかったものが急に恐ろしくなった。

散らかったものは、どこへ戻ればいいのかわからない。

だから、誰かに戻される。

石段の手前で、私は頬へ触れた。右頬のほくろは、指先の下にある。目尻の皮膚は柔らかい。唇の形も、自分のものだと感じられた。

けれど、その確認はすぐに不確かになった。

私の顔を確かめているのか、それとも、祖母の顔がどこまで来ているかを確かめているのか、わからない。

祠の前では、寺尾ひさが落ち葉を集めていた。

私が石段を上ると、ひさは箒を止めた。昨日と同じように、最初に喉元を見た。次に手、鞄、靴。それから顔へ視線を移す。

その順番を、私は黙って覚えた。

ひさは数珠を持ち上げた。

一つ。

玉が弾かれる。

私は心の中で数えた。

二つ。

ひさは何も言わない。三つ目の玉を弾く前に、長い沈黙があった。祠の屋根から水滴が落ち、石の上で潰れる。遠くで風鈴が鳴った。

四つ。

五つ。

六つ。

数を追うほど、音が近くなった。玉の触れ合う音ではない。どこか家の奥で鳴っていた、歯を打ち合わせる音。かち、かち、と乾いた響きが、数珠の音の隙間へ入り込んでくる。

七つ。

私は目を閉じなかった。

ひさは私を見ていない。私の影を見ていた。足元へ落ちた影が、私の動きよりわずかに遅れて揺れている。

八つ。

「今、何を見ている」

ひさが訊いた。

私は数えることをやめずに答えた。

「影です」

「誰の」

「私の」

「そう思うかね」

九つ。

「思いたいです」

ひさの指が止まった。

「思いたい、という言葉は便利だね。確かめることを先延ばしにできる」

「確かめに来ました」

「何を」

「私が誰なのか」

十。

数珠の玉が、ひさの指の間で小さく鳴った。

「それは顔で確かめるものではない」

「でも、顔を奪われている」

「奪われるのは顔だけではないよ」

ひさは数珠を膝へ置いた。

「顔が変わる。声が変わる。手つきが変わる。最後に、名前へ触れる。名前は顔より脆い。人は自分の顔を毎日見なくても生きられるが、名前は呼ばれるたびに、他人の口を通って形を変えるからね」

「祖母も、名前を失ったんですか」

「里枝は、失ったのではない。自分の名を隠した」

「どうして」

「お前を守るためだよ」

ひさは祠の板戸を開けた。中から、乾いた木と香木の匂いが流れ出した。甘い白粉の匂いとは違う。苦く、煙に濡れたような匂いだった。

「入るかね」

祠の中には、昨日より多くのものが並べられていた。古い札、折れた櫛、白い布、煤けた木箱。そして、黒ずんだ鉄の鍵が一本、赤い糸で結ばれていた。

私はそれを見た瞬間、胸の奥が狭くなった。

「それは?」

ひさは答えず、木箱の蓋を開けた。

中には記録片が重ねられていた。どれも中央だけが欠けている。名前や日付の部分が、必要な箇所だけ消されていた。私は一枚を取り上げ、紙の縁を見た。

戸籍抄本の断片と同じ切り方だった。

「これ、朝顔台の底にあったものと同じです」

「そうだろうね」

「どうして、名前が消されているんですか」

「名前が残れば、顔が逃げるから」

「意味がわかりません」

「名前は、顔を呼び戻す道になる。だから家は、いらない名前を消す。消された者は、顔だけが残る。顔だけになったものは、鏡の中で誰にでもなれる」

指先が冷えた。

「そんなの、死者を残しているんじゃない。人を空っぽにしているだけでしょう」

「そうだよ」

ひさは即座に言った。

「供養という言葉で包めば、何をしても許されると思っていた。死者を忘れないため。家を絶やさないため。先祖を慰めるため。どれも嘘ではない。だからこそ、悪い。嘘だけなら、誰かが否定できる。真実の一部を含んだ言葉は、長く人を縛る」

