第3話 見ないふり

台所には、味噌汁の湯気と、濡れた木の匂いがこもっていた。

朝食を終えた母は、食器を片づける前に香典返しの札を束ねていた。白い紙の束を左手で揃え、右手で角を叩く。とん、とん、と一定の間隔で音がする。その音を聞いていると、昨夜から胸の内側に引っかかっているものまで、同じように揃えられてしまう気がした。

私は湯呑みを流しへ運んだ。水を出すと、蛇口から落ちる水がやけに大きく響いた。

「お母さん」

母は返事をしなかった。札の束を紐で結んでいる。

「昨日の朝顔台のことなんだけど」

結び目を作る母の指が、一度だけ止まった。

それはほんの一瞬だった。けれど私は見逃さなかった。母は何かを聞き取れなかったふりをして、紐の端を鋏で切った。切れた麻紐が、乾いた音を立ててまな板の上へ落ちる。

「何」

「鏡に映る顔が、変に見えるの。ほくろの位置とか、目元とか。昨日より、祖母に似ている気がする」

言葉にした途端、自分の声が幼く聞こえた。小さい頃、転んで膝を擦りむいたときに、痛みを我慢しながら母へ報告したときのようだった。傷を見せれば手当てをしてもらえると思っていたのに、母はいつも先に「どこで転んだの」と訊いた。

「寝不足でしょう」

母は札を数え始めた。

「そうかもしれない。でも、鏡の中の顔が……」

「葬式のあとなんだから、顔くらい変わるわよ。むくみも出るし、化粧もしてない。東京に戻れば治る」

「鏡の中だけなの」

「だから、疲れてるの」

「朝顔台を見たときだけ」

母の手が、また止まった。

私は流しの前で蛇口を閉めた。水音が消えると、台所の外から虫の声が入ってきた。まだ朝なのに、庭の草むらでは夜の名残のような細い音が続いている。

母は札を揃えたまま、こちらを見なかった。

「朝顔台は、納戸に戻す」

「どうして」

「客間に置く必要がないから」

「昨日は好きにしてって言ったでしょう」

「あんたが持っていくなら、って言っただけよ。あれは処分できないものだから、勝手に持ち出していいものでもないの」

「処分できないって、どういう意味?」

母は、結んだ札の束を箱に入れた。箱の中には同じ束がいくつも並んでいる。向きも高さも揃っていた。ひとつだけ角が潰れている束があり、母はそれを取り出して、指先で何度も撫でてから、いちばん奥へ押し込んだ。

「昔からそうなの」

「その言い方、嫌い」

自分でも驚くほど強い声が出た。

母の肩がわずかに揺れた。けれど、振り向かない。割烹着の腰紐を結び直し、濡れた布巾を広げて、作業台を拭き始めた。

「家だから仕方ない、って言うつもりなら、もうやめて。私は二十三歳で、東京で暮らしていて、自分の部屋も仕事もある。葬式のために戻ってきただけで、この家のやり方を引き継ぐために来たわけじゃない」

「引き継ぐなんて、誰が言ったの」

「誰も言わないから怖いのよ」

布巾が、台の上を往復した。母は汚れを拭いているのではなく、そこにある何かを削り取ろうとしているようだった。

「鏡に祖母の顔が映る。引き出しには白粉が残っていて、髪の毛まで入っている。あなたはそれを知ってる。なのに、寝不足だとか、むくみだとか言って終わらせる。私が変だと思っているなら、そう言えばいいでしょう」

「変だなんて言ってない」

「言っているのと同じよ」

「灯里」

母が初めてこちらを見た。

その目は疲れていた。葬儀の間も、親戚の前でも、涙を見せなかった目だった。けれど今は、瞳の奥に黒いものが沈んでいる。恐怖なのか怒りなのか、私には判別できなかった。

「人は、見たものを全部言葉にしなくても生きていけるの」

母はそう言って、布巾を畳んだ。

「むしろ、言葉にしないほうが生きやすいこともある。おばあちゃんも、私も、そうしてきたの」

「それで、今度は私にも黙れっていうの?」

「そうは言ってない」

「じゃあ、何を言ってるの」

「あなたが東京へ戻るまで、余計なものを見ないでほしいって言ってるの」

その言葉のほうが、寝不足だと言われるより怖かった。

母は自分でも言い過ぎたと思ったのか、すぐに視線を落とした。台所の隅に置かれた洗剤のボトルを手に取り、残量を確かめる。蓋を開け、匂いを嗅ぎ、棚へ戻す。いつもの動作だった。物を確かめ、位置を揃え、手を動かし続けることで、会話の中に生じた隙間を埋めている。

