第10話 裏板の内側

家へ戻ると、母は廊下の雑巾がけをしていた。
私の足音に気づいても、顔を上げなかった。濡れた床板に雑巾を滑らせ、柱の際に溜まった埃を拭い取っている。朝から何度も掃除をしたのか、廊下には土の匂いと、薄い洗剤の匂いが混ざっていた。
「ただいま」
言ってから、返事を待った。
母は雑巾を絞った。水が桶の中へ落ちる。
「おかえり」
それだけだった。
私は鞄から鍵を出した。掌に白い粉が残っている。指の皺に入り込んだ粉を、親指で擦ると、甘い匂いが立った。
母の手が止まった。
「それ、持ってきたの」
「寺尾さんから借りた」
「借りた?」
「朝顔台の裏を開ける鍵だって」
母はゆっくり立ち上がった。腰を伸ばすとき、片手を柱へ添えた。いつもの母なら、そんな動作を人に見せない。見せまいとするあまり、余計に小さな震えがわかった。
「返してきなさい」
「何があるのか知ってるの」
「知らない」
「知らない人の顔じゃないよ」
母は私を見た。
その視線が頬に触れ、すぐに外れた。顔を見ているのに、見ないようにしている。祖母もそうだった。誰かの顔を確かめるとき、目ではなく手元を見る癖。私が子供の頃、熱を出した夜も、祖母は額に触れる前に、布団の端を整えていた。
「灯里」
母の声は低かった。
「開けるなら、私がいるところで開けなさい」
「止めないの」
「止めても開けるでしょう」
「うん」
「なら、ひとりで開けるよりはまし」
それは許可ではなかった。諦めでもない。母が、また一つ自分の手に戻そうとしているだけだった。
私は客間へ向かった。
襖を開けた途端、白粉の匂いが強くなった。朝顔台は、出ていったときと同じ場所にある。黒漆の天板には、窓から差し込む曇った光が細く乗っていた。
けれど、鏡台の向きが少し違っていた。
正面が、窓ではなく、部屋の中央を向いている。
「動かした?」
背後で、母が息を呑んだ。
「触ってない」
朝、私は確かに窓の方へ向けた。出る前に、引き出しを閉め、鏡面へ布をかけた。その布は今、畳の上に落ちている。
私は鏡を見ないようにして、朝顔台の側面へ回った。裏板は一枚の黒い板で塞がれていた。中央に小さな金具がある。鍵穴は、祠で見たものと同じ形だった。
鍵を差し込む。
奥で、何かが擦れた。
かちり、と音がする。
その瞬間、部屋のどこかで歯が鳴った。
かち。
母の手が、私の腕をつかんだ。
「やめる?」
「今さら無理」
私は鍵を回した。
裏板が、わずかに浮いた。木が膨らんでいるのか、内側から押されているのか、すぐには判断できなかった。指を隙間へ入れると、冷たい風が爪の間を通り抜けた。白粉と香木、それから長く閉じ込められていた紙の匂い。
板を外す。
中には、薄い木箱が収められていた。
木箱の蓋には、墨で一文字だけ書かれている。
灯。
私の名前の最初の一字だった。
母が後ろで呟いた。
「里枝さん……」
「おばあちゃんが書いたの?」
「わからない」
「でも、知ってる」
「知っていることと、見たことがあることは違うの」
母の言葉が、ひさのものと重なった。
私は木箱を取り出した。驚くほど軽い。膝の上へ置くと、蓋の隙間から紙の端が覗いていた。細く折られた紙。その上に、古い櫛が一本置かれている。
祖母の櫛だった。
白い歯の間に、黒い髪が数本絡んでいる。私はそれを抜こうとしたが、指先が止まった。髪の毛の根元に、白いものが付着している。白粉ではない。乾いた皮膚のようにも見えた。
「開けて」
母が言った。
「お母さんが開ければ」
「これは、あんたのために隠されたものよ」
「守るため?」
「たぶん」
その言葉に、私は木箱の蓋を上げた。
