第9話 言えないのではなく

真琴は、口元に当てていた手を下ろした。

白いスポットの端で、指先が小さく震えている。照明の熱が肌に残り、頬は薄く赤くなっていた。さっきまで舞台の中央にいたのに、今はその輪の外へ半歩だけ退いている。光から逃げたというより、光の中でこぼれた言葉を、暗がりから見直そうとしているようだった。

俺はフェーダーに置いた手を動かさなかった。

「失いたくないって、誰を?」

真琴は答えなかった。

空調の止まった体育館で、照明器具の冷却ファンだけが低く回っている。熱を持った金属の匂いと、古い床板の乾いた埃が混ざり、喉の奥に薄い膜を作っていた。遠くの校庭からは、模擬店の看板を固定する音が聞こえる。誰かが笑い、誰かが呼び合い、明日のためにまだ動き続けている。

舞台袖の暗がりだけが、時間から取り残されていた。

「……紬」

真琴は、ようやくそう言った。

「紬を失いたくない。今までみたいに、普通に話せなくなるのが嫌。紬が私に気を遣って、返事を選んで、少しずつ距離を置くようになったら、たぶん耐えられない」

「断られるのが怖いんじゃないのか」

「断られるのも怖いよ。でも、それは一回で終わるかもしれないじゃん。ごめんって言われたら、私も笑って、そっかって言える。たぶん、言える。言ったあとに、ひとりで泣けばいい」

真琴は笑おうとした。

だが、笑いは声になる前に崩れた。

「でも、紬が優しくなったら困る。私を傷つけないように、今までより丁寧に話すようになったら、たぶん私は、紬の優しさを好きなだけ受け取ってしまう。そうなったら、断られるより長く苦しい。何も終わらないまま、私だけが期待し続けるから」

「だから、言わないほうがいいと思った?」

「うん。言わなければ、少なくとも紬を困らせずに済む。私の中だけで終わらせられる」

「終わってない」

「分かってる」

「終わらせられないから、練習してる」

真琴は俺を見た。

光の中にいるときより、暗がりに半分沈んでいるときのほうが、その目の揺れがはっきり分かる。

「夕貴は、そうやってすぐ言葉をつなぐよね」

「つなぐ?」

「私が途中で止まると、次の場所まで道を作る。ここからこう言えばいい、こう考えればいいって。夕貴の中では、たぶん親切なんだろうけど、私はその道を歩くたびに、私の気持ちが夕貴の言葉になっていく感じがする」

「……悪かった」

「謝らないで」

「でも」

「謝られると、私が責めたみたいになる。私は、夕貴を責めたいんじゃない」

「じゃあ、何をしたい」

真琴は、すぐに答えなかった。

彼女は舞台中央の白い光を見た。床板の傷が浮かび、その外側に濃い影が広がっている。明るい場所にいるほど、暗がりは深くなる。けれど、その暗さはもう、逃げ込むためだけの場所ではなかった。光の範囲を知るために必要な余白にも見えた。

