第6話 比較プリント

町へ下りる道は、雨を含んだ土の匂いが濃かった。
杉林を抜けると、空が急に広くなった。山の端に沿って雲が低く垂れ、集落の屋根瓦を鈍い色に染めている。私は手帳を鞄の底へしまい、何度も表紙を押さえた。祠で書いた名前が、そこに残っていることを確かめるためだった。
――私は、柊谷灯里。
指でなぞらなくても、文字の形が思い浮かぶ。けれど、その字を書いたのが本当に私なのか、手帳を開くたびに確信が薄れていった。紙の上の名前は動かない。それなのに、顔だけが動いている。
町の写真館は、商店街の外れにあった。昔は隣に薬局と文具店が並んでいたが、今はどちらもシャッターを下ろしている。写真館の看板だけが色褪せながら残り、ガラス戸の内側には、古い七五三の写真や証明写真の見本が並んでいた。
玄関を開けると、薬品と紙の匂いが重なって鼻をくすぐった。
「いる?」
声をかけても返事はなかった。奥の暗室から、機械の低い作動音が聞こえている。私は店内へ入り、カウンターの脇に立った。展示された写真の中で、知らない家族が一様に笑っている。父親も母親も子供も、撮られる瞬間だけは同じ方向を向き、同じ明るさの中へ顔を置いていた。
その整い方が、今は怖かった。
「灯里」
暗室の扉が開き、早瀬千尋が出てきた。黒いシャツの袖を肘まで捲り、手には薄いゴム手袋をつけている。表情には驚きも慰めも浮かんでいなかった。ただ、私の右頬を見て、それから手帳の入った鞄へ視線を落とした。
「ひささんのところへ行った?」
私は答える前に、指先で爪の脇を押した。痛みがある。ここにいる、と確かめるための小さな痛みだった。
「どうして知ってるの」
「靴が濡れてる。祠まで行く道は、今朝の雨ならそこだけ泥がつく」
千尋はそう言って、カウンターの下から白い封筒を取り出した。封筒の表には、日付と時刻が細い字で書かれている。私はそれを見ただけで、喉の奥が固くなった。
「先に見せたいものがある」
「何を?」
「写真」
千尋は封筒を開け、中身をカウンターの上へ並べた。白い印画紙が四枚。どれも、同じ場所、同じ角度から撮られている。最初の一枚には、朝顔台を運び込む前の私が写っていた。祖母の葬儀へ向かう前、東京の部屋で撮った写真だった。
私はその写真を見たことがなかった。
「いつ撮ったの」
「葬儀の前の日。灯里が駅へ向かう前に、店へ寄っただろう。証明写真の焼き増しを頼んでいた」
「覚えてない」
「覚えていなくても、記録は残る」
千尋は写真の裏を返した。撮影日と時刻、フィルム番号、焼き付けに使ったレンズの種類まで書かれている。文字は整っていて、余白には小さく「目立った差異なし」と記されていた。
「差異なしって、何のこと?」
「この写真を焼いたときには、特に気にならなかった」
「今は?」
千尋は答えず、二枚目を私の前へ滑らせた。
葬儀の翌日、朝顔台を客間へ運び込んだあとに撮ったものだった。私は驚いて顔を上げた。写真の中の自分は、黒い喪服を着て、口を固く結んでいる。頬は疲れている。目の下には影がある。
けれど、目尻の線が、今の私より明らかに下がっていた。
「これ、いつ撮ったの」
「一昨日の夕方。灯里が店の前を通ったとき、呼び止めて撮った。顔色が悪かったから」
「私、撮られるなんて聞いてない」
「聞いた。忘れているだけ」
その言葉に、腹の底が冷えた。
「忘れてない。そんなこと、聞いてない」
「じゃあ、写真が間違っている?」
千尋の声は静かだった。責めているのではない。ただ、逃げ道を塞ぐために、必要な問いだけを置いている。
私は写真を手に取った。印画紙の表面は乾いていて、指先にわずかなざらつきが残った。右頬のほくろは、まだ本来の位置にある。目元も、祖母に似ているとはいえ、疲労や光の加減で説明できる範囲だった。
「これは、普通の写真でしょう」
「三枚目を見て」
千尋が出した写真には、今日の私が写っていた。
祠へ向かう前、写真館の前で撮ったものらしい。私は店に入った覚えがない。けれど写真の中の私は、ガラス戸の前に立ち、こちらを見ている。顔の輪郭が二日前より柔らかく、口元には薄い笑みがあった。
私は笑っていない。
「いつ撮ったの」
「今朝」
「私が来る前?」
「来た直後。店の外に立っていたから、ガラス越しに撮った」
「声をかけた?」
「かけてない」
「どうして」
千尋は写真の端を指でなぞった。彼は気になる点があると、いつもそうする。余白を何度も撫でながら、見えない傷を確かめるように。
「呼んでも、灯里が振り向かなかった」
「聞こえなかっただけよ」
「三回呼んだ」
私は反論しようとして、言葉を失った。
写真の中の私は、ガラス戸の向こうを見ている。けれど視線の先にいるのは、店の中の千尋ではない。暗い奥、古い引き伸ばし機の置かれたあたりを、祖母が見ていたときと同じ目つきで見つめていた。