中には三つのものがあった。
古い手鏡。封筒。小さな写真。
手鏡は祖母のものだった。柄に深い傷があり、鏡面は曇っている。封筒の表には、祖母の字で「灯里へ」と書かれていた。写真は裏返しになっている。
私は封筒を持ち上げた。
紙は湿っていた。開く前から、誰かの指で何度も触られた跡がわかった。
中の便箋には、短い文章しかなかった。
灯里。
この鏡を見て、自分の顔を探してはいけない。
顔は、探すものではなく、返してもらうものだから。
私はそこで読む手を止めた。
「続きは?」
母が訊いた。
「まだある」
便箋を裏返す。
そこには、祖母の字で、さらに数行が続いていた。
お前が自分の名を呼べなくなったとき、鏡の中の私を信じなさい。
私の顔は、お前を連れていくためにあるのではない。
お前の顔を、家から連れ出すためにある。
母の指が、私の肩へ触れた。
「どういう意味」
「私に訊かないで」
「訊いてるんじゃない。読んでるの」
「読んだなら、わかるでしょう」
「わからないから言ってる」
母は便箋を覗き込み、唇を固く結んだ。怒っているのか、泣きそうなのか、顔だけでは判別できなかった。
私は最後の行へ目を落とした。
その下には、祖母の名前が書かれていた。
柊谷里枝。
だが、その名前の上から、別の筆跡で何度もなぞられている。線が重なり、墨が潰れ、文字がひとつの黒い塊になっていた。
その塊の隣に、鉛筆で小さく書かれている。
――返す相手を間違えないこと。
私は喉が乾くのを感じた。
「お母さん」
「何」
「おばあちゃんは、誰に顔を返そうとしたの」
母は答えなかった。
代わりに、鏡台の正面から、かすかな音がした。
鏡面を指で撫でる音。
すう、と一度。
すう、と二度。
私は振り返りたくなかった。けれど、見なくてもわかる。鏡の中に誰かがいる。私の背後にではなく、私のいる部屋そのものを映して、こちらを待っている。
母が私の名を呼んだ。
「灯里」
私は返事をしなかった。
鏡の中から、声がした。
「灯里」
祖母の声ではない。
母の声でもない。
私の声だった。
私は木箱の中の小さな手鏡を掴んだ。鏡面を自分へ向ける。そこに映った顔は、頬の線も、目尻の形も、まだ私のものだった。
けれど、口元だけが笑っていた。
私が笑っていないのに。
手鏡の中の私は、唇をゆっくり動かした。
声は聞こえなかった。
それでも、何を言っているのかはわかった。
――返して。
その瞬間、朝顔台の鏡面が白く曇った。
曇りの中央に、指で文字が書かれていく。
ひらがなで。
あかり。
続いて、その下に、別の文字が浮かんだ。
りえ。
二つの名前が、鏡の中で上下に並んだ。
母が私の手を握る。指が食い込むほど強い。
「見ないで」
「もう見てる」
「目を閉じて」
「閉じたら、何が返されるの」
母の返事はなかった。
鏡の奥で、祖母の顔がゆっくりと浮かび上がった。輪郭は私のものなのに、目だけが里枝だった。白粉を塗った頬が、私の顔の上へ重なっていく。
そして祖母は、鏡の中で手を上げた。
頬ではなく、喉元へ触れた。
私の喉が、同じように動いた。
「名前を返して」
今度は、声が出た。
私の口から。
隣で母が、短く息を吸った。
鏡の中の文字が崩れ、白い粉になって落ちていく。畳の上に積もった粉の中から、小さな紙片が一枚だけ現れた。
私はそれを拾った。
紙には、祖母の字で一行だけ記されていた。
――私の顔を壊せば、お前の顔が戻る。
その下に、もう一行があった。
――ただし、戻る場所が残っていれば。
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