第5話 祠の影

翌朝、私は家を出る前に、洗面所の鏡を布で覆った。

白いタオルを二つ折りにして、鏡の縁へ洗濯ばさみで留める。隙間がないか確かめ、端が斜めになっているのを直す。そこまでしてから、私は自分の手が震えていることに気づいた。

鏡を見ないために覆ったのに、覆い方が気になって仕方がない。布の向こうに何があるのかを考えないようにするほど、そこにある顔の輪郭がはっきりしてくる。

私は手帳を開いた。

昨夜の欄には、母は鏡を見ないでと言った、と書かれている。その下に、今朝の日付を記した。ペン先が紙の上で一度止まった。

――洗面所の鏡を覆った。

書き終えてから、私はその文を何度も読み返した。字は私のものだった。けれど「鏡」の字の払いが、前日に書いたものより長く伸びている。筆圧も、祖母の古い買い物メモに似ていた。

私は手帳を閉じ、鞄へ入れた。

台所では、母が味噌汁を温めていた。鍋の蓋を少しずらし、湯気の具合を見ている。私が入っていくと、母は顔を上げずに言った。

「朝ご飯、食べてからにしなさい」

「どこへ行くか聞かないの」

「聞けば、行かないの?」

「行く」

「じゃあ、聞かなくていいでしょう」

母は味噌汁を椀へ注いだ。薄い出汁の匂いに、昨日から鼻の奥に残っている白粉の甘さが重なった気がした。

「寺尾さんのところへ行く」

母の手が止まった。

「祠へ?」

「知ってるの」

「集落の外れにある祠なんて、ひとつしかないわ」

「朝顔台のことを聞きたい」

母は椀を二つ並べた。飯の盛り方まで同じ高さに揃えている。けれど、私の椀だけ、少し手前へ押し出された。

「ひささんは、何でも知っているわけじゃない」

「知っていることを話さないだけでしょう」

「同じことよ」

「私にとっては違う」

母は味噌汁の表面を見ていた。浮いた葱が湯気に揺れ、すぐに沈んだ。

「灯里。あの人に、家の中のことを訊かないで」

「どうして」

「訊けば、答えが返ってくると思ってるからよ」

「返ってこないの?」

「返ってくる。でも、答えを聞いたあとで、聞かなかったことにはできない」

母の言い方には、ひさから何かを聞いた者の重みがあった。私は箸を取ったが、味噌汁には手をつけなかった。

「お母さんも、寺尾さんに訊いたの」

母は答えず、椀の横に箸を揃えた。

「昔ね、私も行ったことがある」

「何を聞いたの」

「何も」

「何も聞かずに帰ったの?」

「聞こうとしたけど、聞けなかったのよ」

母はそう言ってから、短く息を吐いた。

「ひささんは、人の顔を見ない。影を見るの。あの人の前に座ると、自分が何を隠しているのか、言葉にする前からわかってしまうような気がする。私は、そんなものを見られるのが嫌だった」

「今の私も、見られると思う」

「だから、行かないで」

母の声は低かった。命令ではなく、懇願に近い響きだった。

私は母の顔を見た。目の下には薄い影があり、髪の根元には白いものが混じっている。祖母が死んでから、母は一度も自分の顔を鏡で見ていない。台所の窓ガラスに姿が映っても、必ず角度を変えて背を向ける。

その仕草を、私は今まで疲れのせいだと思っていた。

「お母さんは、何を見たの」

母の指が、割烹着の端を撫でた。

「見たんじゃないわ」

「じゃあ、何を知ったの」

「知ったんじゃない。知ってしまったの」

その言葉だけで、胃の奥が冷えた。

「違いは何?」

「自分で選んだか、選ばされるところに立っていたか」

母は私を見た。

「灯里、あんたはまだ、自分で行くと言える。そこだけは忘れないで」

私は返事をしなかった。鞄の中の手帳が、肋骨に当たっているように重かった。

家を出ると、雨上がりの匂いがした。石垣の隙間から伸びた草が濡れて光り、道の端には杉の葉が細かく溜まっている。私は傘を持たず、集落の外れへ続く坂道を歩いた。

朝の柊谷は、葬儀のあいだより静かだった。家々の軒先に吊るされた風鈴が、風のない空気の中で、時折ひとつだけ鳴る。誰かが窓を開けた音。遠くで軽トラックのエンジンがかかる音。生活は戻りつつあるのに、私だけが家の奥に置き去りにされたようだった。

