第8話 これでいいのかな

真琴はノートを抱えたまま、ステージの端に座り込んだ。
膝の上で開いた紙には、同じ一文が何度も書き直されている。黒いインクの濃淡が重なり、消しゴムのかすが白い粉になってページの隅へ寄っていた。書きかけの文字の上から別の言葉を重ねたせいで、紙はところどころ毛羽立っている。
俺は舞台袖に立ったまま、そのページを見ていた。
声をかけるべきか迷う。
迷ったままでも、そばに立っていられることを、この夜のあいだに覚えた。以前なら、何かを言って空気を整えようとしただろう。水を渡す。照明を少し落とす。別の話をする。相手が困らない形を先に作る。
けれど今は、真琴が黙っている理由を、俺の都合で片づけたくなかった。
「これでいいのかな」
真琴が言った。
声は小さく、ほとんど独り言に近かった。だが、それが台本の確認でも、明日の段取りでも、冗談でもないことは分かった。
真琴はノートをめくった。
「好きです」 「好き、だよ」 「ずっと前から、気になっていました」 「紬のことが好き」
書かれた言葉を指先で追い、すぐにページを閉じる。爪先が床板をこすった。きゅ、と乾いた音がして、そのたびに古い木の粉が靴の先へ集まっていく。
「何が?」
俺が聞くと、真琴は顔を上げなかった。
「全部。言葉も、タイミングも、私の顔も。明日、紬の前に立ったとき、今みたいに途中で止まったらどうしよう。笑ってごまかしたらどうしよう。逆に、余計なことまで言って、紬を困らせたらどうしよう」
「余計なことって?」
「好きな理由とか、いつから好きだったとか、紬のどこを見てるとか。そんなの、言われても困るでしょ。いきなり、あなたのこういうところが好きです、なんて並べられたら、逃げたくなるよ」
「紬は、逃げないと思う」
「どうして分かるの」
「分からない」
「じゃあ、言わないでよ」
真琴の返しは早かった。けれど、そのあとに続く笑い声はなかった。
舞台の上には、さっきまで通し確認で使っていた白いスポットの熱が残っている。照明は落ちているのに、空気だけがまだ温かい。機材の金属臭と埃の匂いが、喉の奥へ薄く入り込んできた。
俺はステージへ上がった。
床板の継ぎ目を避けて歩く。舞台中央へ近づくほど、コードリールの熱が足元から伝わってきた。真琴の隣へ行き、少し距離を空けて座る。肩が触れない位置。けれど、彼女の呼吸が聞き取れる程度の距離だった。
真琴はノートを閉じたまま、表紙を撫でている。
「紬は、明日、待ってくれるかな」
「待つと思う」
「また、分からないのに」
「紬は、人の話を途中で遮らない」
「それは、話の内容が普通ならね」
「告白は普通じゃないのか」
「普通じゃないよ。私にとっては」
真琴は、膝を抱えるようにして少し背中を丸めた。普段は姿勢が崩れない。教室でも、実行委員の作業中でも、誰かが見ている限りは明るく顔を上げている。今は誰も見ていないから、ようやく体の重さを預けられるのだろう。
「私、何度も先延ばしにしてきたんだよ」
「知ってる」
「知ってたの?」
「前にも、今日こそ言うって言ってた」
「言ったっけ」
「帰り道に」
「そうだっけ」
「そのあと、紬の台本の話をしてた」
真琴は額へ手を当てた。
「ああ……あったね。紬が台本に付箋を貼る位置がきれいだとか、紙を折らないのが偉いとか、どうでもいいことを延々と話したやつ」
「どうでもよくはないだろ」
「どうでもいいよ。あれは、私が紬のことを好きだって言わないために探した話だから」
真琴は笑った。けれど、その声には自分を笑っている響きがあった。
「言わないためなら、いくらでも話せるんだよ。紬が何を飲んでたとか、どんな字を書くとか、髪を耳にかける回数が増えたとか。そういうことは、いくらでも覚えてる。でも、好きって一言だけは、何度書いても消してしまう」
「どうして?」
「言ったら、紬に知られるから」
「好きなのに、知られたくないのか」
「知られたいよ。でも、知られたあとが怖い」
