第7話 座敷の呼び声

保存箱を抱えて家へ戻った夜、私は母に何も言わなかった。
言えば、また「見ないで」と言われるだけだとわかっていたからだ。美鶴の声はもう、私の中で予測できるものになっていた。疲れてるだけでしょう。古い紙なんて欠けるものよ。見なければいいの。そのどれもが、母が自分を守るために積み上げてきた言葉の壁だということも、今はわかる。わかったところで、壁の向こうへ行かずに済むわけではない。
台所の灯りが消え、母の寝室の襖が閉まる音を確かめてから、私は客間へ戻った。朝顔台は、夕方のままの姿で壁際にあった。黒漆の表面に、豆球の淡い光がぼんやりと滲んでいる。私はしばらくその前に立ち尽くし、鏡の奥にある暗がりを見つめた。
この家の中で、祖母が最後まで座っていた場所がある。奥座敷――仏間の隣の、八畳の和室だ。葬儀のあいだ、親族たちはそこへ入ることを避けていた。理由を訊いても、誰も答えなかった。ただ、里枝が倒れる前日まで、毎朝そこで髪を梳いていたということだけは、美鶴の口から一度だけ聞いたことがあった。
鏡が顔を変えるのなら、顔を変えられる前の祖母が最後にいた場所で、確かめなければならない。
私は朝顔台の脚を抱え上げた。重さはもう驚くほどのものではなかった。幾晩も鏡の前に座り続けたせいか、この重みのほうが、むしろ自分の身体の一部のように馴染んでいた。
廊下を進むあいだ、足の裏に伝わる板の冷たさが、いつもより鋭く感じられた。雨上がりの湿気が畳からも廊下からも立ちのぼり、家全体が深く息を吐いているようだった。窓の外では、杉の葉先から落ちる雫が、庭石の上で小さな音を立てていた。ぽつり、ぽつり。その音の合間に、どこか遠くで風鈴が鳴った。ちり、と硬い音がして、すぐに止んだ。
奥座敷の襖の前で、私は一度立ち止まった。
この襖を開ければ、もう後戻りはできない。そんな気がした。けれど、ここまで来て引き返すほうが、よほど恐ろしかった。知らないまま東京へ帰り、知らないまま祖母の記憶を古い鏡台の中に閉じ込めたまま生きていくことのほうが、私にはもう耐えられそうになかった。
襖を引く。
乾いた木の匂いと、長く誰も座らなかった畳の匂いが、薄闇の中から流れ出してきた。畳の目は夕方の湿りをまだ含み、雨上がりのような冷たさが、座り込んだ私の膝へゆっくりと上がってくる。
部屋の中央に、朝顔台を据えた。黒漆の脚が畳にわずかに沈み込み、そこで初めて根を下ろしたかのように静止する。私はしばらく手を離せなかった。指先に残る木肌のざらつきを見つめながら、ここが祖母の居場所だったのだと、今さらのように思い知らされていた。
襖の向こうで、風鈴がもう一度鳴った。
そして、その奥から――家のさらに奥深くから――歯を小さく打ち合わせるような音が、かすかに聞こえた。
かち。
一度だけ。
私はもう、その音に怯えて逃げ出すことはしなかった。ひさの言葉を思い出す。――耳で追うと、呼ばれる。けれど今は、呼ばれることを拒むために来たのではない。呼んでいるものの正体を、この目で確かめるために来たのだ。
朝顔台の曇りガラスの小扉には、白粉の白がうっすらと曇っている。私は指先でその縁をなぞった。乾いた粉が皮膚に触れ、甘い匂いがふわりと立ちのぼる。香木の匂いが、畳の上の空気をゆっくりと撫でていくのが分かった。苦く、湿った匂い。祠で嗅いだものと同じだった。
私は小扉を開けた。
鏡面が、薄闇の中でわずかに光を宿している。覗き込む前に、私は一度深く息を吸った。吸った息の奥に、白粉と香木の匂いが混ざり合って沈んでいく。
「おばあちゃん」
声に出した瞬間、鏡の奥の暗がりが、ほんのわずかに揺れた。
空気が動いたのかもしれない。光の加減だったのかもしれない。それでも私は、もう一度名前を呼んだ。
「里枝おばあちゃん」
返事はなかった。けれど、鏡面の奥で何かが息をしたような気配だけが、確かに残った。耳では聞こえない。けれど、肌のどこかで、長く止めていた呼吸がようやく解けたような、そういう感触があった。
