第1話 朝顔台の運び込み

線香の匂いは、着替えても髪からも抜けなかった。

柊谷灯里は本家の廊下を奥へ進みながら、喪服の袖口を指先で何度も撫でた。葬儀の間ずっと気になっていた癖だった。弔問客が焼香するたび、灰の匂いが線香の煙に混じって立ちのぼり、それが鼻の奥にこびりついて離れない。東京のマンションでは嗅いだことのない匂いだった。杉の柱、畳の藺草、そして年経た木材そのものが放つ乾いた匂い。すべてが祖母・里枝の体温と分かちがたく結びついていて、灯里はその匂いを吸うたびに、彼女がもうこの家のどこにもいないという事実を、肌で思い知らされた。

納戸は家の北側、廊下の突き当りにあった。灯里が子供の頃から「開けてはいけない部屋」として扱われていた場所だ。里枝はよくそこへ入って、長いこと出てこないことがあった。何をしているのかと尋ねると、「ちょっと片づけものよ」とだけ答えて、それ以上は何も言わなかった。

引き戸を開けると、湿った木の匂いと、長年染みついた線香の残り香が、低い天井の下で重たく混ざり合っていた。灯里は裸電球の紐を引く。黄色い光が段ボールの山を照らし出し、埃がゆっくりと舞い上がった。

「適当に見繕って、客間に運んでおいて」

背後から声がした。母の柊谷美鶴だった。手には香典返しの箱を抱え、もう片方の手で伝票を数えている。葬儀が終わってまだ半日しか経っていないのに、彼女の動きには一切の淀みがなかった。

「何を基準に選べばいいの」

灯里が訊くと、美鶴は箱の数を数え終えてから、ようやく視線をよこした。

「必要なものだけでいいわよ。着物や小物は親戚で分けることになってるから、触らないで。あんたが持っていっていいのは、誰も欲しがらない古道具くらい」

その言い方には棘があった。祖母の遺品を「誰も欲しがらない古道具」と片づける口調は、美鶴がこの家の空気に対してずっと抱いてきた苛立ちの表れのようにも聞こえた。灯里は黙って頷いた。言い返したところで、母はきっと片づけの手を止めないだろう。

段ボールの隙間を縫うように奥へ進むと、埃をかぶった布の塊があった。灰色の風呂敷に包まれて、縦に長い輪郭をしている。灯里は膝をついて布をめくった。

黒漆の鏡台だった。

脚は低く、台座は分厚い。正面には小さな両開きの扉があり、磨りガラスがはめ込まれている。表面の漆は長年の手入れでかえって艶を増しており、裸電球の光を鈍く照り返していた。灯里は記憶を探る。これを見たことがある。子供の頃、里枝の部屋の隅に、いつも布をかぶせて置かれていたものだ。触ろうとすると、里枝は珍しく声を荒げて灯里の手を止めた。あれに触るんじゃない、と。あのときの祖母の目を、灯里は今でも覚えている。普段は穏やかで、何を言われても柔らかく笑ってやり過ごすだけの人だったのに、あの瞬間だけは別人のように硬い声をしていた。

「これ、おばあちゃんの鏡台だよね」

灯里が声をかけると、美鶴は箱を数える手を止めないまま、廊下からちらりとこちらを見た。

「ああ、それ。朝顔台とか呼んでたやつ」

「朝顔台?」

「名前の由来は知らない。おばあちゃんがそう呼んでただけ。昔から処分しろって言っても絶対に頷かなかった。納戸に突っ込んで、誰にも触らせなかったのよ」

美鶴の声には、懐かしさよりも苛立ちに近いものが滲んでいた。灯里は鏡台の曇りガラスの小扉に指をかけた。乾いた蝶番が小さく軋む。扉の奥から、白粉の匂いがふわりと立ちのぼり、喉の奥にまとわりついた。甘く、粉っぽく、それでいてどこか湿った匂い。灯里は思わず息を止めた。

「これ、客間に運んでいい?」

「好きにして。でもね、灯里」

美鶴がようやく箱を置いて、こちらへ歩いてきた。喪服の裾を軽く払いながら、鏡台を見下ろす目には、何か複雑な感情が浮かんでいた。それは嫌悪とも、未練とも取れる、はっきりしない色だった。

「あんたが持ってく分には構わない。でも、変なことに引きずられないでね。この家には、昔から変な言い伝えが多いから」

「変な言い伝えって?」

「知らないほうがいいこともあるのよ」

美鶴はそう言うと、話を切り上げるように身を翻し、また香典返しの箱の前へ戻っていった。その背中は、何かを説明する手間を惜しんでいるというより、説明そのものを恐れているように見えた。灯里はその硬い肩の線を見つめながら、胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じた。この家に戻ってきてから、誰もがそうやって、言葉の途中で扉を閉めてしまう。

祖母の遺品は勝手に処分してはならない――葬儀の間、親族たちは口々にそう言っていた。叔父も、従兄弟も、近所の老人たちも。けれどその声のどれもが、まるで早く片づけてしまいたいものに触れるときのような、妙に平坦な響きを帯びていた。禁忌を口にしながら、誰もがその禁忌から目を逸らしていた。灯里にはそれが、何か共犯めいた沈黙のように思えてならなかった。

