第8話 沈黙が破れる夜

手紙を手帳に挟んだまま、私は座敷から出た。

廊下の空気は、奥座敷のそれよりいくらか軽かった。けれど軽いというだけで、澄んではいない。線香の匂いの底に、まだ白粉の甘さが沈んでいる。私は台所の灯りがまだ点いているのを見て、足を止めた。こんな夜更けに、母が起きている。

襖の隙間から覗くと、美鶴は食卓に向かって座っていた。背を丸め、何かを見つめている。近づくと、それが千尋から預かった保存箱だとわかった。蓋は半分開いていて、中の写真が覗いている。

私が入っていっても、母は顔を上げなかった。

「見たの」

短く言うと、母の指が写真の端に触れた。比較プリントだった。目尻、口角、顎の角度を並べて示した千尋の筆跡が、裏面に小さく読み取れる。

「見た。あんたの部屋に置きっぱなしだったから」

「勝手に見ないでよ」

「勝手に見られて困るものを、台所の近くに置いておいたのはあんたでしょう」

母はそう言ってから、初めて顔を上げた。灯りの下で、目の下の影がいつもより深く落ちている。疲れているのではない。何かに耐えている顔だった。

私は鞄から手帳を出し、昼間に見つけた戸籍抄本の断片をもう一度机に広げた。日付も続柄も欠けた紙片。里枝の名だけが、やけに整った字で残っている。もう一枚、奥座敷で見つけた手紙も並べた。

「おばあちゃんが私に書いた手紙。途中までしかない。誰かが、続きを切り取った」

母の指が、一瞬だけ止まった。息を止める、その短い間を、私は見逃さなかった。けれど母はすぐに、いつもの速さで手を動かし、割烹着の端を撫でた。台所の水音を止めたまま、何かを数えるような沈黙が、食卓の上に落ちた。

「疲れてるだけでしょ」

声というより、もう習慣だった。言葉の形を保つためだけに吐き出された音。私は母の視線が、写真でも手紙でもなく、机の角や自分の指先ばかりを追っていることに気づいていた。母は何かを知らないのではない。知っていて、見ないふりを続けている。そのやり方を、何十年もかけて自分の体に染み込ませてきたのだ。

「お母さん」

私は低く呼んだ。祖母の声に似ていると言われたあの響きが、また自分の喉から漏れた気がしたが、今は構わなかった。

「写真が証明してる。顔が変わってる。手紙には、顔を貸すことに慣れすぎた、って書いてあった。おばあちゃんは、何かをずっと続けてきた。お母さんはそれを知ってる。でなきゃ、こんなふうに目を逸らせない」

母は長いあいだ黙っていた。

台所の電灯が低く唸り、虫の声が窓の外で途切れることなく続いていた。母の手が、写真の端を一枚ずつ、意味もなくそろえ始める。角を合わせ、机の縁と平行に置く。私が苛立ちを覚えるほど丁寧な、逃げるための手つきだった。

「灯里」

ようやく口を開いたとき、母の声は、今までに聞いたことのない低さだった。

「あんたは、私がこの家で何をしてきたと思ってるの」

「知らない。知らないから訊いてる」

「段取りよ」

母は写真から目を離し、台所の壁を見た。古い柱時計が、秒針の音を小さく刻んでいる。

「葬式の段取り、親戚の座る順番、香典返しの数、誰がいつ帰るか、誰にどの料理を出すか。私はそれだけをやってきた。それが私の役目だと思ってきたから。おばあちゃんが何を抱えていたかなんて、考えないようにしてきた。考えれば、段取りが狂うから」

「でも、知ってたんでしょう」

「知ってたわよ」

母はそう言った瞬間、自分の声の強さに驚いたように、一度目を伏せた。けれど続けた。もう止まらない様子だった。

「私が中学生の頃、おばあちゃんが鏡台の前で、自分の頬を何度も押さえているのを見たことがある。あの人は、鏡を見るたびに、自分の顔が誰かのものに見えるって言っていた。誰にも言うなって口止めされたけど、私は子供だったから、怖くて、面白くて、ずっと覚えてた。大人になってから、あれが何だったのか、だんだんわかるようになった。わかっても、どうすればいいか、わからなかった」