「おばあちゃんは、あれをどうして納戸に置いていたの」

「さあね」

「処分しろって言ったとき、怒ったんでしょう」

「怒ったというより……」

母は言葉を切った。布巾の端を指先で撫でている。

「捨てるなって言ったの」

「何度も?」

「一度でも、あの人がそう言えば十分だった」

「何が入ってるの」

「古い鏡台よ」

「それだけなら、どうしてそんな顔をするの」

母は答えなかった。

その沈黙の中で、私はふと、昨夜鏡の中の私が見せた口元を思い出した。祖母が何かを言いかけて飲み込むときの、あの微かな動き。母も今、同じように唇を薄く結んでいる。

それが私の顔にも浮かんでいる気がして、私は反射的に頬へ触れた。

指先に触れた肌は、いつも通りだった。けれど、母の目が一瞬だけ私の右頬へ落ちた。ほくろを見たのだと思った。母はすぐに視線を逸らし、炊飯器の蓋を開けた。

「昼までに納戸を片づけて。親戚がまた来るから、通れるようにしておいて」

「話は終わり?」

「朝ご飯の片づけが残ってる」

「お母さん」

「顔は、見なければいいの」

その声は低かった。

「鏡も、写真も、今は見なくていい。自分で確認しようとすると、余計にわからなくなるから。寝て、食べて、片づけて、東京へ帰る。それでいいの」

「そんなふうに何もなかったことにできるの?」

「できるようにならないと、家の中では暮らせないのよ」

母はそれだけ言うと、鍋を火にかけた。味噌汁の残りが温め直され、湯気が立ちのぼる。出汁の匂いに混じって、どこか甘い香りがした。

白粉の匂いに似ていた。

私はそれを指摘できなかった。口にすれば、母の手がまた止まってしまう気がした。止まった手の先から、何かがこちらへ振り向くような気がした。

台所を出て、納戸へ向かった。

廊下には、親戚が脱いだ草履が何足も並んでいた。私はまず、それらの向きを揃えた。つま先を外へ向け、左右の間隔を一定にする。乱れているものをそのままにしておくと、胸の中まで散らかっていくようだった。

納戸の引き戸を開ける。

湿気が顔にまとわりついた。朝の光はほとんど届かず、裸電球をつけても部屋の隅までは明るくならない。段ボールの山、古い布団、使われなくなった座卓。どれも長い間ここで呼吸していたような匂いを放っている。

私は朝顔台の引き出しを、もう一度開けた。

昨夜閉めたはずなのに、取っ手はわずかに濡れていた。指先で触れると、冷たい粉がついた。爪の間に入り込んだ白い粒を、私は親指で擦った。

甘い匂いがした。

引き出しの中には、白い櫛と小さな布袋が入っていた。櫛の歯の間には短い毛が何本か絡んでいる。黒いものと白いものが混じっていた。祖母の髪だろうと思った。けれど、一本だけ、私の髪と同じ色と長さのものがあるように見えた。

私は布袋を開いた。

中には粉が残っていた。指で触れると、さらさらしているのに、皮膚へ吸いつくような湿り気があった。手を引くと、粉の下から細い髪の束が現れた。結び目のところに、赤い糸が一本巻かれている。

吐き気がした。

それでも私は髪を拾い上げた。誰のものか確かめたかった。祖母の髪なら、捨てられる。自分のものなら、そうではない。そう思った。

手帳を取り出して、髪の束を紙の上へ置く。白いページに黒と白の毛が広がった。私は何本かを指で分けようとしたが、指先が震えてうまくいかない。

引き出しの奥に、紙片が見えた。

折り畳まれた古い紙だった。端がひどく傷んでいる。私は櫛と髪を手帳に挟み、紙片を慎重に引き出した。

戸籍抄本の一部だった。

墨の文字は滲んでいたが、いくつかの欄はまだ読めた。日付の一部。続柄の欄。名前の一部。けれど紙の中央だけが、不自然に欠けている。破れたというより、そこに書かれていたものだけを切り取ったような形だった。

残っている文字を目で追った。

柊谷里枝。

祖母の名だった。

その下に、誰かの名前が続いていたはずだ。文字の端が一画だけ残っている。女という字にも見えたし、灯という字の一部にも見えた。

私は息を止めた。

手帳を開き、紙片を挟もうとした。そのとき、紙の白い空白がひどく大きく見えた。欠けているのは名前だけではない。そこには本来、私が知らない誰かの生まれた日や、誰と誰の間に生まれたのかが書かれていたはずだ。