坂を上るにつれて、舗装された道が途切れた。土は前夜の雨を含み、靴底へ柔らかくまとわりつく。杉の枝が頭上で擦れ、乾いた音を立てる。木々の間から見える空は細く、灰色だった。

私は途中で何度も、右頬へ触れた。

ほくろの位置を確かめる。指先で皮膚を押し、目尻のあたりを撫でる。手のひらに触れる顔は、いつも通りだった。けれど、顔を確かめるたびに、それが自分のものだという感覚は薄れていった。

自分の顔を、自分以外の誰かに確認してもらわなければならない。

その考えに気づいたとき、私は立ち止まった。

道の先に、苔むした石段があった。段の両側だけ、草が短く刈られている。石段を上った先に、小さな祠が見えた。

祠の前で、寺尾ひさがほうきを動かしていた。

老女の背筋はまっすぐだった。薄い灰色の上着を着て、白い布を頭に巻いている。箒の穂先が地面を撫でるたび、湿った土と杉の葉が一方へ集められていく。その動きには、掃除というより、散らばったものを本来の場所へ戻すような慎重さがあった。

私が石段を上りきると、ひさは箒を止めた。

顔を見ない。

最初に、私の喉元を見た。次に手元を見た。それから、靴に付いた泥、鞄の持ち手、最後に顔へ視線を上げた。

「何か、変わったね」

挨拶より先にそう言われた。

私は反射的に頬へ手をやりかけたが、途中で止めた。

「何がですか」

「訊く前に触るところが、もう変わっている」

「顔ですか」

ひさは答えず、箒の柄を石段の脇へ立てかけた。古びた数珠が手首で小さく鳴る。

「朝顔台を見たね」

「見ました」

「何度も」

私は息を呑んだ。

「どうして知っているんですか」

「見ればわかる」

「何が」

「見たものを、まだ自分のものだと思っている顔ではない」

ひさの言葉は静かだった。だからこそ、逃げ場がなかった。私は手帳を取り出し、胸の前で握った。

「鏡に映る顔が変わっています。祖母に似てきている。ほくろの位置も、目元も、笑い方も。写真を撮れば証明できるかもしれない。でも、鏡の中だけで起きていることもある」

「鏡の中だけなら、軽いと思うかね」

「少なくとも、現実の顔は変わっていない」

「現実とは、触れるものだけかい」

「私は、証拠のないことを信じたくありません」

ひさは少しだけ目を細めた。

「それで、ここまで来た」

「信じたいから来たんじゃありません。確かめたいからです。母は何も話さない。祖母は死んだ。鏡だけが、私の知らないことを知っているみたいに振る舞う。そんなものを放っておける人がいるなら、私はその人のほうがどうかしていると思います」

声が思ったより大きくなった。杉の枝が風に揺れ、私の言葉を上へ逃がした。

ひさは怒らなかった。祠の板戸に手を置き、表面の木目を指先で確かめている。

「確かめたあと、どうする」

「朝顔台を捨てます」

「捨てられるなら?」

「壊します」

「壊せるなら?」

「燃やします」

「燃えないなら?」

私は答えに詰まった。

ひさは板戸を開けた。蝶番が低く鳴る。中から、乾いた木と香木の混じった匂いが流れてきた。白粉の匂いとは違う。もっと苦く、煙の底に湿り気を含んだ匂いだった。

「入るかね」

祠の中は、人ひとりが座れるほどの狭さだった。奥に小さな木札が並び、朱の薄れた文字が重なっている。古い記録帳、折り畳まれた紙、白い布に包まれた束。ひさはそれらをひとつずつ外へ出し、石の台へ並べた。