灯里は鏡台の脚に手をかけ、ゆっくりと抱え上げた。想像していたよりもずっと重い。木材そのものの重さだけではない、何か別のものが内側に沈んでいるような、不自然な手応えがあった。漆の表面は指先に冷たく、梅雨時の畳のようにわずかに湿り気を帯びている気がした。

納戸から客間までは、廊下を二つ曲がる距離だった。灯里は何度か持ち直しながら、慎重に運んだ。すれ違った親戚の老婆が、鏡台を一瞥して、ふっと目を逸らしたのが見えた。何か言いたげな顔をしていたが、結局何も言わずに頭を下げて通り過ぎていった。灯里はその態度の意味を考える余裕もなく、ただ重みに耐えながら歩き続けた。

客間は六畳の和室で、祖母の葬儀の間は親族の控え室として使われていた場所だった。今は誰もおらず、座布団だけが部屋の隅に積み上げられている。灯里は壁際の畳に鏡台を据えた。脚が畳にわずかに沈み込む感触があり、それだけで鏡台がこの部屋に根を下ろしたような、妙な既視感を覚えた。

窓の外はすでに暗くなっていた。障子越しに月明かりが差し込み、黒い鏡面の表面に細く長い光の筋を引いている。灯里はしばらくその場に座り込み、鏡台を見つめた。疲労が肩にのしかかっていた。葬儀、弔問客への対応、納骨の日取りの相談――この二日間でこなしてきたことの重みが、今ごろになって一気に押し寄せてくるようだった。

鏡を布で覆おうとして、灯里はふと手を止めた。自分の顔が、この鏡にどう映るのか、確かめたくなったのだ。理由はわからない。ただ、覆ってしまう前に、一度だけ見ておきたいという衝動があった。

布を外す。小さな両開きの扉を開く。磨りガラス越しではない、剥き出しの鏡面が現れた。長年の使用で、縁のあたりにわずかな曇りが浮いている。灯里はその前に膝をつき、自分の顔を覗き込んだ。

そこにいたのは、紛れもなく自分だった。目の下にはうっすらとクマが浮き、頬はむくんでいる。二日間ろくに眠っていない顔。見慣れた、疲れた自分の顔。灯里は小さく息を吐いた。気のせいだ。今日はいろいろなことがありすぎた。

だが、鏡から視線を外そうとした瞬間、ふと何かが引っかかった。もう一度覗き込む。むくんだ目元の、その奥。瞳そのものではなく、瞳を取り巻く皮膚の緩み方、まぶたの重たさ、視線の落とし方――そういう細部のどこかに、見覚えのある静けさが混ざっていた。

祖母の部屋で、何度も見た目つきだった。何かを言いかけて、結局飲み込んでしまうときの、あの静かな、どこか諦めたような目。灯里は息を止めて鏡を見つめ続けた。だが次の瞬間にはもう、それはただの疲れた自分の顔に戻っていた。見間違いだ、と彼女は思おうとした。

灯里は鏡台の前から立ち上がり、曇りガラスの小扉を閉めた。乾いた蝶番が、入ってきたときと同じ音で軋んだ。その音の響きだけが、やけに長く耳に残った。

東京で暮らしていた頃から、灯里には気になることを紙に書き出して片づける癖があった。不安なことも、腹立たしいことも、文字にしてしまえば少しは整理がつく気がした。会社の机の引き出しには、そうやって書き溜めた付箋が何十枚も貼ってあった。

鞄から手帳を取り出し、開く。ペン先を紙に置いたまま、灯里は少しのあいだ考え込んだ。何をどう書けばいいのか、自分でもわからなかった。「鏡に祖母が映った」などと書けば、それだけで自分がどうかしてしまったように思える。結局、灯里はごく短い一文だけを記した。

――朝顔台を客間に置いた。

それだけだった。書いた文字はいつも通りまっすぐで、乱れはどこにもなかった。けれど手帳を閉じようとしたとき、灯里はペンを持つ指先がかすかに震えていることに気づいた。震えを止めようと手を握り込んだが、冷たい痺れのようなものが指の腹に残り続けた。

窓の外で、風鈴が小さく鳴った。乾いた、硬い音だった。灯里は顔を上げ、暗い庭の方へ目をやった。誰もいない。ただ杉の木立が、月明かりの中で黒々とした影を作っているだけだった。

部屋に戻ろうとして、灯里はもう一度だけ鏡台を振り返った。布をかけ忘れていた。黒い鏡面が、障子越しの薄い光を鈍く返している。覆おうかどうか迷ったが、結局そのままにして、灯里は客間の電灯を消した。

暗闇の中、鏡だけがかすかに月光を宿していた。灯里はその場を離れながら、背中にずっと視線を感じていた。振り返る勇気はなかった。ただ、廊下を歩く自分の足音が、いつもより硬く、どこか他人のもののように聞こえた。

その夜、灯里はなかなか寝つけなかった。隣室に運んだ布団に横たわりながら、襖の向こうの暗がりに意識を向け続けた。葬儀の疲れのせいだ、と何度も自分に言い聞かせた。けれど瞼を閉じるたびに、鏡の奥で揺れたあの静かな目つきが、瞼の裏に焼きついて消えなかった。

遠くで、虫の声がやむことなく続いていた。柊谷の家は、祖母がいなくなってもなお、変わらない静けさを保っていた。その静けさの底に、灯里にはまだ名前のつけられない何かが、ゆっくりと沈み込んでいくのを感じていた。

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