真琴はノートを開き、ページの中央に残った「好き」の二文字を見た。
「好きだって知られたら、紬は私を見る。今までと同じ目で見てくれるかもしれないし、少し困った目をするかもしれない。避けるかもしれない。優しくするかもしれない。どれも怖い。知られないままなら、私は紬のそばにいられる。勝手に好きでいて、勝手に期待して、勝手に諦められる。でも、知られたら、私だけの気持ちじゃなくなる」
「紬の気持ちも関わるから?」
「うん。私が好きだと思っているだけなら、誰も答えなくていい。でも、紬に伝えたら、紬は何かを返さなきゃいけなくなる。返したくないのに、私が言ったせいで返事をさせることになる。それが嫌」
「返事をさせるために言うんじゃない」
「そう言っても、言われた側は困るよ」
「困るかどうかは、紬が決める」
真琴がこちらを見る。
「夕貴、最近そればっかり言うね」
「何を」
「紬がどう思うかは紬が決める、って。私が先回りして考えるなってことでしょ」
「真琴が全部決める必要はない」
「でも、夕貴も同じじゃん」
胸の奥に、細い線が引かれた。
「俺が?」
「私が何を言うか、どこで止めるか、いつ戻すか。全部、夕貴が決めようとしてる。私が困らないように、傷つかないように、失敗しないように。優しいけど、優しすぎて、私が自分で失敗する場所までなくなる」
「そんなつもりはない」
「つもりがあるかどうかは関係ないよ」
真琴は、開いたノートを閉じた。
「夕貴は、私が何も言わなくても待ってくれる。だから、私は夕貴の前でだけ、何度でもやり直せる。でも、やり直せる場所があると、本番へ行かなくても済むんだよ。ここで何度も言って、夕貴が分かったって言ってくれたら、それで少し安心してしまう」
その言葉に、俺は返せなかった。
練習相手になることで、真琴を前へ進ませているつもりだった。だが、俺の前で言葉を重ねるほど、真琴が本番を先送りできる場所を作っていたのかもしれない。
「俺が、練習を終わらせないといけない」
「違う」
「何が」
「私が終わらせるの」
真琴は、ノートのページを一枚破った。
紙が裂ける音は、体育館の中で思ったより大きかった。書き直された言葉が、途中から二つに分かれる。真琴は破った紙を丸めず、そのまま膝の上へ置いた。
「夕貴が終わらせたら、私はまた夕貴のせいにできる。だから、私が終わらせる。明日、紬に言う。言えなくても、言えなかったって自分で知る。笑ってごまかしても、笑ってごまかしたって認める。誰かのせいにしない」
「怖くないのか」
「怖いよ」
真琴は、喉元へ手を当てた。
「さっきからずっと、ここが詰まってる。何か飲んでも、息をしても、言葉だけが引っかかる。明日になったら、もっとひどくなると思う。でも、怖いから言わないっていうのを、もう何度もやったから。怖いまま言うしかない」
「それでいい」
「本当に?」
「怖いままでいい」
真琴は、こちらを見た。
「夕貴が言うと、許可みたいに聞こえる」
「許可じゃない」
「じゃあ、何?」
俺は返事をする前に、一度、コードリールへ手を置いた。金属はまだ温かい。指先へ移る熱を確かめると、ほんの少しだけ呼吸が戻った。
「真琴が決めたことを、俺が軽く扱わないっていう意味」
「……それ、ずるい」
「何が」
「そんな言い方されたら、また言いたくなる」
「言えばいい」
「ほら、すぐ言う」
「言いたいなら」
真琴は黙り、舞台の中央を見た。
作業灯が床板の傷を淡く照らしている。白いスポットほど強くはないが、足元と、そこに落ちた紙片の位置だけは分かる。完全な暗闇ではない。だが、隠れるには十分な暗さだった。
「これでいいのかな」
真琴が、もう一度言った。
今度は、俺ではなく、舞台中央へ向けて。
「好きって言って、紬が困って、私も困って、それでも言わなかったことには戻れなくなって。そんなふうにしてまで、言う意味があるのかな」
「あると思う」
「どうして?」
「言わないままなら、真琴は紬の隣にいる自分を、ずっと疑うから」