私はしゃがみ込み、記録帳の表紙に指を触れた。紙は乾いているのに、指先へ貼りつくような感触があった。

「ここに、朝顔台のことが?」

「名前は書いていない」

「なら、何が書いてあるんですか」

ひさは帳面を開いた。最初の数ページは虫に食われ、文字が途切れている。残った行を、ひさは指で追った。

「死したる者の面を、家に留む」

その下には、別の筆跡で短い言葉が続いていた。

「器は鏡。粉は白。髪を添え、名を伏す」

私はその行を何度も読んだ。

「これは、顔継ぎですか」

ひさはすぐには答えなかった。数珠の玉を一つ弾く。木々の向こうで鳥が鳴き、すぐに声を失った。

「その言葉を、どこで知った」

「記録に書いてあります」

「それだけかい」

「母が知っている。祖母も知っていた。私だけが知らなかった」

「知らされなかったのさ」

「なぜですか」

「知れば、顔を置く場所が変わるからだよ」

ひさは帳面を閉じた。

「この家の者は、死んだ人間を忘れないために鏡を使った。顔を写し、声を写し、手つきを写す。最初は供養だったのかもしれない。死者が家からいなくならないように、残った者がその面影を受け持つ。けれど、残すことは、いつか代わりにすることへ変わる」

「代わり?」

「死んだ者の顔をした者が、死んだ者の役目をする。家の中では、それを不思議と思わなくなる。飯を炊く手、客を迎える声、誰かを叱る目つき。顔が似れば、名まで同じように扱われる」

私は手帳を開いた。紙の上の自分の字が、急に遠くなった。

「それで、私は祖母の代わりにされるんですか」

「まだ決まったわけではない」

「でも、鏡は変わっている」

「鏡は決めない。見る者が決める」

「私が?」

「家が」

ひさは記録帳の端を指で二度叩いた。

「家というのは、人間の集まりではない。死んだ者、黙った者、逃げた者、残った者。そういうものが重なって、ひとつの意思のようになる。顔を継ぐのは、その意思に人の形を与えるためだ」

「そんなもの、意思なんて呼べません。ただの押しつけでしょう」

「その通りだよ」

即答だった。

私はひさの顔を見た。冷たい人だと思っていた。けれど、その目の奥には、長く押し殺してきた怒りが沈んでいる。

「じゃあ、なぜ止めなかったんですか」

「止めたことはある」

「止められなかった?」

「止めた相手が、止まらなかった」

「誰ですか」

ひさは白い布の束へ目を落とした。

「私の妹だよ」

風が杉の枝を揺らした。雨粒が葉から落ち、祠の屋根を細く叩く。

「妹は柊谷の家へ嫁いだ。顔が似ていると言われるのを、最初は喜んでいた。姉さんに似ている、母親に似ている、前の嫁に似ている。似ていると言われるほど、家の中で居場所ができると思っていたんだろうね。けれど、似ていることを求められると、人は自分の顔を忘れる。笑い方まで直され、髪の分け目まで変えられ、最後には自分の名前を呼ばれても振り返らなくなった」

私は喉が乾くのを感じた。

「妹さんは、どうなったんですか」

「死んだよ」

ひさは淡々と言った。

「死ぬ前に一度だけ、私のところへ来た。鏡を割りたいと言った。けれど割った鏡の中に、自分の顔が残っていたそうだ。割れた一枚一枚に、別々の顔があった。自分の顔、母親の顔、知らない女の顔。どれを捨てても、最後に残る一枚が自分を見ていた」

「……それで?」

「私は、鏡を持ってくるなと言った。祠にも近づくなと言った。家のことを外へ持ち出せば、もっとひどくなると信じていたからね」

「信じていた?」

「いま思えば、怖かっただけさ。私が何かを言えば、妹の代わりに私が呼ばれる気がした」

ひさは笑わなかった。歯を見せないまま、口元だけをわずかに動かした。その動きが、祖母の笑い方に似ていた。

私は視線を逸らした。

「祖母は、いつから顔継ぎをしていたんですか」

「里枝は、継ぐ側ではなく、抱える側だった」

「同じことでしょう」

「違う。継ぐ者は、家の顔を得る。抱える者は、家の顔が他人へ移らないよう、自分の中に留める」

「祖母が、全部引き受けていた?」

「そう思っていたはずだよ」

「じゃあ、なぜ私に移ったんですか」

ひさは答えなかった。

その沈黙の中で、祠の奥から、かち、と音がした。

歯を打ち合わせるような音だった。

私は立ち上がりかけた。ひさが手を上げて止める。

「動くな」

「今の音は何ですか」

「まだ近くない」

「近くないって、何が」

「耳で追うと、呼ばれる」

「何に?」

「家に」

私は息を殺した。音はもう一度鳴った。

かち。

祠の中ではない。外の杉林のどこかから聞こえた。香木の匂いが濃くなり、喉の奥へ煙のように入り込んでくる。私は口元を手で覆ったが、匂いは皮膚の下から立ち上ってくるようだった。