「どうしてお母さんのところで止まらなかったの」

「止めようとしたわよ」

母の指が、写真の角から離れ、今度は自分の手のひらを強く握った。

「若い頃、私はこの家を出ようとした。お父さんと二人で、ここを離れようとしたの。おばあちゃんが鏡台を処分しろって言っても絶対に頷かなかったとき、私はそれを、ただの頑固な老人の我儘だと思っていた。意地を張って、自分だけは家を出て、全部を捨てられると思っていた」

「でも、戻ってきた」

「おばあちゃんが倒れたから」

母は小さく笑った。笑ったように見えたが、それは痛みを堪える顔に近かった。

「戻ってきたとき、あの人は寝たきりのくせに、鏡台のことだけは気にしていた。誰にも触らせるな、誰にも見せるな、って。私はそのとき初めて、あれはただの頑固さじゃなくて、何かを守ろうとしているんだとわかった。けれど、わかったところで、何を守っているのかまでは教えてもらえなかった。訊いても、はぐらかされた。あの人は最後まで、私を巻き込まないようにしていた」

「それなら、私を巻き込まないでよ」

声が震えた。私は自分の中で膨らんでいく感情が、怒りなのか、悲しみなのか、まだ判別できずにいた。母はそれを見て、初めて目を合わせた。

「巻き込みたくて黙っていたんじゃない」

母の声には、初めて聞く種類の疲労があった。

「灯里。私はね、あんたが東京で暮らしているあいだ、ずっと安心していたの。この家から離れていれば、何も起きないと思っていた。鏡の話も、顔継ぎの話も、全部、過去のものにできると思っていた。でも、おばあちゃんが死んで、あの鏡台を納戸から出した瞬間、私は怖かった。あんたが運ぶのを止めるべきだったのに、止められなかった」

「どうして止めなかったの」

「止めれば、理由を話さなきゃいけなかったから」

母の目が、初めて濡れた。

「理由を話せば、あんたを縛ることになる。話さなければ、あんたは知らないまま、何かに巻き込まれる。どっちを選んでも、私はあんたを守れなかった。だから私は、どちらも選ばずに、見ないふりをすることにしたの。それが一番卑怯なやり方だって、わかってた」

私は手帳の上の手紙を見た。灯里へ、という一行だけが、他の文字よりしっかりと書かれている。祖母もまた、同じ選択の前に立っていたのだろう。話せば縛る。話さなければ巻き込む。その板挟みの中で、里枝は鏡台を手放さず、美鶴は目を逸らし続けてきた。二人のやり方は違っても、根にあるものは同じだった。

「お母さんは、私に何を隠してるの。今も」

母は長く沈黙した。台所の電灯の下で、割烹着の皺だけが、そこにある年月の重さを示していた。

「寺尾さんのところへ、もう行ったんでしょう」

「行った」

「何を聞いた」

「顔継ぎのこと。おばあちゃんが、何かを抱える側だったってこと」

母の喉が小さく動いた。

「だったら、もうほとんど知ってるのね」

「ほとんどじゃ足りない」

「足りなくても、それ以上は、私の口からは言えない」

「どうして」

「言えば、あんたの中の何かが、決まってしまう気がするから」

母はそう言うと、写真の束をゆっくりと保存箱へ戻した。蓋を閉じる手つきは、いつもの几帳面さを取り戻していたが、その速さはさっきまでより、はるかに遅かった。

「灯里。これだけは言っておく」

母の声が、低く、けれどまっすぐに届いた。

「おばあちゃんは、あんたを憎んで鏡台を遺したわけじゃない。あの人なりの、不器用な守り方だったんだと思う。それが正しかったかどうかは、私にはわからない。でも、あんたがその続きを、自分で決める権利だけは、誰にも奪わせたくない」

母はそれだけ言うと、椅子を引いて立ち上がった。割烹着を外し、丁寧に畳んで椅子の背にかける。その背中は、台所の灯りの中で、いつもより小さく見えた。

「もう遅いから、寝なさい」

言葉はいつもの母に戻っていた。けれど、襖の向こうへ消える前に、母は一度だけ振り返った。

「明日、もう一度、寺尾さんのところへ行くなら」

「行くなら?」

「数珠の玉を、何回弾いたか、数えてきて」

意味のわからない言葉を残して、母の足音は寝室へ消えていった。

私は食卓にひとり残された。保存箱の中で、写真がかすかに擦れる音がした。誰かが頷くような、小さな音だった。窓の外では、風鈴がもう一度鳴り、長い夜の底へ沈んでいった。

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