第4話 引き出しの底

納骨を終えた日の朝は、やけに静かだった。
弔問の人波が引いたあとの柊谷の家には、線香の匂いだけが古い柱に染みついたように残っていた。焼香の煙が消えても、匂いは消えない。私はそのことを、祖母が死んでから初めて知った。匂いというのは、音よりもずっと長く、家の中にとどまり続けるものらしい。
客間に戻ると、朝顔台は昨日と同じ位置にあった。引き出しは半分だけ開いている。私は閉めた覚えがある。何度も閉めた覚えがある。けれど、確かめることにはもう疲れていた。開いているなら開いているでいい。そう思うことで、自分をなだめた。
私は布を手に取り、引き出しの内側を拭き始めた。湿気を吸った木は、拭いても拭いても、どこか湿った手触りを残す。指先で底板の継ぎ目をなぞると、爪の先が小さな段差に引っかかった。底板が、ほんのわずかに浮いている。
力を入れると、板は存外あっさりと外れた。
その下に、折り畳まれた紙があった。
昨日見つけた戸籍抄本の切れ端とは、また別のものだった。縁は毛羽立ち、黄ばみ、長年誰かの指に触れられ続けたことを物語るように、折り目のところだけ紙が薄くなっている。私はそれを膝の上で広げた。
墨の文字は滲んでいたが、いくつかの欄は読めた。日付の欄。続柄の欄。けれど、本来そこにあるはずの数字や言葉が、きれいに、あまりにきれいに、抜け落ちている。破れたのではない。切り取られたのでもない。まるで、最初からそこに何も書かれていなかったかのように、紙の白さだけが残っていた。
祖母・里枝の名だけが、その空白を挟むようにして、まっすぐに並んでいた。
誰の手で書かれたのか分からないほど、丁寧な字だった。祖母の字とも、役所の字とも違う。もっと古い、もっと重たい筆圧の字だった。
私は手帳を開き、紙の切れ端をそっと挟み込んだ。ページの白さと、紙片の黄ばみが並ぶと、まるで時間が二つに裂けて、片方だけがここに取り残されているように見えた。書いてあったはずの文字を、私は想像しようとした。けれど想像すればするほど、その空白は深くなっていくばかりで、埋まる気配がなかった。
台所からは、水の流れる音がしていた。美鶴が洗い物をしているのだろう。私は紙片を手にしたまま、廊下を歩いた。歩くたびに、昨日母に腕をつかまれた感触が、まだ皮膚の下に残っているような気がした。
台所に入ると、美鶴は香典返しの箱を数えていた。白い熨斗の向きを、ひとつひとつ同じ角度に揃え直している。その手つきには迷いがなく、まるで箱の数を数えることが、この家でいちばん大事な仕事であるかのようだった。
「お母さん」
美鶴は顔を上げなかった。
「また何か見つけたの」
その声には、聞きたくないという響きが滲んでいた。私はかまわず、紙片を差し出した。
「戸籍の切れ端。底板の下に隠してあった」
美鶴の指が、箱を数える途中で止まった。ほんの一瞬だった。けれど私はその一瞬を見逃さなかった。母の指は、私が生まれてから二十三年、ずっとこんなふうに何かを数え続けてきたのだろう。悲しみも、怒りも、祖母との確執も、数字に置き換えて、手を動かすことでやり過ごしてきたのだろう。
美鶴は紙を受け取ろうとはしなかった。代わりに、まな板の上に置いていた包丁を、静かに脇へ寄せた。何気ない仕草に見えた。けれど、それは逃げる速さだった。危険なものから距離を取るときの、無意識の速さだった。
「古いものは、どれも似たようなものだよ」
母はそれだけ言って、私の手から紙片を取り上げ――いや、取り上げるというよりは、流れるような手つきで奪い――鍋敷きの下へ滑り込ませた。鍋敷きは古い藺草編みのもので、母が結婚したときから使っているものだと、以前聞いたことがあった。その下に、祖母の秘密が押し込められていく。まるで、台所の道具のひとつとして扱われるかのように。
「それ、大事なものかもしれないのに」
「大事なものなら、こんなところに隠さない」
「隠してあったから、大事なものなんじゃないの」
美鶴はようやく私を見た。疲れた目だった。けれど、疲れの奥に、何か決意めいたものが見えた。それは、娘を守ろうとする母の顔と、何かを隠し通そうとする女の顔が、同じ皮膚の上に重なっているような、奇妙な表情だった。
「灯里。あんたは昔から、物事をきちんと片づけないと気が済まない子だった。散らかった部屋を見ると落ち着かない。書類は揃っていないと不安になる。それは悪いことじゃない。でもね、この家には、片づけてはいけないものがあるの」
「片づけてはいけないって、どういうこと」
「わからないままにしておくことが、時には優しさなのよ」
「誰に対する優しさ」
母は答えなかった。代わりに、包丁を再びまな板の上に戻し、何かを刻む手つきを再開した。とん、とん、という音が台所に響く。その規則正しいリズムが、会話の続きを拒んでいるようだった。
私は反論しようとして、言葉に詰まった。説明されるより先に手元を隠される。そのやり方に、見慣れない苛立ちが胸の底から湧き上がってきた。これまでの人生で、母にこんなふうに苛立ったことがあっただろうか。東京で働いていた頃は、母との会話なんて、月に一度の電話で近況を報告し合う程度のものだった。それで十分だと思っていた。母はいつも淡々としていて、感情を波立たせることのない人だった。
けれど今、目の前にいる母は、感情を波立たせないようにするために、全力で何かと戦っているように見えた。
「お母さんは、おばあちゃんが何を隠していたか知ってるの」
「知らない」
「本当に?」