ひさは白い布の束を開いた。

中には、細い髪の毛を赤い糸で束ねたものが入っていた。黒い髪に、白いものが混じっている。糸の結び目には、小さな紙片が添えられていた。

紙には、名前がひとつ書かれている。

柊谷里枝。

「祖母の髪ですか」

「そうだろうね」

「どうしてここに」

「死んだ者のものは、家から遠ざける。だが、完全には捨てない。捨てれば、帰る場所を失うから」

「それなら、朝顔台も祠へ移せばいい」

「移せない」

「なぜ」

「鏡台は、いま誰かの顔を映している」

私は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

「私の顔を?」

「お前の顔を使って、里枝の顔を戻している」

「戻すって、どこから」

「家の中から」

ひさは布を閉じ、私へ差し出した。私は受け取れなかった。白い布の上に、祖母の名前がある。それは死者を示す記号のはずなのに、私の手帳に書かれた自分の名前と、ほとんど同じ重さを持って見えた。

「祖母は、私を守ろうとしたんですか」

「守ろうとした者が、鏡台を残すと思うかね」

「残したんじゃない。手放せなかったんでしょう」

「そうかもしれない」

ひさは視線を落とした。

「里枝は、顔を継がせたかったわけではない。顔が移る先を、自分のところに留めたかった。けれど、人間の身体には限りがある。死ねば、蓋が外れる。だから朝顔台を納戸に隠し、家の者に触れさせなかった。あれを手放さなかったのは、秘密を守るためだけじゃない。自分が死んだあと、誰かが受け取ることを知っていたからだ」

「誰かって、私ですか」

ひさは、今度は私の顔を見た。

目尻、口角、右頬。左右の差を測るような視線だった。

「まだ、戻れる顔をしている」

「戻れるなら、戻してください」

「自分で戻るんだよ」

「どうやって」

「鏡を見て、自分の名を言う。顔を誰のものとして見るか、決める」

「そんなことで……」

声が震えた。

「そんなことで顔が戻るなら、どうして妹さんは戻れなかったんですか」

ひさの手が、数珠の上で止まった。

「妹は、自分の名を忘れたんじゃない。呼ばれるたびに、別の名で返事をしたんだ」

「それは本人のせいじゃないでしょう」

「そうだよ」

ひさはまっすぐ私を見た。

「だから、あんたも自分を責める必要はない。ただ、黙っている者は、家に都合よく解釈される。返事をしない顔は、返事のできる顔に置き換えられる。灯里、お前が自分の名を口にしなければ、あの家はお前を別の名で呼び始める」

そのとき、林の奥で風鈴が鳴った。

家からは離れているはずなのに、柊谷家の軒先と同じ音だった。

私は手帳を開いた。今日の日付の下へ、ゆっくりと書く。

――私は、柊谷灯里。

書いた文字を、ひさの前へ見せた。

「これでいいですか」

ひさは紙を見て、長いあいだ黙っていた。

「字は、まだお前のものだね」

「まだ?」

「鏡を見れば、わかる」

「見たくありません」

「見ない自由はある。だが、見ない者の顔は、他人が決める」

私は手帳を閉じた。

帰り道、雨が降り始めた。杉の葉から落ちる雫が、肩や髪へ細かく当たる。石段は濡れて滑りやすくなっていたが、私は手すりに触れず、一段ずつ足元を確かめて下りた。

家へ戻る道の途中、ポケットの中で手帳が動いた。

開いていないのに、紙が擦れる音がした。

私は立ち止まり、手帳を取り出す。表紙の隙間に、白い粉が挟まっていた。指で払うと、甘い匂いが立ち上った。

その匂いの奥で、誰かが静かに髪を梳いている気配がした。

一度。

二度。

同じ場所を、何度も。

私は歩き出した。家の屋根が木々の向こうに見えてくる。窓ガラスは雨に濡れ、夕方の薄暗さを鈍く返していた。

二階の客間の窓に、誰かが立っていた。

白い顔だった。

距離がありすぎて、誰なのかはわからない。けれど、その人影は私と同じように、右手を頬へ添えていた。

私は足を止めた。

窓の向こうの影が、ゆっくりと口角を上げた。

私は笑っていない。

けれど、顔の皮膚だけが、祖母の笑い方を先に知っていた。

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