真琴は目を伏せた。
「自分を疑う?」
「紬の隣にいる理由を、全部別の言葉にする。委員会が同じだから。準備があるから。話しやすいから。そうやって、好きだということだけを避け続ける」
「……うん」
「それは、紬のためじゃない」
「私のためでもない」
「だから、言ったほうがいい」
「夕貴は、言うほうが正しいと思ってる?」
「正しいかは分からない」
「また分からない」
「でも、真琴が言いたいと思っていることは分かる」
真琴の指が、膝の上でゆっくり開いた。
「言いたい」
その声は、今まででいちばん小さかった。
「言いたいのに、言ったら終わる気がする。紬との関係も、夕貴との関係も。今までの私には戻れない。戻りたくないって思うのに、戻れなくなるのが怖い」
「戻れないことが、全部悪いわけじゃない」
「夕貴は、変わるのが怖くないの?」
問いかけられて、俺は舞台の外側を見た。
暗い客席。畳まれた椅子。窓の向こうで点滅する模擬店の灯り。明日の朝になれば、ここには人が溢れる。誰かの声が誰かの声を押し、拍手が床を震わせ、今夜の沈黙は簡単に消えていく。
「怖い」
「何が?」
「真琴が、俺の知らないところへ行くこと」
真琴の呼吸が止まった。
俺は言葉を続けた。
「紬に言って、紬の隣に立つ。そうなったら、今までみたいに俺のところへ来なくなるかもしれない。俺が練習相手でいられなくなる。そう考えると、嫌だと思う」
「……嫌なんだ」
「うん」
「それは、私が心配だから?」
「それだけじゃない」
「じゃあ、何?」
俺は、光のない舞台中央を見た。
「まだ分からない」
真琴は笑わなかった。
「そこは、ちゃんと分からないんだね」
「たぶん」
「そこは、たぶんなんだ」
「真琴が言った」
「そうだった」
真琴の口元が、かすかに緩んだ。
「私ね、夕貴に応援してほしいと思ってた。紬に言うのを、最後まで見ててほしいと思ってた。でも、夕貴が何でも平気な顔で応援したら、少し嫌だった」
「どうして」
「私が紬のことを好きだって言っても、夕貴が何も揺れなかったら、私だけがこの場所に取り残される気がするから。夕貴は舞台の袖にいて、私だけが光の中へ出ていく。そうなったら、戻ってきても、夕貴はもう同じ顔で待ってない気がする」
「俺は、同じ顔をできないかもしれない」
「うん」
「でも、待つ」
「待つだけ?」
俺は真琴を見る。
「明日、真琴が紬に言ったあと、俺も言う」
真琴の指が止まった。
「何を?」
「今の気持ち」
「私に?」
「真琴に」
「紬にじゃなくて?」
「俺が今、誰に言うべきかは分かってる」
その言葉は、口から出てから自分の中へ戻らなかった。
真琴は長いあいだ黙っていた。体育館の外から、模擬店の灯りを消す音が聞こえた。ブレーカーを落としたのか、窓に映っていた電球が一列ずつ暗くなる。明日の熱気は、まだ遠くで息をしている。
「私、返事できないかもしれない」
「すぐに返さなくていい」
「紬に言う前に、夕貴の気持ちを聞いたら、私、また混乱するかもしれない」
「だから、明日、真琴が言ったあとにする」
「私が紬に言える前に、夕貴が私を好きだとか言ったら、絶対逃げる」
「言わない」
「逃げ道、ちゃんと残してくれるんだ」
「必要なら」
「でも、明日は逃げないで」
「逃げない」
真琴はノートを閉じ、胸へ抱えた。
「じゃあ、もう一回だけ」
「まだやるのか」
「今度は、練習じゃない言い方で聞いて」
「どうすればいい」
「私が言うから、夕貴は何も直さないで。頷くか、頷かないかだけ」
「分かった」
真琴は立ち上がった。
ステージの端から中央へ歩いていく。床板の継ぎ目を避ける足取りは、いつもよりゆっくりだった。白いスポットは落とさなかった。作業灯だけの淡い光が、彼女の輪郭を部分的に拾っている。明るい場所へ出るときより、暗がりから半分だけ見えているときのほうが、彼女の呼吸が近く感じられた。
真琴は舞台中央で振り返った。
「早瀬紬」
名前を呼んだ。