木箱の奥に、古い集合写真があった。

私は息を呑んだ。

写真の端に、若い寺尾ひさが写っていた。今よりずっと髪が黒く、背筋はさらに伸びている。その隣に、見知らぬ若い女がいる。頬の形、目尻、右頬の小さな痣。

祖母に似ていた。

いや、祖母が似ていたのだ。

写真の裏には、何人かの名前が書かれていた。寺尾ひさ。柊谷里枝。そして、女の名前だけが削られている。

ひさは写真に手を伸ばさなかった。

「妹さんですか」

「そうだよ」

「この人が、最初の顔継ぎだった?」

「最初ではない。最初から残っている顔などない。誰かが誰かに似るたび、古い顔が新しい顔へ重なる。家はそれを継承と呼ぶ。けれど、継いでいるのは顔ではなく、命令だ」

「命令?」

「この家の者であれ。逃げるな。忘れるな。名前を捨てるな。そう言われ続けた者が、やがて自分の声で同じことを言い始める。そのとき、顔継ぎは完成する」

私は写真を置いた。

「祖母は、命令を私に移したんですか」

「移そうとした者もいる。止めようとした者もいる。里枝がどちらだったか、まだ決めないほうがいい」

「祖母は、手紙に書いていました。顔を貸すことに慣れすぎた、と。私に押しつけるようなことになって、すまないとも」

ひさの目が、初めて私の顔へまっすぐ向いた。

「なら、里枝は最後まで迷っていたんだろう」

「迷っていた?」

「顔を貸す者は、最初から自分を差し出すわけではない。誰かを守るために少しだけ似せる。家の中で揉め事を起こさぬよう、母親の声を真似る。死者を安心させるため、同じ髪型にする。そうやって小さな譲歩を重ねているうちに、いつの間にか、自分の顔を自分で決められなくなる」

ひさの声は静かだった。

「里枝は、お前に顔を継がせたかったのではない。お前が家の中で呼ばれたとき、返事をしないようにしたかった。だから、最後まで鏡台を隠した。けれど、隠すだけでは足りなかった。死ねば、蓋が外れる。あの鏡台は、里枝が抱えていたものを、次に近い顔へ返そうとする」

「次に近い顔って、血のつながりですか」

「血だけではない」

ひさは私の右頬を見た。

「似ていることを、家が見つける」

その言葉と同時に、祠の外で歯を鳴らす音がした。

かち。

私は肩を強張らせた。

かち、かち。

音は祠の背後から聞こえている。杉林の奥に誰かいるような気がした。白い服の人影。祖母の髪を梳く手。振り返れば、何かが立っている。

ひさが手を伸ばし、私の手首をつかんだ。

驚くほど強い指だった。

「振り返るな」

「でも、音が」

「音に顔を与えるな。顔を与えたものは、家の中へ入ってくる」

「あなたは、ずっとこうして見ないふりをしてきたんですか」

「見ないふりと、見ないことは違う」

ひさの手は、まだ私の手首を離さなかった。

「見ないふりは、見えているものをなかったことにする。私は、見えたものをここへ置いてきた。名前のない紙、顔のない写真、返事をしなくなった者の記録。祠は、捨てる場所ではない。捨てられたものが、まだ自分の形を取り戻せるように、預ける場所だ」