「自分で言いたい」

「紬に?」

「うん。夕貴の言葉を借りないで。きれいな文章にも直さないで。途中で止まっても、笑っても、変なことを言っても、自分の声で言いたい」

「分かった」

「でも、夕貴には聞いていてほしい」

「聞く」

「聞くだけ?」

「必要なら、止める」

「それは、私が逃げるときだけ」

「うん」

「迷っているときは?」

「待つ」

真琴は、そこで初めて少しだけ笑った。

「夕貴、やっと分かってきたじゃん」

「何が」

「支えるのと、代わりに立つのは違うってこと」

その言葉は、胸の奥に静かに落ちた。

九条先輩が舞台袖の時計を見た。進行表の端を親指で押さえ、紙がめくれないようにしている。

「もう一度、通す?」

先輩の声に、真琴は振り向いた。

「通します」

「本番と同じにするなら、相手を決めて」

「相手は……」

真琴の視線が俺へ向いた。

昨日までなら、俺がすぐに相手役を引き受けていた。真琴が頼み、俺が頷く。それで役割は決まった。

けれど今日は、真琴はすぐに言わなかった。

「夕貴でいい」

「いいのか」

「夕貴がいい」

その一言が、胸の奥で遅れて響いた。

「相手は紬じゃない」

「分かってる」

「俺の返事を、紬の返事だと思わないで」

「分かってるってば。夕貴は紬じゃないし、紬も夕貴じゃない。だから、夕貴には、夕貴として聞いてほしい」

九条先輩は何も言わず、照明卓の脇へ立った。

「始める」

俺が言うと、真琴は舞台中央へ歩いた。

床板がきしむ。

昨日よりも、その音は小さかった。歩き慣れた場所だからではない。音を立てることを怖がらずに、足を置いているからだと思った。

俺はフェーダーを上げる。

スポットの白が、真琴の肩と頬を照らした。目を細める。喉が上下する。ノートを持った指先が、紙の端を強くつまむ。それでも、彼女は袖の暗がりへ目を逃がさなかった。

「早瀬紬」

名前を呼ぶ。

声は、体育館の天井にぶつかり、少し遅れて戻ってきた。

「私、紬に言いたいことがある」

真琴はそこで一度、息を吸った。

俺は何も言わない。

「ずっと前から、紬のことが好きだった。……違う。好きだった、じゃない。今も好き。たぶん、明日も好きだと思う」

言い直して、真琴は眉を寄せた。

「今の、変?」

俺は首を横に振った。

「続けて」

「そういうところ。すぐ続けろって言う」

「続けたいなら」

「うん。続けたい」

真琴は、俺ではなく空席の客席を見た。

「紬が誰かと話していると、気になる。楽しそうにしていると、少し悔しい。疲れていると、何かしてあげたいと思う。そういう自分が嫌で、ただの憧れだと思おうとした。でも、憧れなら、こんなに名前を呼ぶ練習はしない」

言葉が、ひとつずつ床へ落ちる。

「紬の前で、私はいつも変になる。どうでもいい話をして、笑って、あとからひとりで後悔する。今日もたぶん、途中で変なことを言うと思う。でも、それを笑ってなかったことにしたくない」

真琴の声が震えた。

けれど、止まらなかった。

「私は紬が好き。紬のそばにいたい。今までと同じように話せなくなるのは怖い。嫌われるのも怖い。困らせるのも嫌。でも、怖いからって言わないままにしていたら、私はずっと、紬の隣で自分の気持ちを隠し続けることになる」

真琴は俺を見た。

「それは、紬のためじゃない。私が傷つきたくないだけだった」

俺は頷かなかった。

彼女が、自分の言葉を自分で確かめる時間を奪いたくなかった。

「だから、明日言う。返事を急がせたいわけじゃない。私を選んでほしいと押しつけたいわけでもない。ただ、私が紬を好きだということを、私自身がなかったことにしたくない」