声は震えたが、目は逸れなかった。
「私は、紬が好き。紬のことを考えると、嬉しいし、苦しいし、近くにいるだけで変なことを言いたくなる。紬の隣にいたい。でも、隣にいられなくなるのが怖くて、今まで何度も言わないほうを選んだ」
そこで一度、唇を結ぶ。
俺は頷かなかった。促さなかった。
真琴は続けた。
「言わないほうが、紬のためだと思ってた。でも、本当は自分が傷つかないようにしてただけだった。だから、明日言う。紬がどう答えるかは、紬が決める。私は、私が好きだと思っていることだけを、自分で引き受ける」
真琴は、俺を見た。
「これでいいのかな」
俺は、ゆっくり頷いた。
「うん」
「変じゃない?」
「変じゃない」
「重くない?」
「重い」
真琴は一瞬、顔をしかめた。
俺は続けた。
「でも、真琴の言葉だから、それでいい」
真琴の目に、わずかに光が浮いた。泣いているわけではない。ただ、作業灯の反射が瞳の表面で揺れた。
「夕貴」
「何」
「今の、ちゃんと聞いてた?」
「聞いた」
「私が、紬に言うって?」
「聞いた」
「明日、逃げないって?」
「聞いた」
「じゃあ、明日、見てて」
「見る」
「でも、私が言い終わったら、すぐに何か言わないで」
「分かった」
「私が紬の返事を聞くまで、そばにいて」
「うん」
真琴は一歩だけこちらへ近づいた。
暗がりの中で、彼女の呼吸が近くなる。肌に残った機材の熱と、制服に染みついた埃の匂いが混ざっていた。肩が触れそうな距離まで来たのに、真琴は手を伸ばさなかった。俺も動かなかった。
「私、夕貴のことを今すぐ決めたくない」
「決めなくていい」
「でも、なかったことにはしない」
「うん」
「夕貴が言ったことも、私が言ったことも、明日になったら、全部なかったことにするのはやめよう」
「やめる」
真琴は小さく息を吐いた。
その息は、笑い声にならなかった。けれど、苦しさだけでもなかった。
舞台袖から、九条先輩が声をかける。
「そろそろ閉める」
「はい」
俺が返事をすると、真琴はステージ中央を振り返った。
「最後に、照明を入れて」
「眩しいぞ」
「今は、見えたほうがいい」
俺はフェーダーへ手を伸ばした。
赤いLEDの列が、暗い袖で一斉に明滅する。スイッチを上げると、天井のライトが遅れて灯り、白い光が舞台中央へ落ちた。
真琴の横顔が、光の中へ浮かび上がる。
目元の赤みも、唇の震えも、指先に残ったインクの跡も、隠れずに見えた。
真琴はその光の中で、もう一度だけ言った。
「これでいいのかな」
俺は、フェーダーを握ったまま答えた。
「これでいい」
その声は、昨夜よりも低く響いた。
真琴は目を細め、光の外側を見た。それから、ゆっくりと俺へ顔を戻す。
「じゃあ、明日」
「明日」
拍子木が鳴った。
乾いた音が、言葉の続きを切る。
けれど今度は、真琴は止まったままでも笑わなかった。白い光の中に立ち、言いかけたものを言いかけたまま、消さずに残している。
俺は三秒を数えた。
一秒。
二秒。
三秒。
フェーダーを下げる。
光が消え、舞台は暗くなった。
その暗がりの中で、真琴の足音が一つ鳴る。中央から袖へ戻る音。俺のすぐそばへ近づく音。
「夕貴」
「何」
「帰ろう」
「うん」
今度は、俺のほうから一歩動いた。
扉の向こうには、提灯の赤い明かりと、消えかけた模擬店の灯りがあった。校舎のどこかでは、まだ誰かが明日のために机を運んでいる。遠い笑い声が、夜の廊下を細く流れていた。
俺は照明卓の電源を落とす。
赤いLEDが、一つずつ消えていく。
最後の一つが消える前に、俺は舞台中央を見た。
そこにはもう、真琴はいない。
けれど、光の下でこぼれた言葉は、暗転しても消えていなかった。自分の中にも、真琴の中にも、明日へ持っていくものとして残っている。
扉が閉まる。
旧体育館の暗闇に、俺たちの足音だけが並んだ。
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