「この写真、消して」
「消せない」
「じゃあ、捨てて」
「捨てない」
千尋は短く答えた。いつもより硬い声だった。
「写真は、見たものを残すためにある。都合が悪いから捨てるなら、俺が撮る意味がない」
「私の顔が変わっているのを残して、何になるの?」
「変わっていることを、変わっていないと言わせないため」
私は笑おうとした。喉だけが動いて、頬の筋肉がついてこなかった。
「誰に言わせないの。母? 祖母? それとも、私自身?」
千尋は返事をしなかった。代わりに四枚目の写真を出した。
古い集合写真だった。
柊谷家の座敷で撮られたものらしい。写真の裏には、昭和の年号と、参加者の名前が書かれている。中央に祖母の若い頃の姿があり、その隣には、見覚えのない女が座っていた。顔はよく似ている。目尻の下がり方も、唇の薄さも、右頬にある小さな痣の位置さえ、祖母と同じだった。
その女の名前だけが、裏面から削り取られている。
「これ、誰?」
「わからない」
「わからない写真を、どうして見せるの」
「わからないから残してある」
千尋は一度、写真を裏返した。そこには薄く、消し跡だけが残っていた。紙を削った部分は毛羽立ち、何度も名前を消そうとした指の熱まで閉じ込められているようだった。
「この人、祖母にそっくり」
「順番が逆かもしれない」
「どういう意味?」
「里枝さんがこの人に似たんじゃなくて、この人の顔を里枝さんが受けた」
私は写真から目を離せなかった。若い祖母は、今よりずっと痩せていて、髪をきつく結っている。けれど、その笑い方だけは知っていた。何かを言いかけて飲み込み、相手に合わせるために口角だけを上げる笑い方。
それが、写真の中の私にも浮かんでいた。
「ひささんに聞いたの?」
「聞いてない。聞いても、たぶん全部は答えない」
「じゃあ、どうしてそんなことを言えるの」
「写真を見ているから」
千尋は古い集合写真と、今の私の写真を横に並べた。二つの顔のあいだに血縁の説明を置くには、似方が細かすぎた。目や鼻の形ではない。表情が生まれる前の、皮膚の待ち方。笑う直前に頬へ集まる影。視線を伏せる角度。
それらが同じだった。
「灯里、顔は固定されたものじゃない。光や体調でいくらでも変わる。写真にも撮影者の癖が出る。だから、俺は一枚だけで何かを決めない。角度を揃えて、距離を揃えて、時間を記録して、何枚も並べる。それでも同じ変化が出るなら、気のせいとは言えない」
千尋は淡々と話していた。けれど、その淡々とした言葉の奥に、私を現実へつなぎ止めようとする意志があった。
「写真が正直なら、私の顔は本当に変わっているのね」
「写真は、だいたい正直だ」
「だいたい?」
「撮る人間がいるから。光を選ぶし、残す範囲も選ぶ。だから、完全には正直じゃない」
「じゃあ、何が正しいの」
「正しいかどうかじゃない。残っているかどうかだ」
千尋は私を見た。
「灯里が今の顔を覚えていなくても、写真には残る。灯里が自分の名前を疑っても、裏に日付を書いておけば、その日にその顔が存在したことだけは消えない。だから、俺は撮る」
その言葉が、胸の奥へゆっくり沈んだ。
「私が自分でなくなっても?」
「そのときは、なくなる前の灯里を見せる」
「見せられたら、戻れるの?」
「わからない」
「わからないのに、残すの?」
「わからないから残す」
千尋の声には、初めてわずかな苛立ちが混じった。
「俺は、昔からそうしてきた。誰かが見たものを気のせいにして、なかったことにするのを見てきた。家族写真から一人だけ消されていても、名前が書き換えられていても、みんな理由を訊かなかった。写真が残っているのに、写っている人間のほうが嘘をついているみたいに扱われる。そんなのは記録じゃない。ただの都合だ」
「この写真も、誰かの都合で名前を消されたの?」
「たぶん」
「祖母が消したのかしら」
「わからない」
「母は知ってる?」
「わからない」
「じゃあ、何ならわかるの」
千尋は少し黙り、三枚の写真を揃えた。角を合わせ、机の端と平行に並べる。その動作に、私が座布団を直すときと同じ執着があった。
「今の灯里が、二日前の灯里と同じではないこと」
私は写真へ視線を戻した。
その瞬間、口元が勝手に動いた。
頬の筋肉が引かれ、唇の端が上がる。笑おうとしたわけではない。なのに、写真の中の祖母と同じ形になった。
千尋の目が、私の顔から写真へ移る。
「今、笑った?」
「笑ってない」
「でも、口元が」
「笑ってない」
私は強く言った。言ったはずなのに、声の終わりが柔らかくほどけた。祖母が使っていた、相手の言葉を否定せずに受け流す語尾だった。
「……そうねえ」
自分の口から出た声に、私は凍りついた。
千尋も動かなかった。
「今の言い方、やめて」
「何が」
「その返し方。里枝さんと同じだ」