真琴は、最後の言葉を置いた。

「……これでいいのかな」

俺は、すぐには答えなかった。

真琴は笑わなかった。冗談も言わなかった。白い光の中で、言葉を言い終えた自分をそのままにしている。

それが、昨日までとは違っていた。

「うん」

「本当に?」

「本当に」

「どこが?」

「紬に伝えたいことを、紬の代わりに決めなかった」

真琴は少し目を見開いた。

「それ、夕貴がずっと言ってたやつ?」

「たぶん」

「たぶん禁止」

「努力する」

真琴は、ようやく笑った。

その笑いは、逃げるためのものではなかった。言葉を言ったあとに残った顔を、隠さずに見せるためのものだった。

九条先輩が、舞台袖で進行表を閉じた。

「今のなら、聞く人のところまで届く」

真琴は先輩を見た。

「本当に?」

「届いたかどうかは、相手が決める。でも、届く形にはなっていた」

「届く形?」

「自分で言った言葉を、自分で消さなかった」

先輩は、赤いLEDの列へ目を落とした。

「舞台も同じ。照明を当てれば、客席からは見える。でも、光を当てた側が、見えたものの意味まで決めることはできない」

真琴は黙って聞いていた。

先輩はそれ以上、説明しなかった。必要なことだけ言い、残りは二人へ返す。いつものやり方だった。

真琴は舞台中央から降りてくる。

近づくにつれ、スポットの熱を帯びた肌の温度が伝わってくる気がした。触れてはいない。それでも、呼吸の速さと、制服の布が擦れる音が近い。

「夕貴」

「何」

「明日、紬に言う」

「うん」

「途中で止まるかもしれない」

「待つ」

「笑うかもしれない」

「笑った理由を聞く」

「逃げるかもしれない」

「戻るまで待つ」

「夕貴が、私を引っ張って戻すんじゃなくて?」

「戻るのは真琴」

真琴はしばらく俺を見ていた。

「それ、少し寂しい」

「どうして」

「夕貴に引っ張ってほしいときもあるから」

「必要なら手を貸す」

「必要かどうか、自分で決めろってこと?」

「そう」

「難しいなあ」

真琴は、舞台の端へ下りた。

「でも、やってみる。自分で決める。言えないんじゃなくて、言ったあとが怖いだけだったって、もう分かったから」

その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かが静かに動いた。

真琴は、言えない人ではなかった。

言うことを選ばずに済む場所を、ずっと守っていただけだ。失いたくないものを失わないために、言わないという形で抱え込んでいた。けれど、抱え込んだ気持ちは、誰にも触れられない代わりに、自分の中で少しずつ重くなる。

俺も同じだった。

誰かを支えるという形にしておけば、自分が何を望んでいるのか問われずに済む。真琴が笑えば、笑った理由を聞くことができる。けれど、自分がなぜ胸の奥をざらつかせているのかは、照明の角度やコードの位置に置き換えていた。