「それで、私もここへ預けるんですか」

「お前が望むなら」

「私の名前を?」

「名前は預からない」

ひさは鉄の鍵を手に取った。赤い糸が、指の間で乾いた音を立てた。

「これは祠の鍵だ。柊谷の家へ戻り、朝顔台の裏を探しなさい。鏡台には、正面から見えるものだけがあるわけではない。裏板の内側に、里枝が最後に残したものがある」

「どうして今まで言わなかったんですか」

「言えば、お前は自分の顔ではなく、祖母の答えを探し始めるからだよ」

「祖母の答えを探してはいけない?」

「探していい。ただし、祖母を正解にしてはいけない」

ひさは鍵を私の掌へ押し込んだ。

鉄は冷たかった。掌に触れた瞬間、指先から腕へ、細い震えが走る。鍵の歯には白い粉が詰まっていた。甘い匂いが皮膚へ移る。

「これは、何の鍵ですか」

「名前を戻す鍵だ」

「どこへ戻すんですか」

「自分のところへ」

「そんな場所が、私の中にあるんですか」

「まだある」

その言葉に、背筋が冷えた。

ひさは数珠を取り上げ、再び玉を弾き始めた。

私は数えた。

十一。

十二。

十三。

玉の音は、さっきより遠く聞こえた。代わりに、祠の奥で別の音がしている。誰かが紙をめくっている。乾いた紙が擦れ、指先で文字をなぞる音がする。

十四。

「灯里」

ひさが呼んだ。

私は返事をしなかった。

十五。

「灯里」

今度の声は、祖母に似ていた。

私は鍵を握り込んだ。鉄の角が掌へ食い込む。

十六。

ひさが私の肩を強く押した。

「返事をするな」

「今、私の名前を呼びました」

「名前を呼ぶものが、本人とは限らない」

十七。

祠の板戸の向こうに、人影が立った。

雨上がりの光を背負い、輪郭だけが白く浮いている。顔は見えない。けれど、右手が頬に添えられていた。私と同じ仕草だった。

十八。

人影が、口を開いた。

声は聞こえない。

それでも、何を言っているのかわかった。

――まだ、整っていない。

私は目を閉じた。

祖母の声。母の声。ひさの声。千尋の声。私の声。いくつもの声が重なり、同じ名前を呼んでいる。

灯里。

里枝。

灯里。

里枝。

名前が、紙の上で重なっていく。墨が滲み、輪郭が溶ける。私は自分の名前を言おうとした。

けれど、喉の奥から出てきたのは、別の声だった。

「……里枝」

ひさの手が、私の頬を打った。

乾いた音が祠の中に響いた。

痛みより先に、羞恥が込み上げた。頬が熱い。涙が出そうになった。けれど、ひさは謝らなかった。

「今のは、お前の声ではない」

私は口元を押さえた。

「私が言ったんです」

「違う」

「私の喉から出た」

「喉を使われただけだよ」

「同じことでしょう」

「違う。そこを同じにしたら、戻れなくなる」

ひさの声には、初めて怒りがあった。

「声が自分の喉を通ったからといって、自分の意思とは限らない。家の中で何度も言われてきた言葉を、あんたは自分の考えだと思っているだけかもしれない。母親に従え。祖母を敬え。家を乱すな。顔を汚すな。黙っていろ。そういう言葉が身体に染みて、自分の声を真似することがある」

