第2話 ほくろの位置

目が覚めたとき、最初に聞こえたのは風鈴の音だった。
軒先のどこかで、風もないのに硝子が触れ合っている。ちり、と一度鳴り、しばらく間を置いて、またちり、と鳴った。そのたびに、眠りの浅いところへ細い針を落とされるような気がした。
私は布団の中で目を開けた。障子の向こうは白んでいる。山の朝は東京より早い。まだ六時にもなっていないのに、杉林の向こうから薄い光が家の中へ滲み出していた。
昨夜、客間の鏡台に布をかけなかったことを思い出した。
眠気が引くより先に、胸の奥が狭くなった。私は起き上がり、枕元に置いていた手帳を探した。表紙に指を触れたところで、昨夜の自分の文字が浮かんだ。
――朝顔台を客間に置いた。
その一行の下には、何も書かれていない。あれから何か見たわけでもない。音を聞いたわけでもない。そう思い直すと、いくらか呼吸が戻った。
私は手帳を閉じ、洗面所へ向かった。
廊下は朝露のような冷気を含んでいた。裸足で歩くと、板の間の冷たさが足の裏から膝へ上がってくる。襖の向こうでは、母がもう起きているらしい。食器の触れ合う音と、水道の短い音が聞こえた。
洗面所の電灯をつける。白い光が、壁のタイルと洗面台を平らに照らした。
私は鏡を見る前に、いつものように顎先へ指を当てた。輪郭を確かめるための癖だった。顎の骨、頬の柔らかさ、口元の位置。指先に触れるものは、昨日までと変わらない。
蛇口をひねり、水を出す。冷たい水で顔を洗い、タオルで押さえてから、ようやく鏡を見た。
右頬のほくろが、内側へ寄っていた。
そう見えた。
私は鏡に顔を近づけた。ほくろは、目の下と口元の中間あたりにある。昔から同じ位置だった。子どもの頃、祖母の里枝に「灯里の目印だね」と言われたことがある。私が顔を伏せると、里枝は白い櫛で私の髪を梳きながら、ほくろのそばを指で撫でた。
「ここにあるから、灯里だとわかるのよ」
当時は意味がわからなかった。顔を見れば誰だかわかるのに、どうしてわざわざ目印などと言うのかと思った。けれど、祖母の指先はいつもほくろの位置を確かめるように止まった。
私は洗面台の縁に手をついた。陶器の冷たさが掌へ食い込み、指先がじんと痺れる。
ほくろは動いていない。皮膚が変わったわけでもない。鏡の角度か、朝の光の具合だ。そう考えながら、私は顔を左右に動かした。
鏡の中の私は、少し遅れて動いた。
ほんのわずかな遅れだった。首を傾けたあと、鏡の中の顔が同じ角度になるまでに、呼吸一つ分にも満たない間があった。
私はすぐに顔を戻した。
鏡の中の私も戻った。
「寝不足」
声に出してみると、声が低く掠れていた。葬儀の疲れが残っている。昨日はほとんど眠っていない。こういうことは、疲れていれば起きる。目の焦点が合わなかったり、距離感を誤ったり、鏡の中の自分を一瞬だけ他人のように感じたりする。
私はそれを知っている。知っているからこそ、怖がる必要はない。
顔を洗い直し、濡れた髪を後ろへ撫でつけた。もう一度鏡を見る。
今度は、ほくろよりも目元が気になった。
まぶたが重い。目尻の下がり方が、祖母の遺影に似ている。遺影の中の里枝は、口を閉じたまま微笑んでいた。歯を見せず、声を立てず、相手が何を言っても一度だけ頷く。その笑い方が、鏡の中の私の口元に浮かんでいた。
私の唇の端が、わずかに持ち上がっている。
笑おうとしたわけではない。むしろ、顔を強張らせているつもりだった。それなのに、右の口角だけが、祖母と同じ角度に引かれていた。
私は口を手で覆った。掌から石鹸の匂いがした。強い匂いを避けて選んだ、東京から持ってきた無香料の石鹸。その薄い清潔な匂いの奥に、白粉の甘さが混じっている気がした。
背後を振り返る。
誰もいない。洗濯籠と、壁に掛けた古い手拭いがあるだけだった。
鏡へ戻ると、そこに映った私は、まだ口角を上げていた。
心臓が一度、大きく鳴った。
私は手帳を取りに、廊下を引き返した。歩きながら、足音を数えた。洗面所から客間まで九歩。角を曲がって三歩。昨日、鏡台を運んだときと同じ距離なのに、今朝は廊下が伸びているように感じた。柱と柱の間が広く、襖の向こうの暗がりが深い。
客間の前で足を止める。
襖は閉まっていた。中から音はしない。風鈴も、虫の声も、朝の家に溶け込む程度の小さな物音しか聞こえなかった。
私は襖に手をかけ、ゆっくり開けた。
朝の客間には、夜とは別の顔があった。障子紙が青白く光り、畳の目一本一本まで見える。座布団の端が少しずれていたので、私はまずそれを直した。角を揃え、壁と平行に置く。それだけで息がしやすくなった。
朝顔台は、壁際にあった。