真琴は、俺の手元を見た。

「夕貴、またコード触ってる」

「癖だから」

「考えてるとき、いつもそうするよね」

「真琴も、ノートの角を折る」

「私のほうが分かりやすいじゃん」

「どっちも同じだ」

「同じじゃないよ。私は、折ったら戻せないけど、夕貴のコードは戻せる」

「戻せる」

「だから、夕貴はコードを触るんだよ。戻せるものに触ってると安心するから」

俺は、指先の下にある黒いゴムを見た。

絡まったケーブルは、ほどけば元に戻る。結び目の順番を探し、輪を一つずつ外し、最後にきれいに巻き直せばいい。

けれど、人の気持ちはそうならない。

一度言った言葉は、言わなかったことには戻せない。戻せないからこそ、そのまま抱えて歩くしかない。

「真琴」

「何?」

「俺も、明日、言う」

真琴の表情が変わった。

「私に?」

「うん」

「何を?」

「今は、まだ決めてない」

「それじゃ、告白の練習をする私と同じじゃん」

「たぶん」

「だから、たぶん禁止だって」

「でも、言わないことは決めた」

真琴は、目を逸らした。

「……そっか」

「返事は要らない」

「まだ何も言われてないのに?」

「言ったあと、すぐに答えなくていい」

「夕貴は、私に何を言うつもりなの」

俺は、フェーダーの横に置かれた小さなメモ帳へ目を落とした。角度の数字と暗転の秒数、その隙間に、何度も書き直した文字が残っている。

三度右。 暗転三秒。 帰る。

いつの間にか、その下に、別の言葉が増えていた。

残る。

「考えている」

「考えているだけで、明日言えるの?」

「言う」

「私の告白を見たあとに?」

「見たあとだから」

真琴は、すぐには返事をしなかった。

「私が紬に言うのを、夕貴は本当に見ていられる?」

「見る」

「苦しくても?」

「苦しくても」

「私が紬の隣に行っても?」

胸の奥が、わずかに縮んだ。

「行くなら、見送る」

「見送るって、帰るみたい」

「違う」

俺は真琴を見た。

「真琴がどこへ行くかを決めるのは真琴だ。でも、俺は見ているだけでは終わらない。明日、真琴が言ったあと、俺もここに立つ」

「舞台中央に?」

「必要なら」

「スポットを当てるのは?」

「自分でやる」

真琴は、少しだけ笑った。

「夕貴が照明を当てる側から、当てられる側になるんだ」

「そうかもしれない」

「眩しいよ」

「知ってる」

「逃げたくなったら?」

「逃げない」

「本当に?」

俺は一拍置いた。

「逃げたくなっても、戻る」

真琴はその言葉を聞き、ゆっくりと息を吐いた。吐いた息が、笑いに変わることはなかった。

九条先輩が、舞台袖のスイッチへ手を伸ばした。

「最後に一度、暗転」

俺は照明卓へ戻った。

真琴は舞台中央に立ったままだった。白いスポットが、彼女の足元と横顔を照らしている。明るい場所に立つほど、袖の暗がりは深くなる。けれど、真琴はもうそこへ目を逃がさなかった。

拍子木が鳴る。

乾いた音が、体育館の天井へ上がる。

俺は三秒を数えた。

一秒。

真琴の喉が動く。

二秒。

白い光の中で、彼女の指先がゆるむ。

三秒。

俺はフェーダーを下げた。

光が消え、舞台は暗くなった。

けれど、今度は真琴の足音がすぐには聞こえなかった。彼女は舞台中央に残り、暗がりの中で立っている。見えない。それでも、そこにいることだけは分かる。

やがて、慎重な足音が一つ鳴った。

中央から、袖へ。

俺のほうへ戻ってくる音だった。

「夕貴」

「何」

「明日、私が言えたら」

「うん」

「言えたら、私、笑うと思う」

「笑っていい」

「逃げるためじゃなくても?」

「笑いたいなら」

「じゃあ、笑ったあとも、私を見てて」

「見る」

「私が変わっても?」

「見る」

「夕貴が変わっても?」

俺は、暗い舞台中央へ目を向けた。

「見る」

真琴は、すぐそばまで来ていた。触れそうで触れない距離に立っている。彼女の呼吸が近い。機材の熱と、制服に残った埃の匂いが混ざって、夜の空気をわずかに温めていた。

「明日、ちゃんと言う」

「うん」

「早瀬紬が好きって」

「うん」

「言えないんじゃなくて、言ったあとが怖かっただけだって」

「それは、紬に言うのか」

「たぶん」

「たぶん」

「……今のは、まだ練習だから」

真琴は笑った。

小さな笑いだった。けれど、暗闇の中でその声は、どこにも隠れずに残った。

俺は照明卓の電源を一つずつ落とした。

赤いLEDが、列の端から消えていく。

最後の一つが消える直前、俺はメモ帳を開いた。角度と秒数の並ぶ紙の余白へ、ペンを走らせる。

明日、真琴が言う。 そのあと、俺も言う。

書いた文字は、赤い光の中では読みにくかった。

俺はペンライトを点け、白い円を紙へ落とした。光の中心だけが浮かび、周囲の文字は暗がりへ沈む。

それでも、書いたものは消えなかった。

扉を開けると、廊下の蛍光灯と、遠くの模擬店の明かりが体育館へ流れ込んできた。学校の外へ続く夜は、思っていたより近い。明日になれば、ここにも人が集まり、誰かの声が誰かの声を押し、舞台は本番の光に満たされる。

真琴が先に歩き出す。

俺は一度だけ振り返った。

暗い舞台の中央には、まだ照明器具の熱が残っていた。そこに誰もいないのに、白い光の輪郭だけが見える気がした。

言葉は暗転しても消えない。

一度こぼれた気持ちは、光の外側へ沈んだあとも、そこに立っている人間の足元を照らし続ける。

俺は扉を閉め、真琴のあとを追った。

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