第10話 第10話「光の外で」

朝の校舎は、前夜の静けさを知らない顔をしていた。
昇降口には生徒が集まり、段ボールを抱えたまま走る足音が重なっている。廊下の窓には、昨夜貼った養生テープが白い線を引き、そこへ朝の光が斜めに差し込んでいた。提灯はまだ消されていない。夜のための赤い灯りが、朝の薄い明るさの中で少しだけ場違いに見える。
俺は旧体育館へ向かう前に、スマホの画面を確認した。
母から、短いメッセージが届いている。
《朝ごはん、食べた? お弁当は鞄の外ポケット》
返事を打とうとして、指が止まった。
《食べた。今日、少し遅くなる》
それだけ送る。すぐに既読がついた。
《無理しないでね》
昨夜と同じような言葉だった。けれど、今日はその一文が、いつもより近く感じられた。
体育館の扉を開けると、冷えた空気の底に機材の匂いが残っていた。照明卓の赤いLEDは消えている。コードリールは昨夜と同じ位置にあり、メモ帳も、フェーダーの脇に置いたままだった。
紙を開く。
明日、真琴が言う。 そのあと、俺も言う。
暗い場所で書いた文字は、朝の光の下では妙に幼く見えた。けれど、消そうとは思わなかった。
「早いね」
背後から声がした。
振り返ると、九条先輩が入口に立っていた。片手に進行表、もう片方に熱い缶のお茶を持っている。髪には、朝の冷気で細い水滴がついていた。
「先輩こそ」
「舞台監督は、舞台より先に来るものだから」
先輩は俺の手元を見た。メモ帳の文字には触れず、照明卓の電源へ目を移す。
「昨夜のこと、後悔してる?」
「分かりません」
「なら、まだ後悔ではないね」
先輩は缶を開けた。小さな音が、誰もいない体育館に落ちる。
「言ったあとに後悔することはある。言わなかったことを後悔することもある。どっちが正しいかは、終わってみないと分からない」
「終わるんですか」
「舞台は終わる。気持ちは、たぶん少し遅れる」
先輩はそう言って、ステージの中央へ視線を向けた。
昨夜、真琴が立っていた場所。白いスポットが落ちるはずの床板には、薄い埃の跡が残っている。誰かが立っていたことは、光が消えたあとも消えない。
「夕貴」
「はい」
「今日、照明の調整は私が見る」
「でも」
「見届けたいなら、仕事を終わらせること。中途半端に機材へ残るのは、逃げるのと同じ」
先輩は進行表を俺へ差し出した。
「十時、舞台袖。真琴が紬を呼ぶ」
紙を受け取った指先が固くなる。
「知ってたんですか」
「昨日、本人が書いていた」
進行表の余白に、真琴の文字があった。
十時。 舞台袖。 逃げない。
「先輩は、真琴が言えると思いますか」
「それを決めるのは、真琴」
「分かってます」
「なら、聞かないほうがいい」
先輩は淡々と言った。
「人の勇気を、周りが予想してはいけない。成功すると思って見られるのも、失敗すると思って見られるのも、どちらも重いから」
その言葉を残して、先輩は舞台袖へ歩いていった。
俺は照明卓の電源を入れた。
赤いLEDが、ひとつずつ灯る。昨夜よりも明るい朝なのに、その小さな光は目立っていた。
十時までの時間は、思ったより短かった。
舞台袖には、紬が先に来ていた。手には台本と、実行委員の名札。髪を耳へかけ直してから、彼女は俺を見た。
「篠宮くん」
「早瀬」
「望月さんに呼ばれた」
「うん」
「何か、知ってる?」
質問は穏やかだった。けれど、逃げ道を塞ぐような響きはなかった。
俺は少し考えた。
「真琴が、自分で話す」
「そう」
紬はそれ以上聞かなかった。台本の端を指先で撫でている。いつもの癖だった。
「篠宮くんは、ここにいるの?」
「いる」
「最後まで?」
「真琴が望むなら」
紬は一度、俺の顔を見た。
「望月さんは、あなたがいるときだけ、少しだけ正直になるね」
胸の奥に、昨夜の言葉が戻ってくる。
私、夕貴の前だと、だめだね。
「俺がいるからじゃない」
「そうかもしれない」
紬は、舞台中央へ目を向けた。
「でも、いることには意味があると思う」
その言い方は、慰めではなかった。返事を急がない人間の声だった。
足音が近づいてきた。
真琴だった。
いつものように軽く手を上げようとして、途中でやめる。笑顔も、まだ作られていない。手には、昨夜のノートがあった。表紙の角は擦れている。破ったページの跡が、厚みの中に残っていた。
「おはよう、紬」
「おはよう」
「朝から呼び出してごめん。しかも文化祭当日に」
「大丈夫」
その返事に、真琴の喉が動いた。
俺は一歩、舞台袖の奥へ下がった。見える場所にはいる。けれど、真琴の隣には立たない。
真琴がこちらを見た。
ほんの一瞬だけ、目が揺れる。
俺は頷かなかった。手も貸さなかった。ただ、そこに残った。
真琴はノートを開き、すぐに閉じた。
「紬。私、話したいことがある」
「うん」
「昨日、何を言うか、すごく考えてきた。紙にも書いたし、何度も練習した。だから、たぶん、途中で変なことを言う。笑うかもしれない。止まるかもしれないけど……」
真琴は息を吸った。
体育館の高い天井が、声の続きを待っている。
「それでも、最後まで聞いてほしい」
紬は、少しだけ身体を傾けた。
「聞く」
短い返事だった。
真琴の指先から、ノートがゆっくり下がる。
「私、紬が好き」
言葉は、思っていたより静かだった。
けれど、今度は誰にも遮られなかった。
拍子木は鳴らない。タイマーも動かない。体育館の外のざわめきさえ、遠くへ退いている。
真琴は紬を見ていた。
俺は、その横顔を見ていた。
白いスポットはまだ点いていない。真琴は光の中心ではなく、その手前に立っている。それでも、隠れてはいなかった。
紬はすぐに答えなかった。
一拍。
二拍。
真琴の呼吸が乱れる。
それでも、逃げない。
紬はやがて、台本を閉じた。
「話してくれて、ありがとう」
その声は、いつもと変わらなかった。だからこそ、真琴の肩がわずかに揺れた。
俺はフェーダーへ手を伸ばしかけて、止めた。
今、光を当てる必要はない。
真琴はもう、自分の足で立っている。
紬の次の言葉を、俺はまだ知らない。真琴も知らない。けれど、知らないまま聞くことを、彼女は選んだ。
俺は暗い舞台袖で、手のひらを握った。
今日、真琴がここからどこへ行くのかは、真琴が決める。
そのあとで、俺も言う。
まだ形のない言葉を、今度は誰かのために整えるのではなく、自分の声で。
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