布はかかっていない。黒漆の表面に朝の光が細く乗り、鏡面だけが部屋の中で異質な明るさを持っていた。
私は手帳を開いた。昨夜の一行の下に、日付を書く。ペン先を止めてから、右頬のほくろの位置を記録した。
――右頬のほくろ。昨日より内側に見える。目尻が下がっている。口角の上がり方が里枝に似ている。
書き終えると、字がいつもより硬く見えた。角張っていて、紙へ押しつけるような筆圧になっている。何度か深呼吸をして、私は自分の字を見直した。
間違いではない。私の字だ。
そう確かめようとしたとき、鏡台の引き出しが少し開いているのに気づいた。
昨日は閉めたはずだった。
私は膝をつき、引き出しに指をかけた。黒漆の取っ手は冷たく、爪の先に薄い粉が付着した。白い粉だった。指で擦ると、粉は皮膚の溝に入り、甘い匂いが立ち上った。
引き出しの中には、祖母が使っていた小さな櫛があった。白い歯の間に、短い髪が一本絡んでいる。私はそれを取り出そうとして、手を止めた。
子どもの頃、祖母の膝に頭を預けていたときの感触が戻ってきた。櫛の歯が頭皮を撫でるたび、髪の根元が引かれて少し痛かった。里枝は痛くないように梳いているつもりだったが、同じ箇所を何度も繰り返した。
「そこはもう梳いたよ」
私が言うと、祖母は鏡の中の私を見ながら答えた。
「まだ、整っていないの」
そのときの声が、耳のすぐそばで聞こえた気がした。
私は櫛から手を離した。引き出しの奥で、何かが擦れる音がした。
かすかに、歯を打ち合わせるような音だった。
かち、という乾いた音が一度だけ鳴り、すぐに消えた。
私は鏡台の前から立ち上がった。引き出しを閉める。手のひらに汗が滲んでいた。朝なのに、客間の空気だけが夜のまま残っているようだった。
逃げるように部屋を出ればよかった。それなのに私は、朝顔台の鏡を見た。
鏡の中の客間には、私が立っていた。
その顔は、さっき洗面所で見たものよりも、祖母に近かった。
頬の線が柔らかくなっている。目尻はさらに下がり、肌の色まで少し黄ばんで見える。右頬のほくろは、やはり本来の位置より内側にあった。けれど、鏡の中の私が恐ろしかったのは、顔の変化だけではない。
立ち方が違った。
私は普段、片足に体重をかける。猫背になるのが嫌で、意識して背筋を伸ばすこともある。けれど鏡の中の私は、両足を揃え、袖口を整える祖母の立ち方をしていた。
私自身は、そんな姿勢を取っていない。
喉が鳴った。
鏡の中の私が、ゆっくりと口を開いた。
私は開いていない。
声は聞こえなかった。ただ、唇の形だけが動いた。何かを言いかけて、やめるときの動き。祖母が何度も見せていた、あの沈黙の仕草だった。
私は反射的に鏡の扉を閉じた。
黒い板面が、光を吸い込むように静まる。扉を閉じた瞬間、客間の空気が元に戻った。朝の光、畳の匂い、遠くの台所から聞こえる包丁の音。すべてが現実の側へ戻ってきたように思えた。
それでも、閉じた鏡の向こうから見られている感覚は消えなかった。
私は顎先に指を当てた。皮膚は自分のものだった。頬も、唇も、ほくろも、指先が触れるかぎりでは変わっていない。
鏡を見なければいい。
そう思った。
見なければ、少なくとも確認する必要はない。写真を撮り、昨日の顔と比べれば済む。もし本当に変化があるなら、写真に残るはずだ。残らないなら、疲労か錯覚だ。私はそうやって、ひとつずつ可能性を片づけていけばいい。
手帳を閉じ、立ち上がった。
襖へ向かう途中、背後で蝶番が鳴った。
私は振り返らなかった。
鏡の扉が開いた音だったのか、木材が温度で軋んだだけなのか、確かめることはできた。けれど確かめれば、また見てしまう。見れば、別の違いを探してしまう。
私は廊下へ出て、襖を閉めた。
そのとき、背後から祖母の声がした。
「灯里」
振り返る前に、私は息を止めた。
声は低く、柔らかく、私が子どもの頃に何度も聞いたものだった。けれど、それが本当に襖の向こうから聞こえたのか、頭の内側で記憶が鳴っただけなのか、私には判断できなかった。
母の足音が、台所の方から近づいてきた。
「起きてるなら、顔を洗って。朝ご飯できるから」
美鶴の声に、私はようやく息を吐いた。
「今行く」
返事をした自分の声が、少しだけ祖母に似ていた。
母が何か言い返す前に、私は手帳を胸へ押し当てた。紙の角が肋骨に食い込み、痛みが残った。その痛みだけが、まだ自分の輪郭をつなぎ止めているように思えた。
台所へ向かう途中、私は指先で右頬に触れた。
ほくろは、そこにあった。
ただ、どこにあるのが本当なのか、もうわからなくなっていた。
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