私は自分の顔を覗き込んだ。
そこにあるのは、紛れもなく自分の顔のはずだった。けれど、頬の線がいつもより柔らかく見え、目尻がわずかに下がっている。唇の端が、誰かに促されたように、静かに持ち上がっていた。
祖母の笑い方に似ている――そう気づいた瞬間、喉の奥がかすかに痺れた。甘い痺れだった。恐怖だけではない、もっと別の、懐かしさに似た何かが混じっていた。幼い頃、祖母の膝に頭を預けて髪を梳かれたときの、あの安らぎに似た感触。けれど安らぎの底に、ひんやりとした手のひらが沈んでいるような、そんな二重の感覚だった。
私は目を逸らさなかった。ここで逸らせば、また「気のせい」の側へ逃げ込んでしまう。それはもう許されない気がした。
鏡の中の私が、ゆっくりと瞬きをした。
私も、同じ速さで瞬きをした。
それが本当に同時だったのか、わずかにずれていたのか、確かめる術はなかった。ただ、鏡の表面に浮かぶ顔が、少しずつ、確かに、祖母の輪郭へと歩み寄っているのを、私は認めないわけにはいかなかった。
引き出しに手をかける。
黒漆の取っ手は、いつものように冷たかった。引くと、底に白粉の小瓶があった。白い陶器の蓋には、指で何度も触れた跡が、薄い光の輪のように残っている。何十年ものあいだ、同じ指が、同じ箇所を、同じ角度で撫で続けてきたのだと分かる跡だった。
その脇に、折り畳まれた紙があった。
私はそれを取り出し、膝の上で広げた。
筆圧の弱い、震えた字だった。祖母の字だと、一目でわかった。けれど、普段見慣れていた買い物メモや年賀状の字とは違う。もっと内側から絞り出すような、力を振り絞って書かれた文字だった。
手紙は、途中までしか書かれていなかった。
――灯里へ
その一行だけが、他の文字よりやや大きく、しっかりとした筆致で記されている。まるで、そこだけは絶対に震えさせてはならないと、祖母が自分に言い聞かせながら書いたもののように。
続く文章は、何度も書き直された跡があった。墨の色が途中で変わり、文字の大きさも揺れている。
――この鏡台を、お前に押しつけるようなことになって、すまないと思っています。けれど、どうしても、誰かに頼まなければならないことがあって
そこで一度、文章が途切れていた。次の行には、別の時間に書かれたとわかる、少し薄い墨の跡が続く。
――私は、この家に長くいすぎました。顔を貸すことにも、慣れすぎてしまった。けれど灯里、お前だけは
その先が、紙の破れで読めなかった。千切れたのではない。誰かが、意図してそこだけを切り取ったような、不自然にまっすぐな断面だった。
私は紙片を両手で持ち、残された文字を何度も読み返した。顔を貸すことにも、慣れすぎてしまった――その一文が、喉の奥に冷たい石のように落ちていく。
鏡の中で、私の口元がまた動いた。
私は動かしていない。
唇の形だけが、何かを言いかけて、途中でやめた。祖母が何度も見せていた、あの沈黙の仕草だった。
「おばあちゃんは、私に何をさせたかったの」
声に出した問いは、畳の上に落ちて、そのまま誰にも拾われずに沈んでいった。襖の向こうで、風鈴がもう一度鳴る。かち、と小さく歯を鳴らすような音が、今度は確かに、この座敷のすぐ外から聞こえた。
香木の匂いが、濃くなっていく。
私は手紙を手帳の間に挟み、鏡台の小扉をそっと閉じた。黒い板面が、光を吸い込むように静まる。けれど、閉じたあとも、紙の上に残された「灯里へ」という一行だけが、瞼の裏にくっきりと焼きついて離れなかった。
それは呼びかけだった。祖母が、死んでなお、まだ言い終えていない何かを、私に向けて差し出している呼びかけだった。
私は暗い座敷の中で、ひとり、その続きを探し始めていた。
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