「じゃあ、どうすればいいんですか」

「言い直せ」

私は鍵を握り直した。

「何を」

「自分の名前を」

喉が震えた。

「私は、柊谷灯里」

声が掠れた。

ひさは何も言わない。

「私は、柊谷灯里」

二度目は、少しだけ声が出た。

「私は、柊谷灯里。祖母の代わりじゃない。家の顔でもない。誰かの記憶を置く器でもない」

言葉を重ねるほど、胸の奥に痛みが増した。顔の皮膚が内側から引かれている。頬の筋肉が、祖母の笑い方へ動こうとする。私は両手で顔を覆った。

「私は、私の顔を持っている」

言いながら、その言葉が嘘に聞こえた。

顔は鏡の中にある。けれど鏡の中の顔は、私の意思で笑うことも、怒ることもできない。顔だけが先に祖母へ行き、私を置いていこうとしている。

「私は、私の名前を持っている」

最後の言葉は、ひさではなく、祠の外の人影へ向けた。

「柊谷灯里」

風が吹いた。

杉の枝が一斉に擦れ、雨粒が屋根を叩いた。人影の輪郭が揺らぐ。白い顔のように見えていたものが、ただの雨上がりの光と木の幹へ戻っていく。

歯を鳴らす音が止まった。

香木の匂いも、少しずつ薄れていく。

ひさは数珠を下ろした。

「十八」

「十八?」

「今、最後に弾いた玉だよ」

私は手帳を開き、震える文字で書いた。

――十八。

書き終えたとき、文字の払いが祖母のものではないことに気づいた。乱れている。傾いている。けれど、その乱れは私のものだった。

ひさは記録片を一枚、私の前へ差し出した。

そこには、若い頃の里枝の名前が残っていた。柊谷里枝。その下に、本来なら続柄や日付があるはずなのに、やはり空白がある。

ただ、今回は違った。

紙の端に、鉛筆で小さく書き足されていた。

――顔を受けた者、名を返すこと。

「祖母が書いたんですか」

「たぶんね」

「たぶんばかりですね」

「死んだ者のことを、確かだと言うのは生きている者の怠慢だよ」

ひさはそう言って、祠の奥から小さな白布を取り出した。その中には、古い鍵穴の形をした金具が入っている。

「朝顔台の裏に、この形の錠がある」

「鍵は、これ?」

「そう」

「祖母は、これを私に渡すつもりだったんですか」

「渡すつもりだったのか、渡さざるを得なかったのか。どちらも同じ顔をしている」

私は鍵を見下ろした。白粉の匂いはまだ残っている。掌の皺に入り込み、何度洗っても落ちないような匂いだった。

「もし、裏板を開けたら、何があるんですか」

「里枝が最後に隠したもの」

「顔ですか」

「顔ではない」

「名前?」

「それも違う」

ひさは板戸を閉めた。

「お前が自分で見つけるものだよ」

「教えてくれないんですか」

「教えれば、また誰かの言葉を自分の記憶にする」

私は鍵を鞄へしまった。

帰ろうとして石段へ向かう。足元の苔は濡れていたが、今度は手すりへ触れた。冷たい鉄が掌に食い込み、その冷たさが妙にありがたかった。自分の身体がまだ、外のものへ触れている。

石段を下りる途中、私は一度だけ振り返った。

祠の板戸は閉じている。ひさの姿は見えない。けれど、戸の隙間から白い紙の端が覗いていた。

そこに、ひらがなで何かが書かれている。

私は目を凝らした。

――あかり。

漢字ではなく、ひらがなだった。

祖母の古い字でも、戸籍に残る柊谷灯里の字でもない。子供の頃、祖母が裁縫箱の布に名前を縫いつけてくれたときの、丸い文字に似ていた。

私はその文字を見つめた。

「灯里」

背後から、ひさの声がした。

振り返ると、祠の板戸の前に、ひさが立っていた。顔ではなく、私の影を見ている。

「今度は返事をしていい」

「誰が呼んでいるんですか」

「お前を知っている者だよ」

「祖母ですか」

ひさはしばらく黙った。

「それを決めるのも、お前だ」

風が杉林を渡っていった。枝葉の擦れる音の中に、かすかに風鈴が混じる。家から遠く離れているのに、柊谷家の軒先と同じ音だった。

私は返事をした。

「はい」

自分の声だった。

少なくとも、その瞬間は。

坂道を下り、家の屋根が見えてきた。二階の客間の窓には、誰も立っていない。雨に濡れたガラスが、灰色の空だけを返している。

私は鞄の中の鍵へ手を添えた。

鉄の冷たさの向こうで、朝顔台が私を待っている。

鏡を見るのは怖い。

けれど、見ないまま誰かに顔を決められるほうが、もっと怖かった。

私は右頬へ触れた。ほくろは、指先の下にある。

その位置を、今度は疑わなかった。

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