私は唇を押さえた。指先に触れた皮膚は、自分のものだった。柔らかく、少し冷たい。けれど、口の中に残った声だけが、私より先に祖母のほうへ行ってしまった気がした。
千尋はカウンターの下から、小さな手鏡を取り出した。現代の安物で、枠は薄い銀色だった。私が東京から持ってきたものと似ている。彼は鏡面を伏せたまま、私の前へ置いた。
「朝顔台を見ないで、これを見て」
「今、鏡は見たくない」
「だから、これを見てほしい」
「同じでしょう」
「同じじゃない。これは灯里が自分で買った鏡だ」
その言葉に、私は手鏡へ目を落とした。
祖母の朝顔台は、家の中にあった。誰かの手で磨かれ、誰かの記憶を吸い、誰かの顔を待っている。けれどこの手鏡は、東京の駅前で私が自分で選んだ。軽くて、薄くて、持ち歩ける。傷がつけば捨てられる程度のものだ。
私はそれを手に取った。
鏡面に顔が映る。
目尻は下がっていた。頬の線は柔らかい。右頬のほくろは、やはり本来の位置より内側に見える。
「……これも同じ」
「朝顔台を見たあとだからかもしれない」
「じゃあ、私の顔そのものが変わったの?」
「そうかもしれない」
千尋の答えは、慰めるために作られていなかった。だからこそ、怖かった。
私は手鏡を伏せた。机の上に置いたつもりだったが、置く前に、手鏡の中の私はまだこちらを見ていた。
少し遅れて、鏡面の中の口元が動いた。
――灯里。
呼ばれた気がした。
祖母の声ではなかった。私の声に似ていた。けれど、自分で自分を呼ぶときには使わない、甘く柔らかな響きだった。
私は手鏡を落とした。
薄い枠が床に当たり、乾いた音を立てる。鏡面にはひびが入らなかった。ただ、店内の暗い天井と、私の顔だけが、斜めに歪んで映っている。
千尋は拾い上げなかった。代わりに、写真を一枚ずつ黒い保存箱へ戻していく。
「持って帰って」
「これを?」
「全部」
「母に見つかったら」
「見つからないようにする」
「どうやって」
千尋は写真の裏へ新しい文字を書き込んだ。撮影日、時刻、場所。その下に、少し迷ってから、短く付け加える。
――本人は笑っていない。
私はその文字を見た。
「そんなことまで書くの」
「必要だから」
「私が笑っていないことが?」
「笑っているように見えるから」
私は紙へ手を伸ばし、文字に触れた。インクは乾いている。指先に何もつかない。書かれた言葉は、私の顔より確かな形を持っていた。
「千尋」
「何」
「私が、明日ここへ来なかったら」
千尋は筆を置いた。
「来なかった理由を記録する」
「私が別人みたいになっていても?」
「顔だけなら、比較できる」
「顔だけじゃなかったら?」
千尋はすぐには答えなかった。店の奥で、古い冷蔵庫のモーターが唸っている。外では風鈴が鳴り、商店街のシャッターを風が撫でていった。
「名前を訊く」
「名前?」
「顔を見て判断しない。灯里本人に名前を言わせる」
「もし、私が答えられなかったら」
「答えられるまで訊く」
「それでも答えられなかったら?」
千尋は私を見た。その目は冷静だったが、奥に隠しきれない焦りがあった。
「そのときは、写真を見せる。灯里が灯里だった時間を、全部」
「それで戻れなかったら?」
「戻れないと決めるのは、灯里じゃない」
「じゃあ、誰が決めるの」
「灯里以外の誰にも決めさせない」
その言葉は、ひさの祠で聞いたものとは違っていた。ひさは、自分の名を言えと教えた。千尋は、自分の名を他人に決めさせるなと言った。
私は保存箱を受け取った。思ったより重い。紙の束にすぎないのに、祖母の顔と、今日までの私の顔と、そのあいだにある空白が詰まっているようだった。
玄関へ向かう前、私は店のガラス戸に映った自分を見た。
町の明るさを背負ったガラスの中で、私の顔は薄く透けている。背後の写真や、千尋の姿と重なって、輪郭がいくつもに分かれていた。
その顔が、また笑った。
私は笑っていない。
「灯里」
千尋の声がした。
私は振り向いた。彼は机の上に残った一枚の写真を見つめている。古い集合写真の端、名前を削られた女の顔。その顔だけが、他の人物よりわずかに鮮明だった。
そして、その女の右頬には、私と同じ位置に痣があった。
「この写真、持っていかないで」
「どうして」
「まだ、誰の顔か決まっていない」
私は保存箱の蓋を閉じた。
「決めるのは、私でしょう」
千尋は答えなかった。
写真館を出ると、雨は上がっていた。濡れた道路が夕方の光を返し、店々のガラスに私の姿が何度も映った。歩くたび、右頬へ指を当てた。皮膚の下にある痣を確かめる。場所は同じだった。
けれど、指先を離すと、どこにあったのかすぐにわからなくなる。
保存箱の中で、印画紙がかすかに擦れた。
誰かが、写真の上で笑っているような音だった。
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