空白は、記録されなかったものではない。

記録されたあとで、消された空白だった。

廊下の方で、母が呼んだ。

「灯里、そこにいるの?」

私は紙片を握り込んだ。

「いる」

返事をしてから、その声が自分のものか確かめた。少し低く、語尾が柔らかい。祖母の声に似ていた。

納戸の暗がりの奥で、かち、と音が鳴った。

歯を打ち合わせるような、乾いた音だった。

私は振り返った。段ボールの山しかない。風もないのに、積まれた古い布がわずかに揺れている。

「何してるの」

母の声が近づく。

私は戸籍の紙片を手帳へ押し込み、引き出しを閉めた。白粉の粉が舞い、鼻の奥へ入り込む。咳をこらえながら、鏡台の表面を布で拭いた。

黒漆に指の跡が残っていた。

私の指ではないような、細く長い跡だった。誰かが内側から撫でたように、曇りの上に五本の線が並んでいる。

私は布を何度も往復させた。跡は消えたが、白粉の匂いは濃くなった。

母が引き戸の前に立った。

「何か見つかった?」

「古い櫛と、紙」

「紙は置いておいて」

「戸籍の切れ端だった」

母の顔から血の気が引いた。けれど、次の瞬間にはもう、いつもの無表情に戻っていた。

「古い戸籍なんて、役に立たないわ」

「誰のものかもわからないのに?」

「わからないから、役に立たないの」

「わからないままにしておくほうが、都合がいいんでしょう」

母は納戸へ入ってきた。狭い部屋の中で、二人の肩が触れそうになる。母の手が、私の手帳へ伸びた。

私は反射的に胸へ抱き込んだ。

母はそこで止まった。

「灯里。そういう顔をしないで」

「どういう顔?」

「おばあちゃんに似た顔」

言われた瞬間、頬の内側が熱くなった。羞恥と怒りが同時に込み上げ、皮膚の下で別々のものが動いた。

「私の顔を、勝手に誰かのものにしないで」

母の指が、割烹着の端を強く撫でた。

「そんなつもりじゃない」

「じゃあ、どういうつもり?」

「……見ないふりをしてほしいの」

「何を」

「全部よ」

母は低い声で続けた。

「鏡も、戸籍も、おばあちゃんが残したものも。あんたが東京へ帰るまで、何も見なかったことにして。そうすれば、まだ間に合うかもしれない」

「何に?」

母は答えなかった。

「お母さんは知ってるの」

「知らない」

「今、間に合うって言った」

「言葉のあやよ」

「そんな言い方で、私が納得すると思う?」

「納得しなくていい。生きて帰ればいいの」

納戸の低い天井が、急に近くなった。母の声が、暗い木箱の中で反響しているように聞こえる。

「私が何も知らないまま帰ったら、それで終わるの?」

「終わるわ」

「誰の中で?」

母は唇を結んだ。

その表情が祖母に似ていた。

私は目を逸らした。けれど、逸らした先の朝顔台の黒漆に、自分の顔が映っていた。

そこに立っている私は、口を閉じていた。

私自身は、何も言っていない。

鏡の中の私だけが、ゆっくりと唇を動かした。

――まだ、整っていない。

祖母の声が、納戸の外から聞こえた気がした。

私は鏡台から離れた。背中が段ボールにぶつかり、古い箱の中で何かが崩れた。乾いた木の音が連続して鳴る。

母が私の腕をつかんだ。

「見ないで」

その声には、初めてはっきりとした怯えがあった。

私は母の手を振りほどいた。手帳を胸に押し当て、納戸から廊下へ出る。母は追ってこなかった。

夕方まで、私は部屋の中の物を片づけ続けた。

古い食器を種類ごとに分け、使えない座布団を紐で縛り、棚の中身を一度すべて出してから、同じ場所へ戻した。整っていくものを見ている間だけ、呼吸が楽になった。物は、決めた場所へ戻せば動かない。紙は順番に並べれば、そこに書かれた文字を勝手に変えない。

けれど、朝顔台だけは違った。

夕方、客間へ戻ると、鏡台の引き出しがまた少し開いていた。

私は立ったまま、それを見つめた。

閉じればいい。そう思った。引き出しを押し込み、鏡に布をかけ、母の言う通り何も見なかったことにすればいい。

それなのに、足は朝顔台へ向かった。

引き出しの中には、さっきの櫛が置かれていた。私は納戸で手帳に挟んだはずだった。白い歯の間には、一本だけ黒い髪が絡んでいる。

それは私の髪だった。

指を伸ばしかけて、止めた。

鏡の曇りガラスに、私の顔が映っている。実際には、磨りガラスに顔が映るほどの明るさはない。それでも、そこには輪郭があった。

目尻が下がっている。

口角が、わずかに上がっている。

私は自分の頬へ触れた。鏡の中の私は触れなかった。

代わりに、白粉の匂いがした。

喉の奥へ粉が入り、息を吸うたびに、知らない記憶が薄く混ざった。祖母の膝。白い櫛。髪を梳かれる痛み。何度も同じ箇所を撫でる手。耳元で繰り返される声。

まだ、整っていない。

私は引き出しを閉め、鏡台から一歩退いた。

そのとき、襖の向こうで、歯を鳴らす音がした。

かち。

ひとつ。

かち、かち。

二つ、三つと続く。

私は振り返らず、客間を出た。廊下の先で風鈴が鳴った。虫の声が重なり、家全体が薄い膜の向こうへ沈んでいく。

手帳を開く。

今日の欄には、何も書いていなかった。

私はペンを取り出し、震える指で記した。

――母は、鏡を見ないでと言った。

書き終えた文字を見て、私は息を止めた。

「母」の字の払いが、祖母の筆跡と同じだった。

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