「知る必要がなかったの」
「必要がなかったって、変な言い方」
「知れば、知った分だけ、縛られるからよ」
母の声が、初めて少しだけ震えた。包丁を刻む手が、わずかに遅くなる。
「私はね、灯里。若い頃、この家を出たいと思っていたの。おばあちゃんの沈黙が怖かった。何かを言いかけて、いつも途中でやめる人だった。訊いても、はぐらかされるだけ。でも、はぐらかされるたびに、訊いてはいけないことなんだって、だんだんわかるようになった。訊かなければ、傷つかずに済む。知らなければ、選ばなくて済む。私はそうやって、この家で大人になったの」
「それで、結局出ていかなかった」
「出ていったわよ。一度は」
母の手が止まった。まな板の上の野菜が、半分だけ刻まれたまま残されている。
「結婚して、あんたのお父さんと一緒に、この町を出ようとした。でも、おばあちゃんが倒れて、戻ってこざるを得なくなった。そのときに思ったの。この家からは、本当には出られないんだって。出たつもりでも、何かがあれば必ず引き戻される。血のつながりって、そういうものなのかもしれない」
母の口調には、諦めとも、覚悟ともつかない響きがあった。私はその言葉を聞きながら、鍋敷きの下に押し込められた戸籍の切れ端のことを考えていた。あの紙に書かれていたはずの名前。欠け落ちた続柄。誰かがそこにいたはずなのに、記録からだけ消されてしまった誰か。
「お母さんは、おばあちゃんと衝突したことがあるんでしょう。遺品の処分のことで」
母の肩が、ぴくりと動いた。
「誰がそんなことを」
「誰も言ってない。でも、わかる。お母さんがこの家の物を片づけたがる理由も、わかる気がする」
母は刻みかけの野菜をボウルに移した。手の動きは再び速くなっていたが、さっきまでの無駄のなさとは違う、何かを振り払うような速さだった。
「あの人は、朝顔台を処分しろと言うたびに、怒った。普段は決して声を荒げない人だったのに、あの鏡台のことになると、別人みたいになった。何度言っても、絶対に首を縦に振らなかった。理由を訊いても、『いいから』の一点張り。私はそれが嫌だった。理由も言わずに、ただ従えと言われることが」
「でも、お母さんは今、私に同じことをしてる」
母の手が、完全に止まった。
台所の水音だけが続いていた。蛇口から垂れる最後の雫が、シンクに小さな音を立てて落ちた。
「……そうね」
母はようやく、認めるように小さく頷いた。
「私は、おばあちゃんと同じことを、あんたにしている。理由も言わずに、見るな、知るな、片づけろって。自分がいちばん嫌だったやり方を、今、自分の娘にしている」
「じゃあ、やめて」
「やめられたら、とっくにやめてる」
母の声には、初めて聞く種類の苦さがあった。
「灯里。これは意地悪で言ってるんじゃないの。わからせたくないんじゃなくて、わからせたくても、わからせ方がないの。おばあちゃんも、きっと同じだったんだと思う。言葉にすれば、それが現実になってしまう。言葉にしなければ、まだどこかで、なかったことにできる。そういう、弱さのようなものだったんじゃないかって、今になって思う」
私は手帳を強く握りしめた。紙片はもう鍋敷きの下にある。けれど、その空白の感触は、まだ指先に残っていた。
「私は、わからないまま東京に帰りたくない」
「わかったら、帰れなくなるかもしれないのよ」
「それでも」
母は長い沈黙のあと、濡れた手をエプロンで拭いた。その仕草は、いつもと同じはずなのに、どこか諦めたようにゆっくりだった。
「あんたは、おばあちゃんに似てきてる」
「顔のこと?」
「顔だけじゃない。言い方。目つき。一度言い出したら引かないところ。そっくりよ」
その言葉を、母がどんな気持ちで口にしたのか、私にはわからなかった。褒めているのか、怯えているのか、あるいはその両方なのか。
台所を出るとき、私は鍋敷きのあたりをちらりと見た。母はそれに気づいていたはずだが、何も言わなかった。
客間に戻ると、夕方の光が障子を薄い橙色に染めていた。朝顔台の鏡面には、その光がぼんやりと映り込んでいる。私は引き出しを開け、底板の浮いていた場所をもう一度確かめた。紙片はもうない。けれど、板の継ぎ目に、まだ白い粉が薄く残っていた。
指先で払うと、粉はさらさらと畳の上に落ち、そこだけ甘い匂いが立った。白粉の匂いだった。昨日、引き出しの奥で見つけた櫛と同じ匂い。祖母の体温の代わりに、家に残された唯一のものだった。
私は目を閉じ、その匂いを吸い込んだ。
――まだ、整っていないの。
祖母の声が、記憶の奥から滲み出すように聞こえた。それが本当に聞こえたのか、それとも私自身の中にある何かが、祖母の声を真似ているだけなのか、もう区別がつかなくなっていた。
喉の奥が、きゅっと縮まった。
祖母が朝顔台を手放さなかった理由は、遺品への執着だけではない。そのことに、私はようやく、はっきりと気づき始めていた。あの戸籍の空白は、ただの書類の不備ではない。誰かが意図して、そこに何も残さなかったのだ。そして祖母は、その空白を守るために、鏡台を納戸の奥深くに隠し続けた。
誰のための空白なのか。
その答えに近づくことが、恐ろしくもあり、同時に、もう後戻りできないところまで来てしまったという確信も、私の中で静かに固まりつつあった。
鏡の中で、夕暮れの光を浴びた私の顔が、わずかに微笑んでいるように見えた。
私は、笑っていない。
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